「私が語り、わたしが行う」と言われたとおりに
主よ、なぜ遠く離れて立ち、
苦難の時に隠れておられるのか。詩10:1
イエスは大声で叫ばれた。
「わが神、わが神、
なぜわたしをお見捨てになったのですか。」マルコ15:34
ヨハネ18:28~32
エゼキエル17:1~24(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句11/3;金・祝)
天の神、主が、遠くに行ってしまわれ、
私たちの悩みの時、苦難の時に身を隠してしまわれ、
私たちの叫びに答えてくださらないように思えるときがあるのですね。
イエスが、十字架に架かられたのは、過ぎ越しの祭りの大事な安息日の前の日、
金曜日の、朝の9時頃だったそうです(マルコ15:25)。
そして、午後の3時頃、
イエスはこのように「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれて、
息を引き取られたのだそうです。
この時、私たちのそむきと「的外れ」の責任のすべてがイエスの上に移り、
永遠の昔から片時も離れたことのなかった〔父である神〕から、
反逆する者として切り離された、ということなのでしょうね。
イエスが弟子たちに、
自分がどのような死に方をするのか示して話されていたとおりに(ヨハネ18:28~32)。
けれども、このイエスの十字架刑での死、
イエスが〔父である神〕から切り離されてくださったことによって、
私たちのそむき、「的外れ」が赦され、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちに来て下さる道が開け、
私たちが〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにして生きることができるようになったのだそうですから。
たしかに、天の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方は、
どこかへ行ってしまわれたわけではなく、
語ったこと、聖書で預言されたことを、
そのとおりに行われている方なのですね(エゼキエル17:24)。
私の上にも。
今日も。