風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

私たちの求めや思い、すべてをはるかに超えてかなえる事がおできになる方に

主よ、朝ごとに、我らの腕となり、

苦難のとき、我らの救いとなってください。イザヤ書33:2

 

 私たちの内に働く御力によって、

私たちの求めや思い、

全てをはるかに超えてかなえる事のおできになる方に、

教会により、また、キリスト・イエスによって、

栄光が世々限りなくありますように。エフェソ書3:20~21

 

 エレミヤ書20:7~11

 使徒10:34~48(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句6/23;金)

 

 朝ごとに、日々、私たちの力となり、苦難の時、私たちの救いとなってくださる方。

私たちの身代わりとなって、私たちのそむきの責任のすべてを

ご自身の身に負って、十字架刑での処刑を受けてくださり、

三日目に死者の中から新しい霊のからだによみがえり、

40日に渡って弟子たちに何度も現れ、神の国のことを語った後、

天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

 

 このイエスを通して受け入れる者のうちに来て下さる〔聖である霊〕と呼ばれる方。

〔父である神〕は、受け入れる者の内に来られたこの方の御力によって、

私たちの求めや思い、すべてをはるかに超えてかなえてくださるのだそうです。

 

 私たちは、自分が本当に幸せになる道を知らず、

また、自分の本心が分からず、ほんとうは何を求めているのかも分からない者ですが、

この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方ご自身が言いようもない深いうめきによって、

私たちのために執り成してくださり、

 

〔父である神〕がすべてのことを働かせて、

私たちの益になるようにしてくださるのだそうですから(ロマ8:26~28)。

 

 天の神、主から、預言者として立てられたエレミヤは、

神が語れと言われたことをエルサレムの人々に伝えたのですが、

指導者たちや多くの人々はエレミヤが語る言葉に反対し、

エレミヤが取り次ぐ神のことばが物笑いとなり、あざけり、そしり、笑いぐさとなったのだそうです。

 

それで、エレミヤは、神のことばを語るのをやめようとしたのですが、

神のことばがエレミヤの心のうちで「骨の中に閉じ込められた、燃えさかる火のようになり、しまっておくのに疲れてたえられなくなった」(エレミヤ20:7~9)のだそうです。

 

 ペテロも、この、内におられる〔聖である霊」の御力に押し出されて、

招かれた外国人コルネリオの家で、

エルサレムの人々が木にかけて殺した、あのナザレ出身のイエスを、

〔父である神〕は三日目によみがえらせ、自分たちに現れさせてくださり、ご一緒に食事もしたこと、

このイエスこそ、生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であり、

この方を信じる者はだれでも、この方、イエスの名によって罪の赦しが受けられることを話していると、

みことばに耳を傾けていたすべての人に、異邦人であるにもかかわらず、〔聖である霊〕と呼ばれる方が下って来られたのだそうです。

 

 私たちも、この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方の御力の現れを見て、

私たちの求めや思い、すべてをはるかに超えてかなえる事がおできになる方に、

「栄光が世々限りなくありますように」と言う人々に加えていただけるのだそうですね。

今日も。

 

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神の栄光の現れを見る生き方を

あなたがたが食べて満足するとき、

主を決して忘れないようにしなさい。申命記6:11~12

 

 あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、

何をするにしても、

すべて神の栄光を現すためにしなさい。Ⅰコリント10:31

 

 ヨハネ21:15~19

 使徒10:23b~33(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句6/22;木)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、約束の地を目の前にしたイスラエルの民に言われたのだそうです。

「あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導

き入れ、

あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、

あなたが満たさなかった、すべての良いものが満ちた家々、

あなたが掘らなかった掘り井戸、

あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、

これらをあなたがたに与え、

あなたがたが食べて、満ち足りるとき、

あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主、「わたしはあるという者」であるわたしを忘れないようにしなさい」(申命記6:10~12新改訳)と。

 

 イエスは、〔御子である神〕であり、全知、全能、永遠不変の方でありながら、

〔父である神〕への愛と尊敬のゆえに、

自分からは何事もせず、ただ父が教えられたとおりを話し(ヨハネ8:28)、

自分の心を行うのではなく、

自分を遣わされた〔父である神〕のみこころを行っておられた(ヨハネ6:38)のだそうです。

 

