風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

慈しみ、恵み、まことであられる方が、私たちに来てくださって

 神よ、遣わしてください。
慈しみとまことを。
詩57:4

 私たちは、
御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、
またそのことを証ししています。
Ⅰヨハネ4:14

 Ⅱペテロ1:16~21
 ヘブル書12:12~17(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句6/1;金)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私たち、願う者に慈しみ、恵みとまことをお遣わしくださる方。

 ヨハネは言うのですね。
〔父である神〕が、〔御子である神〕を人として、
約束の「女の子孫」(創世記3:15)として、
ダビデの子孫」であるナザレ村の一処女マリヤの胎を通して、
この人の世に派遣されたこと(ルカ1:26~38、2:1~21)、

 イエスが十字架刑での処刑を受け、
死んで葬られ、
三日目に死人のうちより新しい霊のからだによみがえり、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて
ご自分が生きていることを見せ、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、雲に迎えられ、
天の父である神の右の座に帰られた出来事は、
うまく考え出した作り話ではなく、
この人間の歴史の中で、
事実として起こった出来事であり、
私たちはそれを見て、証言しているのだ、と。

 ペテロも、
「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです」と書きしるしています。
聖なる山でイエスとともにいて、
「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である」との、
おごそかな、栄光の神からの御声を自分自身で聞いた、と。

 私たちは確かな預言のみことばを持っているので、
夜明けとなって、開けの明星が心の中に上るまでは、
暗い所を照らすともしびとして、
その預言のことばに目を留め、
すでに知っており、
現に持っている真理に堅く立っているとはいえ、
いつもこれらのことを聞き、読んで、思い起こすように、と(Ⅱペテロ1:16~21)。

 イエスが、天の〔父である神〕の右の座にあって派遣してくださる
もう一人の助け主(ヨハネ14:16)、
慈しみ、恵み、まことであられる方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
受け入れる者の心に〔父である神〕の御思いを置いてくださり、
私たちの弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしてくださるのだそうです。
なえた足が関節をはずさないため、
いやされるために、道をまっすぐにしてくださり。

 すべての人との平和を追い求め、
聖められることを追い求め、
主を見ることが出来るように。

 そのために、よく監督して、
だれも神の恵みから落ちることがないように、
また、苦い根が芽を出して悩ましたり、
これによって多くの人が汚されたりすることがないように、と。

 また、不品行の者や、
一杯のレンズ豆の煮物と引き換えに
自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような(創世記25:29~34)、
俗悪な者、
この世的な物質主義者にならないように(ヘブル12:12~17)、と。

いつも、私たちと共にいて。
 今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

神の国(統治)の中で

 私は知っています。
主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ、
乏しい人のために裁きをしてくださることを。
詩140:13

 貧しい人は幸いである。
神の国はあなたがたのものである。
ルカ6:20
 エフェソ書4:1~7
 ヘブル書12:1~11(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/31;木)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
悩む者、貧しい人の訴えを取り上げ、
乏しい者のために裁判をしてくださる方、なのですね。

 この方は、また、
心の貧しいもの、霊の貧しい者は幸いなのだとおっしゃられる方。
神の国はあなたがたのものだ、と。

 心の、霊の貧しい者が、神の統治を受け入れる、
神の御心を求めて生きるようになるということなのでしょうか。


 私たちは、とかく、
自分を富んだ者、豊かな者、立派な者にしたくて
キリスト教会と呼ばれる所に来ています。

 けれども、天の神、主は、私たちが、
的外れになっている者、
霊の貧しい者、負債しか持っていない者であることを
気づかせようとされるようです。

 イエスを、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受けていく方向は、
自分が、「役に立たないしもべ」、
「有りて甲斐なき者」、
居ると場所ふさぎで、ないほうがいい者であることが分かって、
それを認めていく方向だと(ルカ17:10)。

 私たち、「神のひとりのようになろう」とし、
「善悪を自分の理性の判断だけで決めていくようになっている者」(創世記3:5、22)は、
天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方と
心を一つにすることを嫌い、
この方に背き、対立、対抗して、
この方の向こうを張って、
あのパリサイ人のように(ルカ18:11~12)、
「私は、あなたのおことばどおり、
こんなこともあんなこともできるようになりました」
と言える者になりたいのですね。

