風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

幸い!なんですね

いかに幸いなことでしょう、
背きを赦され、
罪を覆っていただいた者は。
詩32:1

 イエスの言葉:
この人が多くの罪を赦されたことは、
わたしに示した愛の大きさでわかる。
赦されることが少ない者は、
愛することも少ない。
ルカ7:47

 Ⅱコリント3:2~8(9)
 ヘブル書10:26~31(通読箇所)
   (ローズンゲン「日々の聖句」5/24;木)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』と名乗られる方は、
私たちのそむきを赦し、
「的外れ」をおおい、
ご自分との正しい関係に連れ戻してくださる方なのですね。
最初から。天地の造られる前から。

 だから、自分のそむき、「的外れ」の大きさに気づき、苦しんでいる者は
この方のもとに来て、言い表し、赦しを願うのだそうです。

 ダビデが、
「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、
私の骨々は疲れ果てました。
私は、自分の罪を、あなたに知らせ、
私の咎を隠しませんでした。
私は申しました。
『私のそむきの罪を主に告白しよう。』
すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」(詩篇32:3、5)
とうたっているように。

 自分の赦されなければならない罪が、少し、と思っている人は、
少しの感謝、少しの愛ですが、
多く赦される必要があると分かり、
その多くの罪を赦していただいた者は多く愛するのだそうです。
500デナリ(例えば500万円)の借金を返すことができなくて
赦してもらった人と、
50デナリ(例えば50万円)の借金を赦してもらった人の違いのように。

 あるパリサイ人
(自分は神に熱心で、律法を守っており、一般の人たちのようではないと自負していた人)が
エスを食事に招いたのだそうです。

 彼は、食事に招くこと自体で
エスに対する尊敬を充分に表していると思っていたのでしょうね。
それで、大切な客にはする、
家に入って来た時に出す足を洗う水を出さず、
口づけもせず、頭に油を塗ることもしなかったのですね。

 ところが、その町で罪深い女と知れ渡っている人が、
香油の入った石膏のつぼを持ってそのパリサイ人の家に入って来て、
エスのうしろで御足のそばに立ち、
涙でイエスの足をぬらし、
髪の毛でぬぐい、
エスの足に口づけして、
香油を塗ったのだそうです。

 これを見たパリサイ人は、心ひそかに、
「この方(イエス)がもし預言者なら、
自分にさわっている女がだれで、
どんな女であるか知っておられるはずだ。
この女は罪深い女だから」と思ったのだそうです。

 しかし、イエスは言われたのだそうです。
「わたしは言います。この女の多くの罪は赦されています。
彼女は多く愛したのですから。
赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」

 そして彼女に、
「あなたの罪は赦されています。
あなたの信仰(神への信頼)があなたを救ったのです。
安心して行きなさい」(ルカ7:36~50、一部、新改訳2017)、と。

 モーセを通して結ばれた最初の契約は、
天の神、主の御思いが石の板に書かれ、
私たちは、自分の努力でこのことばのような生き方をしようとするもの、
文字に仕えるものでした。

 その結果は、このパリサイ人のようであり、
私たちの罪を確定し、死に導くものでした。

 新しい契約は、
エスの十字架での処刑により、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑済み、死んだものとし、

 墓に葬られ、
三日目に、死人のうちより、新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
私たちの心に
〔父である神〕の御思いを置き、書きつけて、
受け入れる者の心を一新し、
受け入れる者が〔父である神〕と同じ思いを思い、
一つ心になって生きる、
私たちを「御霊に仕える」生き方をする者に(Ⅱコリント3:6)、
新しく生まれさせる(ヨハネ3:3~6)もの、なのだそうです。

 私たちは、人となられた神の御子、イエスが、
十字架刑での処刑においてささげてくださった血によって締結された
この新しい契約(ヘブル10:29)に生きる者にしていただけるのだそうです。

 大きなそむき、「的外れ」を赦していただきながら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いの中、
私を通してしようと思っておられる栄光の御業の中に。
今日も。

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怒りを遅くし、自分の心を治め、互いの向上に役立つことを求める思いが心に来て

 忍耐は力の強さにまさる。
自制の力は町を占領するにまさる。
箴言16:32

 平和や
互いの向上に役立つことを
追い求めようではありませんか。
ロマ書14:19

 エフェソ書3:11~14
 ヘブル書10:19~25(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/23;水)

 忍耐し、怒りを遅くする者は
力の強い勇士にままさり、
自制し、自分の心を治める者は
町を攻め取り、占領するのにまさるのだそうです。

 その怒りや自分で治めることが困難な思いは、
私たちの「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
〔生まれたときからの私〕という霊から出て来ているものなのですね。