 それで、イエスは、〔父である神〕の御思いのとおりに、

天の栄光の座を後にして人の世に降って人間イエスとなり(ヨハネ1:1~16)、

〔父である神〕のみこころのとおりに、

目の見えない者を見えるようにし、

足のなえた者を歩けるようにし、

ハンセン病のような重い皮膚病に冒された者をいやし、

耳の聞こえない者を聞こえるようにし、

死人を生き返らせ、

貧しい人にうれしい知らせを伝え(ルカ7:20~23)、

そして、最後には、「世の罪を取り除く犠牲の小羊」(ヨハネ1:29)として、

私たちのそむきの責任のすべてをご自身に負って、十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 

 〔父である神〕は、このイエスによって、私たちの〔生まれた時からの私〕という霊、

「神のひとりのようになろうとし、善悪を知る者」になり(創世記3:5、22)、「私が」、「私が」とやっているこの私を処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 

 そして、このイエスを通して、もう一人の助け主〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣し、

この方によって、ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを受け入れる者の心に置き(エレミヤ31:33)、

受け入れる者がご自身と同じ思い、一つ心になり(エゼキエル36:25~28)、

ご自身がその人を通してしようと思っておられることをしていくようにしてくださるのだそうです。

エスに似た者に。

 

 それで、受け入れる者は、食べるにしろ飲むにしろ、自分のほまれのためではなく、神の栄光のためにすることになるのだそうです。

 

 ペテロが、イエスが捕らえられ、裁判にかけられている肝心の場所で、「あんな人は知らない」と三度もイエスを否定し、自分の弱さ、駄目さ加減がいよいよ分かり、そんな自分を受け入れてくれているイエスの愛をいよいよ受けていき、イエスの思われるとおりに生きる者になったように(ヨハネ21:15~19)。

 

 それで、ペテロは、律法にかなわないとされ、自分の理性の善悪の判断ではとうてい訪問したりできないローマ人コルネリオのところにも、

〔父である神〕のみこころであり、御子イエスの御心でもある〔聖である霊〕と呼ばれる方の導きに従って出て行き、

御思いのとおりにイエスを伝えることにもなったのだそうです(使徒10:23b~33)。

 

 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、私たちの心にも御思いを置いてくださり、

神の栄光を現す生き方をさせてくださるのだそうですね。

今日も。

 

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神の沈黙の中で苦しむ経験をした方が

私の神よ、私の神よ、

なぜ私をお見捨てになるのか。

なぜ私を遠く離れ、救おうとしてくださらないのか。詩22:2

 

 キリストは試練を受けて苦しまれたからこそ、

試練を受けている人たちを

助けることがおできになるのです。ヘブル書2:18

 

 エゼキエル書3:22~27

 使徒10:1~23a(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句6/21;水)

 

 イエスよりも、およそ1000年ほど前に書かれた詩篇22篇にはこうあります。

「わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになったのですか。

遠く離れて私をお救いにならないのですか。

私のうめきのことばにも。

わが神、昼、私は呼びます。

しかし、あなたはお答えになりません。

夜も、私は黙っていられません。

けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

 

私たちの先祖は、あなたに信頼しました。

彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。

彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。

彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。

 

しかし、私は虫けらです。人間ではありません。

人のそしり、民のさげすみです。

私を見る者はみな、私をあざけります。

彼らは口をとがらせ、頭を振ります。

「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。

彼に救い出させよ。

彼のお気に入りなのだから。」(詩篇22:1~8新改訳)と。

 

 そして、およそ1000年ほど後のこと、イエスは、人々のあざけりと嘲笑の中で十字架に架かられたのだそうですが、

道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言ったのだそうです。

「神殿を打ち壊して三日で建てる人よ。

もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」と。

 

祭司長たちも、律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言ったのだそうです。

「彼は他人を救ったが、自分は救えない。

イスラエルの王だ。

今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。

彼は神により頼んでいる。

もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがよい。

『わたしは神の子だ』と言っているのだから」(マタイ27:39~43)と。

 

 イエスは、このように、神に見捨てられる経験をした方なので、

試練の中にあり、神の沈黙の中にあって苦しんでいる人を助けることがおできになる方なのだそうです。

 