 そして、「私は自分でちゃんとやれますから、
もう、あなたの憐み、恵みは、私には必要ありません。
御子イエスを私のために十字架刑で処刑するなんて、
あなたは、無駄な、私に必要のないことをなさいましたね」、と。

 そして、天の神、主の統治に入ろうとしないで、
自分の王国を建て上げていこうとするのだそうです。
「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行う」生き方を(士師21:25)。

 しかし、自分の、その「的外れ」の存在に気づき、
霊の貧しさに気づき、
自分がそのようなものであることを認めて、
神に立ち返る者を、
天の神、主は、
あの、家出をした放蕩息子が帰って来るのを待ちわびていた父親のように(ルカ15:11~24)受け入れ、

 その、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
〔生まれたときからの私〕という霊を、
エスが受けられた十字架刑での処刑に合わせて、
処刑済みのもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、〔父である神〕は、
死んで葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って弟子たちに何度も現れ、
ご自分が生きていることを見せ、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、
天の父である神の右の座に帰られたイエスを通して、

もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです(ヨハネ14:16~20)。

 この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方が、私たちの心に、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを置き、
書きつけてくださるので(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、
受け入れる者は、〔父である神〕と一つ心にしていただけるのだそうです。

 すべてのものの上にあり、
すべてのものを貫き、
すべてのもののうちにおられる、
すべてのものの〔父である神〕が唯一であるように、

キリストのからだは一つ、
御霊は一つ、
望みは一つ、
主は一つ、
信仰は一つ、
バプテスマは一つ、に。

 それで、受け入れる者のうちには、
〔父である神〕の、謙遜と柔和、寛容、
愛をもって互いに忍び合い、
平和のきずなで結ばれて、
御霊の一致を保つ思いがあるようにしていただけるのだそうです。
ひとりひとりがそれぞれ、違っていながら(エペソ4:1~7)。

 私たちも、
いっさいの重荷とまとわりつく罪とをイエスの前にかなぐり捨てながら、
自分の前に置かれている競争を、
忍耐をもって走る続けるのですね。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから
目を離さないで(ヘブル12:1~2)。

 自分の貧しさを認めて、天の神、主の統治の中へと。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

主をたたえ、ほめ歌を歌いながら

 主に造られたものはすべて、
主をたたえよ。
主の統治されるところの、
どこにあっても。
私の魂よ、
主をたたえよ。
詩103:22

 霊に満たされ、
詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、
主に向かって心からほめ歌いなさい。
エフェソ書5:18~19

 使徒17:(16)22~34
 ヘブル書11:32~40(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句5/30;水)

 神の国というとき、
それは、やがて来る、やがて実現する神の国と、
今、ここに来ている神の国という二面があるようです。

 そして、今、ここに来ている神の国とは、
国土、場所ではなく、
神の支配、統治が及んでいるところ、という意味合いになるようです。

 その、神の統治の及んでいるところ、どこにあっても
主をたたえる思いで満たされる、ようですね。

 私が、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって(創世記3:5、22)、
造り主である天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方(出エジプト3:14)に
背き、対立、対抗している、
私自身の〔生まれたときからの私〕という霊の理性の支配から解放されて、
「『わたしはある(I AM)』という者」名乗られる方の統治に入り、
この方の御思いで生きるようになった者は、
この方に感謝と賛美をささげながら、
いよいよ、〔聖である霊〕と呼ばれる方に満たされ、
〔父である神〕の御思いおおわれ、
御思いについて行くようになるのだそうです。

 私たちの身代わりとなって、
私たちに代わって十字架刑での処刑を受け、
死んで葬られ、
三日目に新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
ご自分が生きていることを見せ、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、
雲に迎えられ、天の父である神の右の座に帰られたイエス

 そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。
私たちは、その方が心に置いてくださる〔
父である神〕の御思いに満たされ、
詩篇と賛歌と霊的な歌によって語り合いながら、
主に向かってほめ歌を歌いながら、
いよいよ、この方によって
〔父である神〕の御思いに覆われ、包まれ、
沈められ、漬け込まれていくのだそうです。