 それで、この〔生まれたときからの私〕という霊をを、
エスの十字架刑での処刑に合わせていただいて
死んだものとしていただき、
この私自身である〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いを、
死んだものから出て来た思いだと認めて、
これを横に置き、横に見て行きながら、

 十字架刑での処刑を受けて、墓に葬られ、
三日目に死人の中から新しいからだに復活し、
天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いによって生きるなら、
私たちも、〔父である神〕の忍耐、怒りを遅くする心で生きることになり、
自制、自分の心を治め、
平和に、互いの向上に役立つ生き方をするようになるのだそうです。

 この、神と心を一つにして生きるという新しい生き方は、
神の永遠のご計画、天地が造られる前からのご計画であって、
エスにおいて成し遂げられたものなのだそうです。

 この生き方をしている者は、
エスに合わせられたものとして、
大胆に確信をもって神に近づくことができるのですね(エペソ3:11~12)。

 イエスは、ご自分の肉体をもって
十字架刑で処刑を受けることによって
この新しい生ける道を設けてくださり、
神の家をつかさどる大祭司として、
〔父である神〕の右の座にいて、
私たちを執り成し、弁護していてくださるのだそうです。

 だから、勧められているのですね。
私たちは、心にイエスの血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、
からだをきよい水で洗われたものとして、
全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

 約束された方は真実な方ですから、
私たちは動揺しないで、
しっかりと希望を告白しようではありませんか。

 また、互いに勧め合って、
愛と善行を促すよう注意し合おうではありませんか。
ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、
かえって励まし合い、
かの日(イエスが二度目に来られる日)が近づいているのを見て、
ますますそうしようではありませんか(ヘブル10:19~25、新改訳)、と。

 いよいよ、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方が、心に置いてくださる御思いについて行き、
〔父である神〕の忍耐、怒りを遅くする心、
自制、自分の心を治め、
平和に、互いの向上に役立つ生き方に進めますように。
今日も。

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行き詰り、弱り果てた私たちを

 主は、
弱り果てた私を救ってくださる。
詩116:6

 パウロの手紙:
キリストの力が私の内に宿るように、
むしろ大いに喜んで
自分の弱さを誇りましょう。
Ⅱコリント12:9

 Ⅰコリント14:1~5、27~40
 ヘブル書10:1~18(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/22;火)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
弱り果てた、おとしめられた私たちを救ってくださる方、
「わたしの力は、
あなたの弱さのうちに完全に現れる」と言われる方(Ⅱコリント12:9)。

 それで、パウロは言うのですね。
「キリストの力が私をおおい、
私の内に宿るように、
むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」、と。

 天の神、主との関係にあっては、
私たちは弱くていい、弱いほどいい、ということでしょうか。

 私たちの、その、弱さの場所に、
天の神、主は来てくださり、
御力をもって覆ってくださるのだそうですから。

 だから、神様との関係においては、
(霊)の貧しい者、
悲しんでいる者、
自分には義がなくって、義に飢え渇いている者は
幸いだって言われるのでしょうね(マタイ5:3~6)。

 イエスは、私たちが、
この、神との正しい、あるべき関係に回復されるために、
ただ一度、十字架刑での処刑を受けて、
永遠のいけにえとしてご自分をささげてくださったのだそうです。

 そのご自分の死によって、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている」(創世記3:5、22)
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑済み、死んだもの、としてくださっているのだそうです。

 そのうえで、新しい霊のからだに復活し、
天の父である神の右の座に帰られ、
受け入れる者に、もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。

 この方は、私たち一人一人に対する
〔父である神〕の御思いを、
それぞれの心に置き、書きつけてくださって、
受け入れる者が〔父である神〕と同じ思いを思い、
一つ心になるようにし、
私たちを、イエスのからだ、肢体とし、
からだがその人の思うとおりに動くように、
私たちが、〔父である神〕がしようと思われることをしていく者に
してくださるのだそうです(ヘブル10:1~18)。

 それで、受け入れる者には、
〔父である神〕の愛の思いが来るようになり、
その愛において、
〔聖である霊〕と呼ばれる方がされるとおりに(使徒2:4)、
異言でもって人々に語るようにもなり、
預言をするように
もなるのだそうです。

 けれども、
「神のひとりのようになりたい」私たちの〔生まれたときからの霊〕は、
その〔聖である霊〕と呼ばれる方の働きの現れである
異言や預言をもってさえも、
自分が他の人よりも霊的になった、
神のひとりに近くなったと誇り、
これ見よがしに人に誇示するようになってしまうのですね。

