風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

幸いな死、という死に方もある?

あなたの死者は命を得る。イザヤ書26:19

 今からのち、
主に結ばれて(主にあって、新改訳)死ぬ人は幸いである。
“霊”も言う。
然り。
彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。黙示録14:13

 Ⅱコリント6:1~10
 エゼキエル書42:15~43:12(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/17;金)

今は、イエスが、私たちの身代わりになって、
私たちの「的外れ」の責任をご自身に負って、
十字架刑での処刑を受けてくださっているのだそうです。

 〔父である神〕は、
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)
と思われて
私たち人間を創造されたのだそうです。

 けれども、最初の人、アダムとエバは、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になる道を選択して(創世記3:5、22)、
その、創造の目的からズレてしまったのだそうです。
 そして、このアダムとエバから出た私たち人間のすべてが、
この「的外れ」を引き継いで生まれて来ているのだそうです。

 〔父である神〕は、その「的外れ」になっている私たち自身、
〔生まれた時からの私」という霊を、
この、イエスの十字架刑での処刑に合わせて、
死刑を受けた者、死んだものと手続きしてくださっているのだそうです。

 そして、受け入れる者に、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、
この方によって、
私たちの心にご自身の御思いを置いてくださり、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、
一つ心になり、
ご自身が私たちを通してしようと思われることを私たちがしていく、
私たちが、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって生きていく、
新しい生き方を生きていく者にしようとしていてくださるのだそうです。

 イエスが〔父である神〕と一つになっておられたように、
わたしたちの思いが〔父である神〕の御思いの中にあり、
〔父である神〕の御思いが私たちの心にある、
一つ心にしてくださって。

血肉のもの、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
〔生まれた時からの私〕という霊でしてきたことは、
神の国を継ぐことはできないのだそうです(Ⅰコリント15:46~50)。

 しかし、〔父である神〕の御思いの中にあってしていくことは、
そのまま、天の御国につながっているのだそうです。
天に積まれた貯金のように(マタイ6:19~21)。

 

だから、今からのち、
主の中で生きて来た者の死は、幸いだと言われるのでしょうね。
労苦を解かれ、
安らぎを得、
命を得るのだそうですから。
神の子の栄光に包まれて。

〔父である神〕は、すべての人に、これを受け取ってほしいと、
ご自身と心を一つにして、
天の御国にそのままつながっている生き方を生きて行ってほしいと願っていてくださるのだそうです。
幸いな死を死ぬ者に。
確かに、今は恵みの時、今は救いの日、なのだそうですから。
今日も。

 

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光に向かって

国々はあなたを照らす光に向かい、
王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
イザヤ書60:3

 神の国では、
後の人で先になる者があり、
先の人で後になる者がある。
ルカ13:30

 Ⅰヨハネ2:18~26(27~29)
 エゼキエル書40:1~16(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句11/16;木)

 人々は、私たちを照らしてくださる天の神、主の光を求め、
国を指導する立場にある人たちも神からの光を求めるようになるということでしょうか。

 私たちの「的外れ」の責任を負って、
私たちの身代わりになって、
十字架刑での処刑を受けてくださったイエスを通して来て下さる
〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
〔父である神〕の御思いを私たちの心に置き、
進むべき道へと導いてくださるのだそうです。

 それで、その導きについて行く人が先になり、
自分は先にいると思っている人も、
自分の善悪の判断を先立てていくと、
後の者になってしまうようです。
今日も。

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一人の王、一つの心になって

あなたたちは
私たちの神、主と
心を一つにしなければならない。
列王記上8:61

 主に結び付く者は
主と一つの霊となるのです。
Ⅰコリント6:17

 ヘブル書13:1~9b
 エゼキエル書37:15~28(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/15;水)

エスは言われました。
「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)。


 「その時、あなたがたはわたしが何であるか、
また、わたしが自分からは何事もせず、
ただ父がわたしに教えられたとおりに、
これらのことを話していることを、知るようになる」(ヨハネ8:28)。

「わたしが話していることは、
父がわたしに言われたとおりを、
そのままに話しているのです」(ヨハネ12:50)。

 