 アテネでのこと、
使徒パウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じ、
広場で、そこに居合わせた人たちと論じたのだそうです。
それで、人々はパウロをアレオパゴスに連れて行き、
パウロの話しを聞くことにしたのだそうです。

 それでパウロは、
「神は、今までは、無知の時代を見過ごしておられたが、
今は、どこででもすべての人に、
方向転換して神に立ち返るよう命じておられること、

 神は、お立てになったひとりの人、イエスにより、
義をもってこの世界を裁くために、日を決めておられること、

 そして、この方を死者の中からよみがえらせることによって、
このことの確証をすべての人にお与えになったのです」と語ったのだそうです。

 しかし、死者の復活のことを聞くと、
ある者たちはあざ笑い、
ほかの者たちは、
「このことについては、またいつか聞くことにしよう」
と言ったのだそうです(使徒17:16、22~34)。

 アテネの多くの人たちはこのようでしたが、
ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、
またダビデ、サムエルや預言者たち、
彼らはこの方への信頼によって、国々を征服し、
正しいことを行い、約束のものを得、
獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、
剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、
戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れたのですね。

 女たちは、死んだ者をよみがえらせていただき、
またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、
釈放されることを願わないで拷問を受けました。

 また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、
さらに鎖につながれ、牢に入れられる目に会い、
また、石で打たれ、試みを受け、
のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、
羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、
悩まされ、苦しめられ、
荒野と山とほら穴と地の穴をさまよいました。

 この人々はみな、この方への信頼によって証しされましたが、
約束のものは得ませんでした。
神は、私たちのために、
さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられ、
彼らも私たちと別にではなく、
私たちといっしょに全うしようとされているのだそうですから(ヘブル11:32~40)。

 この方に信頼して、
御思いが、天で成っているように、いよいよ、私にもなるように、
私が御思いのとおりに生きられるよう、
この方をたたえながら願っていきたいですね。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)



[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

 

<ahref="https://www.blogmura.com/point/00697809.html" >

私たちの願いを聞き、涙を見てくださる方への信頼において、

 主はこう言われる。
わたしはあなたの祈りを聞き、
涙を見た。
見よ、わたしはあなたをいやす。
列王記下20:5

 ラザロが病気であった。
姉妹たちはイエスのもとに人をやって、
「主よ、
あなたの愛しておられる者が病気なのです」
と言わせた。
ヨハネ11:2~3

 出エジプト3:13~20
 ヘブル書11:8~22(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/28;月)

 南ユダ王国の王、ヒゼキヤは、病気になって死にかかっていた。
そこへアモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。
「主はこう仰せられます。
『あなたの家を整理せよ。
あなたは死ぬ。直らない。』」

 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。
「ああ、主よ。
どうか思い出してください。
私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、
あなたがよいと見られることを行ってきたことを。」
こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。

 イザヤがまだ中庭を出ないうちに、
次のような主のことばが彼にあった。
「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。
あなたの父ダビデの神、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗る者、
主はこう仰せられる。
『わたしはあなたの祈りを聞いた。
あなたの涙も見た。
見よ。わたしはあなたをいやす。
三日目には、あなたは主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗る者の宮に上る。

 わたしは、あなたの寿命をもう15年加えよう。
わたしはアッシリアの王の手から、あなたとこの町を救い出し、
わたしのために、
また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」

 イザヤが「干しいちじくをひとかたまり、持って来なさい」と命じたので、
人々はそれを持って来て、腫物に当てた。
すると、彼は直った」(イザヤ20:1~7新改訳)。

 兄弟のラザロが病気になったとき、
マルタとマリヤは、イエスの所へ使いを送って、
「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」
と言ったのだそうです。

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私たちの願いを聞き、
私たちをいやしてくださる方。

 マルタとマリヤは、このイエスが、
その、天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方(出エジプト3:13~20)、
〔御子である神〕であることを認めて、
こう言い送ったということなのでしょうね。