 パウロは、そのようになり、混乱しているコリントの集まりに対して、
〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
愛をもって、お互いの徳を高めるよう、
適切に、秩序をもって働いてくださる方ですよと

諭しているのですね
(Ⅰコリント14152740

 そのような、
神様の働きを自分の栄光にすり替え、
受け取り違いをしてしまう私たちですが、
それでも、〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちの心に〔父である神〕の御思いを置き、書きつけて、
私たちが〔父である神〕と一つ心になって歩むよう、
働いてくださるのだそうです。
私たちの弱り果て、自分の死を受け取っている場に。
今日も。

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からだが、その人の思うとおりに動くように

弱者を虐げる者は造り主を嘲る。箴言14:31

 あなたがたの寛容を、
みんなの人に示しなさい。
主は近い。
フィリピ書4:5(口語訳)

 マタイ16 :13~19
 Ⅰコリント12:4~11
 詩81(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/21;月)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
弱い者、寄るべのない者を特に御心に留めておられる方なのですね。

 だから、このような人たちを虐げる者は、
この人たちを造られた方を嘲り、そしることになるのだそうです。

 天の神、主は寛容なお方、
私たちを寛容な心で扱ってくださっておられるお方。

 私たちの〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、
弱い人を嘲り、しいたげる思いですが、
エスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって私たちの心に来る御思いは、
弱い人を憐れむ、寛容な思いなのだそうです。


 「あなたがたは、わたしをだれと言いますか」とのイエスの問いに、
ペテロは
「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えたのだそうです。

 するとイエスは、
「バルヨナ
(ヨナの子)・シモン。
あなたは幸いです。
このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、
天にいますわたしの父です。

 では、わたしもあなたに言います。
あなたはペテロ
(ペトロス;石)です。
わたしはこの岩
(ペトラ;岩、岩盤)の上にわたしの教会を建てます。
ハデス
(黄泉、陰府)の門もそれには打ち勝てません。

 わたしはあなたに天の御国のかぎを上げます。
何でもあなたが地上でつなぐなら、
それは天においてもつながれており、
あなたが地上で解くなら、
それは天においても解かれています」と(マタイ16:13~19)。

 「イエスが神の御子、キリストである」との告白の上に、
キリストのからだは建てられるというのですね。

 そして、からだが、その人の思うとおりに動き、
その人の思うことを実現していくように、
エスは、
エスを神の御子、キリストと認め、
自分の救い主としていく者の、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
〔生まれたときからの私〕という霊を、
ご自分の十字架刑での処刑に合わせてくださって
死んだものとしてくださり、

 さらに、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
その人の心に、〔父である神〕の御思いを置いてくださり、
その人が、
〔父である神〕がその人を通してしようと思っておられることを
していくようにしてくださるのだそうです。

 天で、〔父である神〕の御思いの中でつながれていることを、
ペテロが、地でつなぎ、
天で、〔父である神〕の御思いの中で解かれていることを、
ペテロが、地で解いていったように。

 それで、〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
〔父である神〕が思っていらっしゃるとおりに、
ある人には知恵のことばを与え、
ほかのある人には知識のことばを与え、
またある人には、特別なことを成し遂げる信仰を与え、
ある人を通してはいやしをなし、
ある人を通しては奇蹟を行い、
ある人を通しては預言、
ある人を通しては霊を見分ける業を、
ある人を通しては異言、
ある人を通しては異言を解き明かされ、
そして、それらの全部が一つからだの働きなのだそうです(Ⅰコリント12:4~11)。

 だから、私たち、
自分のおもんばかりのままに歩く者ですけれど、
それを死んだものから来た思いであると認めて、
エスが遣わしてくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いについて行く
詩篇81:12)といいのだそうです。
〔父である神〕の、弱い人を思いやる、寛容な思いに。
今日も。

 

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武力によらず、権力によらず、ただ、わが霊によって

武力によらず、
権力によらず、
ただわが霊によって、
と万軍の主は言われる。
ゼカリヤ書4:6(5/20の週の聖句)

 主の手が短くて救えないのではない。
主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
むしろお前たちの悪が、
神とお前たちとの間を隔てている。
イザヤ書59:1~2

 イエスの言葉:
わたしが行けば、
弁護者をあなたがたのところに送る。
その方が来れば、
罪について、
義について、
また、裁きについて、
世の誤りを明らかにする。
ヨハネ16:7~8

