風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

見えないもの、父である神の御思いによって生きる生き方を

 主よ、
私の口に見張りを置き、
唇の戸を守ってください。
詩141:3

 ただ、この自由を、
肉に罪を犯させる機会とせずに、
愛によって互いに仕えなさい。
ガラテヤ書5:13

 使徒18:1~11
 ヘブル書11:1~7(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/26;土)

 心に満ちていることが口から出て来るのだそうですね。
だから、唇の戸を守ることが、
「私の心を悪いことに向けさせないでください」(詩篇141:4)
ということでもあるのでしょうね。

 そして、心の思いは、その奥にある霊から来ているのだそうです。
ここでパウロが言う「肉」とは、
この肉体のことではなく、
〔生まれたときからの私〕という霊のことを言っているのだそうです。

 その、私たちの〔生まれたときからの霊〕は、
最初、天の神、主、「『わたしはある(I AM)』と名乗られる方の、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」との願いによって
創造されたものなのだそうです(創世記1:26)。

 しかし、最初の人、アダムとエバは、
その、神のかたち、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊と呼ばれる神〕が、
愛において、自由意思で、自発的に一つになっておられる、
心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる、
その神との一つの場にとどまることをせず、
もっと偉い者に、
神のようになり、善悪を知る者になろうとして(創世記3:5)、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになった」(3:22)のだそうです。

 それ以来、私たち人間は、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになった」者として生まれ、
生まれながらにして、天の神、主に背き、
かみに対立、対抗して、
自分を神よりも上のものにしようとする性質を持っているのだそうです。

 そして、この創造の目的からのズレ、「的外れ」の結果、
人間同士においても、
自分を他よりもえらい者、立派なものにしないと気が済まず、
そうなれないと劣等感に落ち込み、
人の上に立って権力を振り回したい者、
人を引きずり下ろし、
良いもののすべてを独占し、
77倍の復讐をしようとする者(創世記4:24)となり、
「人がその心に計ることがみな、
いつも悪いことだけに傾く」(創世記6:5)ようになったのだそうです。

 それで、私たち、
その、〔生まれたときからの私〕という霊から来る思いが心に満ち、
その心の思いが口から出て来る、ということなのだそうです。

 だから、律法、戒めや道徳によって、
口から悪い言葉を出さないように努力しても、
内にある〔霊〕は今までと同じで、
心を変えることは出来ないのですね。

 天の神、主、「『わたしはある(I AM)』という者と名乗られる方は、
その「的外れ」になっている私たちを、
ご自身と心を一つにする者に取り戻そうとして、
この人間の歴史の中で、ご計画を実行して来られたのだそうです。

 〔父である神〕は、〔御子である神〕を人間イエスとして人の世に派遣し、
この方を私たちすべての人間の身代わりとして立て、
この方がおよそ33歳の頃、
ユダヤ人の指導者たちの妬みを用いて捕らえさせ、
ローマ兵の手によって十字架刑で処刑し、
エスの処刑が終わったことで
私たちの処刑が終わったことにしてくださったのだそうです。
私たち自身である〔生まれたときからの私〕という霊の死亡手続きを済ませて。

 そして、受け入れる者に、もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって私たちの心に、
私たち一人一人に思っておられる、ご自身の御思いを置いてくださり、
受け入れる者が、ご自身と一つ心になるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、ヨハネ17:21~24)。

 私たちが、〔生まれたときからの霊〕がしようと思うことをするのではなく、
エスがそうであったように(ヨハネ8:28、12:50)、
ご自身がしようと思われることをしていく者に(ヨハネ14:12)。

 それで、パウロは、私たちが、
私たちに与えられている自由によって、

(死亡手続きが終わっている〔生まれたときからの私〕という霊)
から来る思いによって行動するなら、
自分が人の上に、人の前に出ようとし、
互いに批判し合い、さばき合い、引きずり下ろし合うことになるけれど、
〔聖である霊〕と呼ばれる方から来る
〔父である神〕の御思いによって行動するなら、
愛によって互いに仕え合うようになりますよ、と言っているようです。

 アテネを去って、コリントへ行ったパウロは、
神の御心に従って(マルコ7:27)、
ここでもまず、神の民として選ばれたユダヤ人に、
エスがキリストであることを証ししたのですが、
ユダヤ人たちは受け入れなかったため、
異邦人にイエスを伝えることになり、
身の危険があったにもかかわらず、
神のことばに従ってコリントにとどまり続け、
1年半、ここに腰を据えて
神のことばを教え続けたのだそうです(使徒18:1~11)。
早く安全なところに行きたい
肉(〔生まれたときからの私〕という霊)の思いは
エスの前に差し出し、ながめながら、
口を神に明け渡して、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が語らせられるままに。

 神への信頼において、
私たちは望んでいることの保証、
まだ目に見ていないものの確信をいただけるのですね。

 この世界が神の御思い、ことばによって造られたように、
見えるもの、
私たちの行動、口から出る言葉も、
見えないもの、
〔父である神〕の御思いから出て来ている(ヘブル11:1~3)、
その生き方を受け取るようにと。
今日も。

 

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