 この方への信頼において、アブラハムは、
相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、
これに従い、
どこに行くのかを知らないで、
出て行き、

その信頼によって、
彼は約束された地に他国人のようにして住み、
同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

 この方への信頼によって、アブラハムの妻、サラも、
すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。
彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

 この方への信頼によって、アブラハムは、
試みられたとき、独り息子のイサクをささげ、

 イサクは、未来のことについて、
息子のヤコブエサウを祝福したのだそうです。

 この方への信頼によって、ヤコブは死ぬとき、
ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、
また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝し、

 ヨセフは臨終のとき、
イスラエルの子孫の(エジプトからの)脱出を語り、
自分の骨について、
(約束の地に持って行くよう)指図したのだそうです(ヘブル11:8~22)。

 私たちも、この方への信頼において、
十字架刑での処刑を受け、
死んで葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活した
エスを通して来てくださる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる、
〔父である神〕の御思いの中に出て行くのですね。
この方の行うわざを行う(ヨハネ14:12)ようにと。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)



[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

 

<ahref="https://www.blogmura.com/point/00697809.html" >

遠くから思い起こし、心に留め、願い求めて

 聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、
主の栄光は、地をすべて覆う。
イザヤ書6:3(5/27日の週の聖句)

 遠くから主を思い起こし、
エルサレムを心に留めよ。
エレミヤ書51:50

 どのような時にも、
‟霊“に助けられて祈り、願い求め、
すべての聖なるものたちのために、
絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
エフェソ書6:18

 ヨハネ3:1~8(9~15)
 詩145(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句5/27;Ⅳ日曜)

 〔父である神〕、
〔御子である神〕、
〔聖である霊〕と呼ばれる神は、
それぞれ、聖である方、
人間との延長をもたない、人間とは完全に別なる方。

 そして、その方の栄光は地をすべて多い、
全地に満ちている、と、
もっとも、御座近くで仕えている天使、
セラフィムは賛美しているのだそうです。

 そして、捕囚の地、バビロンにあったとしても、
天の神、主、「『わたしはある(I AM)』と名乗られる方を
思い出し、思い起こし、エルサレムを心に思い浮かべるように、と。

 十字架刑での処刑を受け、
墓に葬られ、
三日目に死人のうちより新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて
自分が生きていることを見せ、
神の国について語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、
天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

 そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
私たちの心に〔父である神〕の御思いを置き、
〔父である神〕がしようと思われることを、
私たちの願いとし、志としてくださって、
祈るよう導いてくださるというのですね。
根気よく、忍耐の限りを尽くして。

 〔父である神〕は、
エスの処刑によって、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
私たちの〔生まれたときからの霊〕を
処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 そして、さらに、このイエスを通して
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を
受け入れる者に派遣してくださるのだそうです。

 受け入れる者を、「生まれたときからの私」に死んで、
新しく生まれた者、
〔生まれたときからの私〕という霊から来る思いで生きるのではなく、
この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方がが心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いで生きる者にしてくださるというのですね。

 風が思いのままに吹き、
私たちはそれがどこから来てどこへいくのかを知らないけれど、
その音を聞き、木の葉が揺れるのを見るように(ヨハネ3:1~8)。

 それで、私たちも、うたうのですね。
ダビデとともに。

 私の神、王よ。私は、あなたをあがめます。
あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。
日ごとにあなたをほめたたえ、
あなたの御名を世々限りなく賛美します。
主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。
その偉大さは測り知ることができません。
代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、
あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。
私は栄光輝くあなたの主権と、
あなたの奇しいわざに思いを潜めます。
人々はあなたの恐ろしいみわざの力を語り、
私はあなたの偉大さを述べるでしょう。
人々はあなたの豊かないつくしみの思い出を
熱心に語り、
あなたの義を高らかにうたうでしょう(詩篇145:1~5、新改訳)、と。

 この聖なる、聖なる、聖なる方を思い起こし、
心に留め、御名を呼び、
御心が地に、私に成ることを望みながら。
この新しい週も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)



[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

 