 私たち、天の神、主から、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、

「わたしたちが一つであるように、彼らも(わたしたちと)一つである」(ヨハネ17:21~23)ようにと願われ、造られていながら、

その、天の神、主との一つの場にとどまることをよしとせず、もっと高くなろうとして、

「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になった(創世記3:5、22)人間、

天の神、主に対抗し、背く者なのだそうです。

 

 それで、天の神、主はエゼキエルに言われたのでしょうか。

「『神である主はこう仰せられる』と言え。

聞く者には聞かせ、聞かない者には聞かせるな。

彼らが反逆の家だから」(エゼキエル3:27)。

 

 カイザリヤにいた、神の民イスラエルに属していない、ローマ軍イタリヤ隊の百人隊長コルネリオ。

彼は、神のことばを聞きたいと願い、御使いの示しを受けて、ヨッパにいるペテロを招くため、部下を遣わしたのだそうです(使徒10:1~23)。

 

 私たちの身代わりとなり、私たちの反逆の責任をご自身に負って十字架刑での処刑を受け、

「神に見捨てられた者」(マタイ27:46)となってくださったイエス

 

 墓に葬られ、三日目の日曜日の早朝、死者の中から、新しい霊のからだによみがえり、

40日間、弟子たちに何度も現れて神の国のことを語った後、

オリーブ山から、弟子たちのみている間に上げられ、雲に包まれて見えなくなり、

〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

 

 そのイエスが派遣してくださるもう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方。

〔父である神〕は、この方を通して、受け入れる者の心に、ご自身が、一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。

 

私たち、背く者であって、自分の理性の善悪の判断のとおりに突き進みたいものですが、

この、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る〔父である神〕の御思いに聞いて、

御思いのとおりに出て行く者にしていただきたいですね。

今日も。

 

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みなしごのように放っておかれることはないのだそうです。

私の神よ。

私の魂はうなだれて、あなたを思い起こす。詩42:7

 

 イエスの言葉:

わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。

あなたがたのところに戻って来る。ヨハネ14:18

 

 Ⅱコリント1:23~2:4

 使徒9:32~43(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句6/20;火)

 

 人々が、そして、自分自身も、「お前の神はどこにいるのか」、とか、「神は死んだ」とか言い、また、思い、

神は「沈黙」しておられる、

私の祈りに答えて下さらない、

神は本当に居るのだろうかと、

魂がうなだれてしまうときがあります。

 

 使徒の時代のこと、

ルダに行ったペテロは、そこで、8年間、中風で床に着いているアイネヤという人に会い、

「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。

立ち上がりなさい。

そして自分の床を整えなさい」と言うと、

彼はただちに立ち上がったのだそうです。

 

 また、ルダに近いヨッパのドルカスという女性も、病気になり、死んで、屋上の間に寝かされていたのだそうですが、

呼ばれて行ったペテロが、みなを外に出し、ひざまずいて祈り、

そして、「タビタ。起きなさい」というと、彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がったのだそうです。

 

 しかし、今、日本では、そのような天の神、主の御業はなかなか見られなくて、

(アフリカから、生き返らせてもらった人たちが、何人か、死亡証明書を持って、日本に来たりもしていますが)、

魂がうなだれてしまうことが多いです。

 

 けれども、イエスは言われます。

「あなたがたを放ってはおかない。戻って来る」と。

 

 受け入れる者を迎えに、戻ってきてくださり、

受け入れる者に新しい復活のからだを着せ、

天に引き上げて、いつまでも一緒にいるようにしてくださるのだそうです(Ⅰテサロニケ4:16~17)。

 

そして、それまでの間は、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって(ヨハネ14:10~16)、

この方の御業の中に生き、この方によって〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いを、心に置いてくださって、受け入れる者が〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにして(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~28)、

〔父である神〕がその人を通してしようと思われることをしていくようにしていただけるのだそうです。

 

 けれども、イエスは、戻って来たとき、

「わたしに喜びを与えてくれるはずの人たちから悲しみを与えられるようになりはしないか」(Ⅱコリント2:3)と心配しておられるようですね。

 

 私たちを、ご自身の十字架刑での処刑に合わせて、私たち一人一人の〔生まれた時からの私〕という霊を処刑されたもの、死んだものとしたのに、

私たちが、その死んだはずの古い自分の中に留まり、死亡手続きの住んでいるその自分を善くしようと、そのほうに熱心になって、自分の善さで神の前に立てるようになろうとして、