「御霊は自分から語るのではなく、
聞くままを話し、わたしの栄光を現します。
わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです」(ヨハネ16:13~14)。

 

「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、
わたしがあなたにいるように、
彼らもわたしたちにおるようになり、
わたしたちが一つであるように、
彼らも一つであるためです」(ヨハネ17:21~22)、と。


〔父である神〕は、考えられたのですね。
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
わたしたちが一つであるように、
わたしたちと一つになるものを造ろう、と。

 そして、「人が、ひとりでいるのは良くない。
男はその父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となる」(創世記1:18、24)、と。

それゆえに、わたしたち人間が、
神である主と、心を一つにして生きることは、
創造の目的にかなっていること、正しいことなのですね。

 それで、神である主に背を向け、
神と心を一つにすることを止め、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」、自分の理性を神とし、
自分を自分の王とし、
自分の理性の、善し悪しの判断によって生きる者になっている(創世記3:5、22)、
わたしたち自身である〔生まれた時からの私〕という霊を、
〔父である神〕は、
御子イエスが受けられた十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑済みのもの、死んだ者とし、

受け入れる者に、もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
受け入れる者が、「主と一つの霊」から来る思いで生きるようにしてくださるのだそうです。

 夫と妻が、本来的には一つ心になるように。
それで、言われるのですね。
「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。
寝床を汚(けが)してはいけません」(ヘブル13:4)、
一人の男と一人の女が結婚によって一体となっている、
それをこわしてはいけません、と。


天の神、主は言われます。
「神である主はこう仰せられる。
見よ。わたしは、北王国、イスラエルの諸部族と、
南王国、ユダ部族を合わせて、
わたしの手の中で一つの国とする。

 わたしはイスラエル人を、その行っていた諸国の民の中から連れ出し、
彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。
わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、
ひとりの王が彼ら全体の王となる。
彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。

 彼らは二度と、その偶像やいまわしいもの、
またあらゆるそむきの罪によって身を汚(けが)さない。
わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、
彼らをきよめる。

わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。
これは彼らとのとこしえの契約となる。
わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、
わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。
わたしの住まいは彼らとともにあり、
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エゼキエル37:15~27)、と。

 

 私たちにも、
神に対抗して、自分で自分の王になっている、
〔生まれた時からの私〕という霊を、
エスが受けてくださった十字架刑での処刑に合わせていただいて、
死んだものとしていただき、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
天の神、主と一つの霊になり、
〔父である神〕と一つ心になって生きる者が受け継ぐ
御国の約束があるのですね(黙示録21)。
今日も。

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うれしい、心おどる歩みを

天にしるしを見る者、
星によって占う者、
新月によってお前の運命を告げる者などを、
立ち向かわせ、
お前を救わせてみよ。
見よ、彼らは焼き尽くされるにすぎない。
イザヤ書47:13~14

 私の子どもたちが
真理に歩んでいると聞くことほど、
うれしいことはありません。
Ⅲヨハネ4

 エレミヤ書18:1~10
 エゼキエル書37:1~14(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/14;火)

 私たちは、自分の判断に余ることを、
占星術や占い、そのほかの霊的な力によって知ろうとするのですね。

 けれども、天の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方は言われます。
「それらのものにお前を救わせてみよ。
それらは、焼き尽くされるにすぎず、
わざわいの日に、お前を救い出すことはできない」、と。

 また、言われます。
「粘土が、陶器師の手の中にあるように、
あなたがたも、私の手の中にある。
わたしが、一つの国、一つの王国について、
引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、
もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、
わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す」(エレミヤ18:1~9)、と。


 使徒ヨハネは言います。
私の子どもたち(イエスをキリスト〔救い主〕と認め、天の神、主に立ち返った者たち)が、
真理に歩んでいる、まことの神を神として歩んでいる、と聞くほどうれしいことはありません、と。