<ahref="https://www.blogmura.com/point/00697809.html" >

見えないもの、父である神の御思いによって生きる生き方を

 主よ、
私の口に見張りを置き、
唇の戸を守ってください。
詩141:3

 ただ、この自由を、
肉に罪を犯させる機会とせずに、
愛によって互いに仕えなさい。
ガラテヤ書5:13

 使徒18:1~11
 ヘブル書11:1~7(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/26;土)

 心に満ちていることが口から出て来るのだそうですね。
だから、唇の戸を守ることが、
「私の心を悪いことに向けさせないでください」(詩篇141:4)
ということでもあるのでしょうね。

 そして、心の思いは、その奥にある霊から来ているのだそうです。
ここでパウロが言う「肉」とは、
この肉体のことではなく、
〔生まれたときからの私〕という霊のことを言っているのだそうです。

 その、私たちの〔生まれたときからの霊〕は、
最初、天の神、主、「『わたしはある(I AM)』と名乗られる方の、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」との願いによって
創造されたものなのだそうです(創世記1:26)。

 しかし、最初の人、アダムとエバは、
その、神のかたち、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊と呼ばれる神〕が、
愛において、自由意思で、自発的に一つになっておられる、
心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる、
その神との一つの場にとどまることをせず、
もっと偉い者に、
神のようになり、善悪を知る者になろうとして(創世記3:5)、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになった」(3:22)のだそうです。

 それ以来、私たち人間は、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになった」者として生まれ、
生まれながらにして、天の神、主に背き、
かみに対立、対抗して、
自分を神よりも上のものにしようとする性質を持っているのだそうです。

 そして、この創造の目的からのズレ、「的外れ」の結果、
人間同士においても、
自分を他よりもえらい者、立派なものにしないと気が済まず、
そうなれないと劣等感に落ち込み、
人の上に立って権力を振り回したい者、
人を引きずり下ろし、
良いもののすべてを独占し、
77倍の復讐をしようとする者(創世記4:24)となり、
「人がその心に計ることがみな、
いつも悪いことだけに傾く」(創世記6:5)ようになったのだそうです。

 それで、私たち、
その、〔生まれたときからの私〕という霊から来る思いが心に満ち、
その心の思いが口から出て来る、ということなのだそうです。

 だから、律法、戒めや道徳によって、
口から悪い言葉を出さないように努力しても、
内にある〔霊〕は今までと同じで、
心を変えることは出来ないのですね。

 天の神、主、「『わたしはある(I AM)』という者と名乗られる方は、
その「的外れ」になっている私たちを、
ご自身と心を一つにする者に取り戻そうとして、
この人間の歴史の中で、ご計画を実行して来られたのだそうです。

 〔父である神〕は、〔御子である神〕を人間イエスとして人の世に派遣し、
この方を私たちすべての人間の身代わりとして立て、
この方がおよそ33歳の頃、
ユダヤ人の指導者たちの妬みを用いて捕らえさせ、
ローマ兵の手によって十字架刑で処刑し、
エスの処刑が終わったことで
私たちの処刑が終わったことにしてくださったのだそうです。
私たち自身である〔生まれたときからの私〕という霊の死亡手続きを済ませて。

 そして、受け入れる者に、もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって私たちの心に、
私たち一人一人に思っておられる、ご自身の御思いを置いてくださり、
受け入れる者が、ご自身と一つ心になるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、ヨハネ17:21~24)。

 私たちが、〔生まれたときからの霊〕がしようと思うことをするのではなく、
エスがそうであったように(ヨハネ8:28、12:50)、
ご自身がしようと思われることをしていく者に(ヨハネ14:12)。

 それで、パウロは、私たちが、
私たちに与えられている自由によって、

(死亡手続きが終わっている〔生まれたときからの私〕という霊)
から来る思いによって行動するなら、
自分が人の上に、人の前に出ようとし、
互いに批判し合い、さばき合い、引きずり下ろし合うことになるけれど、
〔聖である霊〕と呼ばれる方から来る
〔父である神〕の御思いによって行動するなら、
愛によって互いに仕え合うようになりますよ、と言っているようです。