「妬むほどに愛しておられる」〔聖である霊〕と呼ばれる方がなおざりにされ、ほったらかしにされているのではないか、と。

 

 私たち、〔生まれた時からの私〕という霊は、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、死んだものと認めて、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いに心を向け、

〔父である神〕と心を一つにして、

〔父である神〕が私を通してしようと思っておられることをしていく一日になりたいですね。

今日も。

 

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人間の知恵によらず、神の力によって

見よ、

主の言葉を侮っていながら、

どんな知恵を持っているというのか。エレミヤ書8:9

 

 あなたがたが人の知恵によってではなく、

神の力によって信じるようになるためです。Ⅰコリント2:5

 

 使徒4:(1~3)8~21

 使徒9:19b~31(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句6/19;月)

 

 私たちの〔生まれた時からの私〕という霊は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)になっていて、自分の理性の判断のままに、「戦いに突入する馬のように、自分の走路を走り去る」(エレミヤ8:6)者、

主の言葉を侮るばかりで、造り主に帰り、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に聞こうとはしないのですね。

 

 それで、使徒パウロはコリントの人たちにイエスによる救いを宣べ伝えるとき、

人間のすぐれた言葉、説得力のある知恵の言葉を用いないで、

御霊と御力の現れによって、

聖書が示すとおりに、十字架につけられたイエス

墓に葬られ、聖書が示すとおりに、三日目によみがえられたイエスを伝えたのだそうです(Ⅰコリント15:3~4)。

 

それで、コリントの人たちの信仰は、人間の知恵に支えられず、神の力によって支えられるものとなったというのですね(Ⅰコリント2:1~5)。

 

 最初の頃、エルサレムで弟子たちの数が男だけで5千人ほどになった時も、

毎日、エルサレム神殿の美しの門で、礼拝に来る人たちに施しを乞うていた、

生まれた時から足がなえていて、40年余り歩くことができなかった男性が、

ペテロとヨハネにより、

イエス・キリストの名によって歩きなさい」との言葉によって歩き出し、

跳んだり跳ねたりしながら神を賛美している、

その神の力の現れによったのだそうです。

 

そして、このことがエルサレム中の人々の知るところであったので、反対者たちも二人を罰するすべがなかったのだそうです(使徒4:1~3、8~21)。

 

 使徒パウロも、迫害者サウロであったとき、

十字架にかけられ死んだはずのイエスが現れ、

自分の理性の判断によって、誰よりも熱心に、イエスの名を呼ぶ者たちを捕らえ、滅ぼしていた、

その自分の判断のほうが間違っていて、イエスの弟子たちが伝えていることが事実であることを知って、

今まで滅ぼそうとしていた復活したイエスを伝える者となり、大胆に語り出したので、反対者たちからいのちを狙われるようになったのだそうですが、

弟子たちの群れは、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり、築き上げられ、

平安を保ち、主をおそれかしこみ、聖霊に励まされて前進を続け、

弟子の数が増えて行ったのだそうです(使徒9:19b~31)。

 

 私たちも、自分の理性の善悪の判断を最善とし、戦場の馬のように突っ走るばかりの者ですが、

それも、〔父である神〕、〔御子イエス〕の御前に差し出し、見ていただき、知っていただきながら、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いについて行き、

神の御力の現れ、御思いが実現するのを見ていきたいものですね。

今日も。

 

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ご自分の名をもって呼んで下さり、高く上げて、

あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、

あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。ルカ10:16(6/18の週の聖句)

 

 彼はわたしの名を知る者だから、

彼を高く上げよう。詩91:14

 

 勝利を得る者を、私の神の神殿の柱にしよう。

彼はもう決して外へ出ることはない。

わたしはその者の上に、私の神の名を書きしるそう。黙示録3:12

 

 ルカ16:19~31

 詩13(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句6/18;Ⅲ日)

 

 イエスが弟子の中から70人を選んで、ご自分が行くつもりの町や村へお遣わしになるとき、このようにおっしゃられて送り出されたのだそうです。

遣わす者をご自分と一つになっているものとして扱ってくださっているのですね。

 

 イエスと〔父である神〕との関係自体が、この、遣わされるものと遣わしたものとしての、一つになっている関係だったのだそうです。

エスは〔父である神〕から遣わされたものとして、

〔父である神〕と思いを一つにし、

〔父である神〕が言おうとされていることだけを語り、

〔父である神〕がしようとされることだけを、そのとおりにしていかれたのだそうですから。

 