天の神、主は、私たちに、
立ち返って、
ご自身と心を一つにして歩む者になってほしいと願っておられるのだそうですね。

エゼキエルが見た幻のように(エゼキエル37:1~14)、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)、
私たち自身である〔生まれた時からの私〕という霊で生きる生き方は、
いのちのない、枯れ果て、干からびた骨のようであり、
良い実を結ぶことのできないもの。

 だから、それを、イエスの十字架刑での処刑に合わせて、
処刑済みのもの、死んだものとするから、
新しく、霊の息吹を受けて生きる者に、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
わたしと思いを同じくし、心を一つにして、
本当の意味で生きる者になろうよ、と。
わざわいが過ぎ越す、通り過ぎる者に、と。
今日も。

 

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私たちを執り成してくださる方によって

今や、恵みの時、今こそ、救いの日。Ⅱコリント6:2(11/12の週の聖句)

 心の中で兄弟を憎んではならない。
同胞を率直に戒めなさい。
そうすれば彼の罪を追うことはない。
レビ記19:17

 怠けている者たちを戒めなさい。
気落ちしている者たちを励ましなさい。
弱い者たちを助けなさい。
すべての人に対して忍耐強く接しなさい。
Ⅰテサロニケ5:14

 ルカ17:20~24(25~30)
 詩110(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/12;Ⅱ日)


悩む心を解き放ち、
痛みから私を引き出してください。
詩25:17

 あらゆる人知を超える神の平和が、
あなたがたの心と考えとを
キリスト・イエスによって守るでしょう。
フィリピ書4:7

 Ⅰペテロ4:7~11
 エゼキエル書36:16~32(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/13;月)

天の神、主、「『わたしはある』という者と名乗られる方は言われます。

「わたしは、恵みの時にあなたに答え、
救いの日にあなたを助けた」と。

 そして、確かに、今は、その恵みの時、今こそ救いの日だと仰るのですね。
それで、私たちが、ただ一人で悩んでいる時、
心の苦しみが大きくなったときにも、
苦悩のうちから私たちを引き出してくださるのだそうです。

 思い煩いの一つ一つを見ていただき、知っていただいて、
神の平和の中で安心して今日をやっていけるようにしてくださるのだそうです。

 天の神、主は、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)、
私たち自身である〔生まれた時からの私〕という霊を、
エスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑済みのもの、死んだものとしてくださっているのだそうです。

 その上で、もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって、
この方によって私たちの心に、ご自身の御思いを置いてくださり、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、
一つ心になって、
一つ行動をとるようにし、
御思いのとおりに生きるようにしてくださるのだそうですから(エレミヤ31:33、エゼキエル36:25~32)。
私たちにご自身の「子」の身分を与え、
ご自身の家族としてくださって。

 それで、私たちは、このままで、はばかることなく、
恵みの御座に近づいて
このままを見ていただいて、知っていただいて大丈夫なのだそうです。

 私たちの心にも、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕の、互いに愛し合う思いが来て、
つぶやかないで、互いに親切にもてなし合う思い、
神からいただいている賜物をよく管理し、
その賜物を用いて互いに仕え合う心にもしていただけるのだそうです。

 語る人は、神のことばにふさわしく語り、
奉仕する人は、神が豊かに備えてくださる力によって、
その力にふさわしく奉仕し、
怠けている者たちを戒め、
気落ちしている人たちを励まし、
弱い人たちを助け、
すべての人に対して忍耐強く接するようになり、
神をあがめていく思いも与えていただけるのだそうです。(Ⅰペテロ4:7~11)。
この新しい週も。

 

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陰府(よみ)、死の力も対抗できない御力をもって

わたし自身が
イスラエルを囲む火の城壁となると、
主は言われる。
ゼカリヤ書2:9(新改訳は2:5)

 イエスの言葉:
わたしは
この岩の上にわたしの教会を建てる。
陰府
(よみ)の力もこれに対抗できない。マタイ16:18

 Ⅱテモテ2:1~5(6)
 エゼキエル書34:23~31(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/11;土)

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、エゼキエルを通して言われます。

「わたしは彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。
彼は彼ら(イスラエル)を養い、彼らの牧者となる。
主、「『私はある』という者」であるわたしが彼らの神となり、
わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。
主であるわたしがこう告げる。