 ヨハネ14:23~27
 詩99(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/20;Ⅲ日曜、ペンテコステ聖霊降臨祭)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方が事を行われるのは、
〔わが霊〕によると仰られるのですね。
武力によってでもなく、
権力によってでもなく。

 私たちは、神が私たちの祈りに応えられないのは、
神の手が短くて、
あるいは、神の耳が遠くて応えられないのだと思うのですね。

 けれども、神である主は仰られます。
それはおまえたちの悪、「的外れ」が、わたしとの間を隔て、
仕切りとなり、御顔を隠させててしまっているせいだ、と。

 だから、イエスは仰るのですね。
わたしが行けば、
わたしが、あなたたちの悪、「的外れ」の責任を負って、
あなたたちの身代わりとなり、
神に呪われた者となって、十字架刑での処刑を受けて、
あなたがたの、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、
〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑された者、死んだものとしたうえで、

新しい霊のからだに復活し、
天の父である神の右の座に帰ったならば、

弁護者、もう一人の助け主、
〔わが霊〕と言われる〔聖である霊〕と呼ばれる方を
あなたがたのところに派遣すると。

 その方が来ると、罪について、義について、裁きについて、
私たちの認識の誤りを明らかにする、と。

 イエスの十字架刑での処刑による救いの手続きが完了した、
その時には、
 罪とは、このイエスによる、神からの恵みのプレゼントを、
信じないこと、受け取らないことであり、

 イエスが父である神の右の座に帰られて、
受け取る者にご自身の義を着せてくださるので、
私たちは、自分の力で律法を守って、
神の前に義と認めてもらう義を立てなくてよくなること、

 そして、この世の支配者、サタンが
自分の滅びに私たちを道連れにしようとする道が閉ざされ、
サタンの滅びが確定することになる(ヨハネ16:9~11)、と。

 その方は、受け入れる者の心に、

ご自身の神への愛の思いを置いてくださるので、
受け入れる者も神を愛する思いをいただいて、
エスと同じ思いを願うようになり、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
受け入れる者のところに来てくださり、
ともに住んでくださることになる、と。

 それで、この方をお迎えする者は、
エスが、
「助け主、
すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、
あなたがたにすべてのことを教え、
また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを
思い起こさせてくださいます。

 わたしは、あなたがたに平安を残します。
わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。
わたしが与えるのは、世が与えるのとは違います。
あなたがたは心を騒がせてはなりません。
恐れてはなりません」(ヨハネ14:23~27、新改訳)
と言われたとおりにしていただけるのだそうですから。

 武力によらず、権力によらず、
ただこの方によって。
この新しい週も。

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ご自分の死によって、遺言を有効にして

 主は打ち砕かれた心の人々を癒し、
その傷を包んでくださる。
詩147:3

 イエスは人々を迎え、
神の国について語り、
治療の必要な人々を癒しておられた。
ルカ9:11

 ヨハネ16:5~15
 ヘブル9:16~28(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句5/19;土)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
心の打ち砕かれた人々をいやし、
その傷を包んでくださる方なのですね。

 それで、イエスは、
人々に神の国について語るとともに、
治療の必要な人々をいやしてくださったのですね。

 人々は、イエスが王となって、
いつまでも、自分たちと一緒にいてほしかったのでしょうが、
エスが世に来られた目的は、
私たちの身代わりとなり、
私たちの「的外れ」の責任をご自身の身に負って
十字架刑での処刑を受けられ、
私たちの、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって、
「的外れ」になっている〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑済みのもの、死んだものとし、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちに来る道をひらくことだったのですね。