 アテネを去って、コリントへ行ったパウロは、
神の御心に従って(マルコ7:27)、
ここでもまず、神の民として選ばれたユダヤ人に、
エスがキリストであることを証ししたのですが、
ユダヤ人たちは受け入れなかったため、
異邦人にイエスを伝えることになり、
身の危険があったにもかかわらず、
神のことばに従ってコリントにとどまり続け、
1年半、ここに腰を据えて
神のことばを教え続けたのだそうです(使徒18:1~11)。
早く安全なところに行きたい
肉(〔生まれたときからの私〕という霊)の思いは
エスの前に差し出し、ながめながら、
口を神に明け渡して、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が語らせられるままに。

 神への信頼において、
私たちは望んでいることの保証、
まだ目に見ていないものの確信をいただけるのですね。

 この世界が神の御思い、ことばによって造られたように、
見えるもの、
私たちの行動、口から出る言葉も、
見えないもの、
〔父である神〕の御思いから出て来ている(ヘブル11:1~3)、
その生き方を受け取るようにと。
今日も。

 

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

 

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

 

<ahref="https://www.blogmura.com/point/00697809.html" >

悔い改めにふさわしい実、御霊の実を結ばせようと

 万軍の主の日が臨む、
すべて誇る者と高慢な者に、
すべて高ぶる者に
――彼らは低くされる――。
イザヤ2;12

 洗礼者ヨハネの言葉:
悔い改めにふさわしい実を結べ、
「我々の父はアブラハムだ」
などという考えを起こすな。」
ルカ3:8

 ガラテヤ書3:1~5
 ヘブル書10:32~39(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句5/25;金)

 万軍の主と呼ばれる方、
天の神、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方が来られるのだそうです。

 その日には、金や銀、富で満ち、自分の力、戦力を誇り、
偽りの神々、人間の手で造った物を拝み、
驕り高ぶっている者、自分を誇る者は
恥を見ることになるのだそうです。

 自分がアブラハムの子孫、イスラエル民族だ、ということも、
さらに言えば、
実際の生活は、神との関係を無視し、
自分の思いのままに生きていながら、
「私は洗礼を受けました。
クリスチャンと呼ばれる者になりました」ということも、
神の前に立てる足がかりにはならないということでしょうか。

 血肉のからだに属することは、
神の国を相続できないのだそうですから(Ⅰコリント15:50)。

 その日には、それぞれが、
生けるまことの神とどのような関係をもって生きるか、
ということだけに心を向けるようです。

 悔い改めにふさわしい実、
天の神、主は、私たちが、
〔生まれたときからの私〕という自分自身である霊が、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて、
創造の目的からずれ、
「的外れ」になっている者であることを認めるようにと
願っておられるようですね。

 そして、その私たち自身を
エスの十字架刑での処刑に合わせて、
処刑が終わっている者、死んだものとしてくださり、

〔聖である霊〕と呼ばれる方を、
私たちの身代わりとなって十字架刑での処刑を受け、
墓に葬られ、
三日目に、死人のうちより、新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスを通して、
派遣しくださって、

 この方によって、
ご自身の思いを受け入れる者の心に置き、
私たちが、ご自身と思いを一つにし、
心を一つにし、
行動を一つにしていく、
その生き方を受け取ってほしいのだそうです。

 自分の力で、神のことばのとおりを生きようと努力する生き方、ではなく、
伝えられ、聞いた約束のことばに信頼し、
御霊、〔聖である霊〕と呼ばれる方の働きを
受け取る生き方をしてほしいと(ガラテヤ3:1~5)。

 だから、確信を持ち続けてほしいのだそうです。
神の御心を行なって、約束のものを手に入れるためには
忍耐が必要なのだそうですから。
期待して待つことが。

 もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。
おそくなることはない。
わたしの義人は信仰によって生きる。
もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。

 天の神、主は、私たちを、恐れ退いて滅びるものではなく、
信頼して命を保つ者にしてくださっているのだそうですから(ヘブル10:35~39)。

ご自身と心を一つにして歩む者にと。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)



[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

 

<ahref="https://www.blogmura.com/point/00697809.html" >