 わたしは彼らと平和の契約を結び、悪い獣をこの国から取り除く。

彼らは安心して荒野に住み、森の中で眠る。

わたしは彼らと、わたしの丘の回りとに祝福を与え、

季節にかなって雨を降らせる。

それは祝福の雨となる。

野の木は実をみのらせ、地は産物を生じ、

彼らは安心して自分たちの土地にいるようになる。

 

 わたしが彼らのくびきの横木を打ち砕き、

彼らを奴隷にした者たちの手から救い出すとき、

彼らは、わたしが、「『わたしはある』という者」であることを知ろう。

彼らは二度と諸国の民のえじきとならず、

この国の獣も彼らを食い殺さない。

彼らは安心して住み、もう彼らを脅(おびや)かす者もいない。

 

 わたしは、彼らのためにりっぱな植物を生やす。

彼らは二度とその国でききんに会うこともなく、

二度と諸国の民の侮辱を受けることもない。

このとき、彼らはイスラエルの家がわたしの民であることを知ろう。

  ――神である主の御告げ――

 

 あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。

あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。

  ――神である主の御告げ――」  (エゼキエル34:23~31新改訳)、と。

 

 

 そして、ペテロ(ペトロス:石)が告白した

「あなたは、生ける神の子キリストです」という岩(ペトラ)の上に、

ご自身のからだとして、

救われ、神の子としていただいた者の群れを建てる、と仰るのですね。

 

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方ご自身が、

約束のことばのとおりを実現してくださり、
火の城壁となって守ってくださると。

今日も。

 

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自分の実態を認める、心の貧しい人を招いて

エレミヤの言葉:
わが民の破滅のゆえに
私は打ち砕かれ、
嘆き、恐怖に襲われる。
ギレアドに乳香がないというのか。
そこには医者がいないのか。
エレミヤ書8:21、22

 イエスの言葉:
医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく
病人を招いて悔い改めさせるためである。
ルカ5:31、32

 ルカ22:49~53
 エゼキエル書34:1~16(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/10;金)

医者がいるのに、薬があるのにいやしてもらえない。
牧者が自分に任された羊を養わず、
弱った羊を強めず、
病気のものをいやさず、
傷ついたものを包まず、
迷い出たものを連れ戻さず、
失われたものを捜さず、
かえって力づくと暴力で彼らを支配し、自分を肥やしている(エゼキエル34:1~8)。

それで、天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は仰るのですね。
「わたしは失われたものを捜し、
迷い出たものを連れ戻し、
傷ついたものを包み、
病気のものを力づける。
わたしは肥えたものと強いものを滅ぼす。
わたしは正しいさばきをもって彼らを養う」(34:9~16)、と。

エスは、自分を捕らえに来た大祭司のしもべを、
ペテロが剣で打ち、その耳を切り落としたのを、
「やめなさい。それまで」と言われて止めさせ、
手を伸ばして、耳にさわっていやされたのだそうです(ルカ22:49~51)。

エスは言われます。
「わたしが来たのは、丈夫な人、正しい人を招くためではなく、
病人をいやし、
罪びとを招いて、神に立ち返らせるためだ」、と。

そして、霊の貧しい者、救いを、助けを求めて来る者の
そむき、「的外れ」の責任をご自身で負ってくださって、
ご自身が受けてくださった十字架刑での処刑に合わせて、
私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を死刑にされたもの、
処罰が済でしまっている者、
死んでいる者と手続きしてくださるのだそうです。

そのうえで、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって、
この方の働きで、
私たちの心に〔父である神〕の御思いを置いてくださり、
受け入れる者が、〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにし、
〔父である神〕が私たちを通してしようと思われることをしていく者に、
行動を一つにする者にしてくださるのだそうです。
いつも一緒にいて、存在を一つにする者とも。

 だから、イエスがおられるところに
私たちもいることにもしてくださるのだそうです(ヨハネ12:26)。
今日も。

 

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