 だから、イエスは、処刑を受け、去って行かなければならなかった。
それでイエスは言われます。
「わたしは真実を言います。
わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。
それは、もしわたしが去って行かなければ、
助け主があなたがたのところに来ないからです。
しかし、もし行けば、
わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
その方が来ると、
罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
 ~~~
わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、
今あなたがたはそれに耐える力がありません。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、
あなたがたをすべての真理に導き入れます。

 御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、
また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

 御霊はわたしの栄光を現します。
わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
父が持っておられるものはみな、わたしのものです。
ですからわたしは、
御霊がわたしのものを受けて、
あなたがたに知らせると言ったのです。」(ヨハネ16:5~15、新改訳)。


 遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。
遺言は、人が死んだとき、はじめて有効になるのですから。

 また、血を注ぎだすことがなければ、
罪の赦しはないのだそうです。

 イエスは、多くの人の罪を負い、
ご自身をいけにえとしてささげて血を注ぎだし、
ご自身の死によって遺言を有効なものとし、
多くの人の罪を取り除いてくださったのだそうです。

 イエスは、多くの人の罪を負うために一度、
ご自身をささげられましたが、
二度目には、罪を負うためにではなく、
彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのだそうです(ヘブル9:16~28)。

 そして、その時までは、
天の、〔父である神〕の右の座にあって、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を
受け入れる者に派遣してくださって、
この方によって、
私たち一人一人に対する〔父である神〕の御思いを、
それぞれの心に置いてくださって、
受け入れる者が〔父である神〕と心と思いを一つにし、
〔父である神〕がしようと思われることをしていく者に
してくださるのだそうですから。

 ご自身がそうであったように、
私たちにも、〔父である神〕のしようと思われるとおりに、
神の国のことを語り、病をいやすようにと。

 イエスのことばのとおりに。
今日も。

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神々を造る私たちを、ご自身の血によって贖い、赦して、生ける神に仕える者へと

 この民は金の神を造りました。
彼らの罪をお赦しください。
出エジプト記32:31~32

 手で造ったものなどは神ではない。
使徒19:26

 エフェソ書1:15~23
 ヘブル書9:11~15(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句5/18;金)

 奴隷とされていたエジプトから脱出したイスラエルの民、
45日目にシナイの荒野に入り、シナイ山のすぐ前に宿営したのですね。

 そこで、天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は
モーセを呼んで仰せられたのだそうです。

 「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、
イスラエルの人々に告げよ。

 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、
また、あなたがたを鷲の翼に載せ、
わたしのもとに連れて来たことを見た。
今、もしあなたがたが、
まことにわたしの声に聞き従い、
わたしの契約を守るなら、
あなたがたはすべての国々の民の中にあって、
わたしの宝となる。
全世界はわたしのものであるから。
あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。
これが、イスラエル人にあなたが語るべきことばである」と。

 モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、
主が命じられたことばをみな、彼らの前に述べた。
すると民は口をそろえて答えた。
「私たちは主が仰せられたことを、みな行います。」
それでモーセは民のことばを主に持って帰った。

 モーセは主のことばを、ことごとく書きしるし、民に読んで聞かせた。
すると、彼らは言った。
「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います。」
そこで、モーセは、いけにえの血を取って、民に注ぎかけ、
そして言った。
「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、
主があなたがたと結ばれる契約の血である」(出エジプト19:1~8、24:3~8、新改訳)。

 このようにして、初めの契約は結ばれたのですね。
けれども、神に呼ばれ、シナイ山に登ったモーセ
山から降りて来るのに手間取っているのを見て
モーセは40日ほど、シナイ山にいたようですから)、

 民は祭司アロンに言ったのだそうです。
「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。
私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、
どうなったのか、私たちにはわからないから。」

 そして、金の子牛を造り、
イスラエルよ。
これがあなたがたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言って、
金の子牛の像にいけにえをささげ、
民はすわっては飲み食いし、
立っては戯れた(出エジプト32:1~6)のだそうです。
人間の手で作った物など、神ではないのに。

 イエスの神、すなわち栄光の父は、
神を知るための知恵と啓示の御霊と呼ばれる方を
私たちに派遣してくださるのだそうです。

 私たちの心の目がはっきり見えるようになって、
神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、
私たち、イエスによって救われた者が受け継ぐものが
どのように栄光に富んだものか、

 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が
どのように偉大なものであるかを私たちが知ることができるようにと。

 〔父である神〕は、その全能の力をイエスのうちに働かせて、
エスを死者の中からよみがえらせ、
天上においてご自分の右の座に着かせて、
すべての支配、権威、権力、主権の上に、

 また、今の世ばかりでなく、
次に来る世においてもとなえられる、
すべての名の上に高く置かれました。

 また、神は、いっさいのものをイエスの足の下に従わせ、
いっさいのものの上に立つかしらであるイエスを、
信じる者の集まりにお与えになり、
信じる者の集まりを、イエスのからだとし、
いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の
満ちておられるところとしてくださっているのだそうです(エペソ1:17~23)。

 イエスは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、
初めの契約によるやぎと子牛の血によってではなく、
ご自分が、十字架刑での処刑によって流された血によって、
ただ一度、天のまことの聖所に入り、
永遠の贖いを成し遂げられ、

 傷のないご自身を、
とこしえの御霊によって神におささげになったその血によって、
私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、
生ける神に仕える者としてくださるのだそうです。

 イエスは、新しい契約の仲介者として、
ご自分の死によって、私たちの、初めの契約の違反を贖(あがな)い、赦し、
神の召しに応えた者たちが
永遠の資産の約束を受けることができるように
してくださっているのだそうですから。
今日も。

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