風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

うれしい、心おどる歩みを

天にしるしを見る者、
星によって占う者、
新月によってお前の運命を告げる者などを、
立ち向かわせ、
お前を救わせてみよ。
見よ、彼らは焼き尽くされるにすぎない。
イザヤ書47:13~14

 私の子どもたちが
真理に歩んでいると聞くことほど、
うれしいことはありません。
Ⅲヨハネ4

 エレミヤ書18:1~10
 エゼキエル書37:1~14(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/14;火)

 私たちは、自分の判断に余ることを、
占星術や占い、そのほかの霊的な力によって知ろうとするのですね。

 けれども、天の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方は言われます。
「それらのものにお前を救わせてみよ。
それらは、焼き尽くされるにすぎず、
わざわいの日に、お前を救い出すことはできない」、と。

 また、言われます。
「粘土が、陶器師の手の中にあるように、
あなたがたも、私の手の中にある。
わたしが、一つの国、一つの王国について、
引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、
もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、
わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す」(エレミヤ18:1~9)、と。


 使徒ヨハネは言います。
私の子どもたち(イエスをキリスト〔救い主〕と認め、天の神、主に立ち返った者たち)が、
真理に歩んでいる、まことの神を神として歩んでいる、と聞くほどうれしいことはありません、と。

天の神、主は、私たちに、
立ち返って、
ご自身と心を一つにして歩む者になってほしいと願っておられるのだそうですね。

エゼキエルが見た幻のように(エゼキエル37:1~14)、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)、
私たち自身である〔生まれた時からの私〕という霊で生きる生き方は、
いのちのない、枯れ果て、干からびた骨のようであり、
良い実を結ぶことのできないもの。

 だから、それを、イエスの十字架刑での処刑に合わせて、
処刑済みのもの、死んだものとするから、
新しく、霊の息吹を受けて生きる者に、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
わたしと思いを同じくし、心を一つにして、
本当の意味で生きる者になろうよ、と。
わざわいが過ぎ越す、通り過ぎる者に、と。
今日も。

 

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