その日が来るのだそうです。約束の言葉のとおりに。必ず。
見よ、このような日が来る、と主は言われる。
わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。
王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。エレミヤ書23:5
前や後ろに従う者も叫んだ。
「ホサナ。
主の名によって来られる方に、
我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。
いた高きところにホサナ。」マルコ11:9~10
Ⅰテサロニケ4:13~18
イザヤ書64:4~11
(ローズンゲン日々の聖句12/10;土)
見よ、と言われるのですね。
そのような日が来るからと。
ひとりの王が起こり、その国を正義と恵みの業で治め、栄える日が来ると。
あの時、
イエスがろばに、
それもまだ人を乗せたことのない子ろばに乗ってエルサレム入城なさった時、
人々は、その日が来たと思って
「ホサナ。主の御名によって来られる方に」と賛美をもって迎えたのだそうです。
しかし、この王である方は、
王として立つ前に、救い主として、
まず、しなければならないことがあったのだそうです。
なぜなら、この方が正義をもって望まれるとき、
正しい者として御前に立つことのできる者は一人としていないのだそうですから。
すべての人は、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)という
造られた場からはずれてしまって、
造り主である天の神、主に対立、対抗し、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になってしまっているのだそうですから(創世記3:5、22)。
それで、この王は、王として立つ前に、まず、ご自分の民のために、ご自身のいのちをささげて、民のために贖い(あがない)をする必要があったのだそうです。
旧約聖書で預言され、
イスラエルの民が、動物の頭に手を置いて自分の身代わりとし、その動物のいのちをささげて罪の赦しを得ていたように。
それで、この王である方は、「ホサナ」と迎えられた5日後には、
救い主として、すべての人の、すべての罪の責任を取って十字架刑での処刑を受けられたのだそうです。
このようにして、すべての人に代わっていのちをささげ、贖いを完成されたイエスは、
三日目の日曜日の早朝、新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて共に過ごし、
オリーブ山で、弟子たちの見ている前で天に上げられ、
天の「父である神」の右の座に帰られたのだそうです。
そして受け入れる者の神に対抗している「生まれたときからの霊」を、
ご自分の十字架刑での処刑に合わせて、処刑済み、死んだものとしてくださって、
今度は、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を受け入れる者に派遣して、
この方の働きで「父である神」が一人ひとりに対して思っておられる御思いを置いてくださって、受け入れる者が「父である神」と同じ思いを持ち、
一つ心になって、一つ行動をとる者になる、新しい生き方が始まるのだそうです。
この、知らせは弟子たちを通して、
エルサレムから始まってユダヤとサマリヤの全土、
そして世界の果てにまで伝えられているのですね。
このイエスは、今度は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、御自身天から下って来られるのだそうです。
それからキリストにある死者がよみがえり、生き残っている私たちが、このからだを新しい「霊のからだ」に替えていただき、彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会い、いつまでも主イエスと共にいることになるのだそうです(Ⅰテサロニケ4:16~17)。
さらに歴史が進んで、世界の連合軍がイスラエルを攻め、イスラエルがまさに滅亡しようとするそのとき、イエスはオリーブ山に立たれ(マラキ14:4)、勝利を得て、正義と恵みの業をもって国を治められる、その時が実現するのだそうです。
このような歴史の流れを見据えながら生きていくのですね。
私たち。
今日も。