風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

大恥をかく生き方から栄光を受ける生き方へ

主に怒りを燃やす者は皆、
そのもとに来て恥じ入る。
イザヤ書45:24

そこで、重ねて大祭司は尋ね、
「お前はほむべき神の子、
メシア(キリスト)なのか」と言った。
エスは言われた。
「わたしがそれである。
あなたがたは、
人の子が力ある方の右に座り、
天の雲に乗って来るのを見る。」

        マルコ14:61~62

 へブル書2:(1~4)5~10
 Ⅰコリント13:1~7(通読箇所)
   〔ローズンゲン『日々の聖句』5/31(金)〕

   ―――― α&ω  ――――

 私たち、すべての人間は、やがて
天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と
名乗られる方の御前に出て、
この世で生きてきた生き方の申し開きをすることに
なるのだそうですね。
その時、この方に向かって怒りを燃やし、
いきり立っていた人たちは
恥じ入ることになると言われます。


 民衆はイエスをあがめていたので、
民衆のいないところでイエスを捕らえ、
裁判にかけ、死刑にしてしまおうと狙っていた
大祭司をはじめとするユダヤの指導者たち。

 

12弟子の一人イスカリオテのユダの手引きで、
真夜中にゲツセマネの園にいるイエスを捕らえ、
裁判にかけました。

いろいろ証人を立てましたが、
有罪にすることができず、
最後に大祭司が尋問しました。
「お前はほむべき神の子、
メシア(キリスト)なのか」と。

 

エスは答えられました。
「わたしがそれである(I am)」と。
さらに加えて答えられました。
「あなたがたは、人の子(イエスご自身のこと)が
力ある方(父である神)の右に座り、
そして、天の雲に乗って来るのを見る」と。

 

それを聞いて大祭司たちは、イエス
人でありながら自分を神としたという
神を冒涜したという罪で
エスを死刑にあたる者と判定したわけです。

 

しかし、やがてその人たちが
「力ある方」の右の座に着いておられる
エスの前に出た時、
大恥をかくことになるのでしょうね。

 

また、イエスの二度目に、
今度は天の雲に乗って来られるの来臨を見た時にも。

 

 

 へブル書の記者は述べています。
こういうわけで、私たちは聞いたことを、
ますますしっかりと心にとめ、
押し流されないようにしなければなりません。
御使いたちを通して語られたみことば
モーセの律法)に効力があり、
すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、
こんなに素晴らしい救いをないがしろにした場合、
私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。

この救いは、初めに主(イエス)によって語られ、
それを聞いた人たちが確かなものとして
私たちに示したものです。
そのうえ神も、
しるしと不思議と様々な力あるわざにより、
また、みこころにしたがって
聖霊が分け与えてくださる賜物によって、
救いを証ししてくださいました。

というのも、
神は、私たちが語っている来るべき世を、
御使いたちに従わせたのではないからです。
ある箇所で、ある人がこう証ししています。
「人とは何者なのでしょう。
あまたがこれを心に留められるとは。
人の子とはいったい何ものなのでしょう。
あなたがこれを顧みてくださるとは。
あなたは、人を御使いより
わずかの間低いものとし
これに栄光と誉の冠をかぶらせ、
万物を彼の足の下に置かれました。」


神は、万物を人の下に置かれたとき、
彼に従わないものを何も残されませんでした。
それなのに、今なお私たちは、
すべてのものが人の下に置かれているのを
見てはいません。

 

ただ、御使いよりもわずかの間、低くされた方、
すなわちイエスのことは見ています。
エスは死の苦しみのゆえに、
栄光と誉の冠を受けられました。
その死は、神の恵みによって、
すべての人のために味わわれたものです。

 

多くの子たちを栄光に導くために、
彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して
完全なものとされたのは、
万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、
ふさわしいことであったのです。(へブル2:1~10)

 

 

 また、使徒パウロ
コリント人への手紙13章1~7節で述べています。
あなたがたは、より優れた賜物
(【聖霊なる神】の具体的な現れ)を
熱心に求めなさい、と勧めた後で、

 

私は今、
(賜物よりも)はるかにまさる道を示しましょう。
たとえ私が人の異言(いげん)
御使いの異言を話しても、
愛がなければ、
騒がしいどらやうるさいシンバルと同じです。
たとい私が預言の賜物を持ち、
あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、
たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、
愛がないなら、私は無に等しいのです。


たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、
たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、
愛がなければ、何の役にも立ちません。
 
愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、
苛立たず、人がした悪を心に留めず、
不正を喜ばずに、真理を喜びます。
すべてを耐え、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてを忍びます。
愛は決して耐えることがありません、と。

 

 

 私たちも、この方が二度目に来られるとき、
また、この方の御前に出た時、大恥をかく生き方、
この方を無視し、自分の善悪の判断で
生きていく生き方をやめるのですね。

そして、イエスが受けてくださった
十字架刑での死を通してきてくださる
【聖である霊】と呼ばれる方をお迎えし、
この方が私たちの心に置いてくださる
【父である神】の愛の御思いで生きていく生き方へと
立ち返るのですね。
【父である神】と思いを一つに生きる生き方へと。

 

エスは二度目に、
今日、来られるかもしれないのですから。

今日も。

 

      ~~~~~~~~~~~~~~

 

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