 それで、イエスは、

「わたしが天から下って来たのは、自分の心を行うためではなく、

わたしを遣わした方のみこころを行うためです」(ヨハネ6:38)とか、

 

「わたしは自分からは何事もせず、

ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している」(8:28)とか、おっしゃられ、

 

それで、「わたしと父とは一つです」(10:30)と言うことができた方なのですね。

 

 そして、〔父である神〕が、御子イエスを高く上げ、

エスを死者の中からよみがえらせ、

天上においてご自分の右の座に着かせて、

すべての支配、権威、権力、主権の上に、

また、今の世ばかりでなく、次の世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれたように(エペソ1:20~21)、

エスも、ご自分と思いを一つにする、ご自分が遣わした者を高く上げ、

ご自身の名をもって呼ばれる者とし、

ご自身と同じ栄光で輝かせてくださるのだそうです。

 

 

毎日、ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちの門前で寝ていた、

全身おできができ、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思うほどの貧しいラザロも、

死んだあと、御使いによってアブラハムのふところに連れて行かれ、

イスラエル民族の始祖アブラハムと同じ栄光にあずかっていたように(ルカ16:19~31)。

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、

エスの十字架刑での処刑を自分の、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)となっている、〔生まれた時からの私〕という霊を、処刑されたもの、死んだものとしていただき、

エスが遣わされる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、

この方によって〔父である神〕の御思いを心に置いていただいて、

〔父である神〕と思いを一つにし、〔父である神〕がその人を通してしようと思われることをしていくようになった者を決して忘れられることなく、

主を喜び歌うようにしてくださる(詩篇13編)のだそうですから。

この新しい週も。

 

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自分の理性の判断を最善として背き続け、平和の道をわきまえない私たちを

なぜ、わたしと争い、

わたしに背き続けるのか、と主は言われる。エレミヤ書2:29

 

 もしこの日に、

お前も平和への道をわきまえていたなら。ルカ19:42

 

 ヨハネ14:7~14

 使徒9:10~19a(通読箇所)

(ローズンゲン日々の聖句6/17;土)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、ご自分の民に、ご自身に立ち返るようにと、何度も預言者を遣わしますが、民は自分の理性の判断で善しとするものを神とし、ご自分に帰ってこようとはしないと嘆かれるのですね。

 

 イエスは、ご自分が、ご自分の民の身代わりとなり、民のそむきの罪をご自身に負って、いよいよ十字架刑での処刑を受ける、そのための最後のエルサレム入場をされるそのとき、

泣いてこのように言われたのだそうです。

 

 そして、「やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。

それはおまえが、「神の訪れの時を知らなかったからだ」(ルカ19:42~44)と。

 

 そして、それから40年ほど後のこと、紀元70年、ユダヤはローマに対して反乱を起こし、エルサレムはローマ軍に囲まれ、このイエスの言葉のとおりに徹底的に破壊され、民は世界中に散らされていったのだそうです。(そして、それから2000年ほどを経た今日、預言の言葉のとおりに、民はまた、イスラエルに帰って来ていますが。)

 

 また、イエスは言われました。

「わたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。

わたしを見た者は、父を見たのです。

わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。

わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。

わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです」(ヨハネ14:7~14)と。

 

このことばの中に、愛のゆえに、自由意思で自発的に〔父である神〕と、完全に一つになっておられるイエスと〔父である神〕との関係を見ることができるわけですが、

そのような関係にあるものをと願われて、

「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)造られた私たち、人間。

 

けれども、最初の人アダムは、この天の神、主との「一つ」になる関係を捨て、

「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)となる道を選び取り、

天の神、主の御思いよりも、自分の理性による、善悪の判断を善しとし、

自分の思うままに生きる者になったのだそうです。

 

 サウロ(後の使徒パウロ)も、神の律法を守る努力によってではなく、イエスを信じることで神から義と認めてもらえるなどというイエスの教えは、神に逆らう邪教であり、無くしてしまわなければならないものだとの自分の理性の善悪の判断によって、だれよりも激しく、熱心に、イエスの弟子たちを捕らえ、殺そうとしていたのだそうですが、

エスは、そのサウロをひっくり返し、

「わたし(イエス)の名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器」(使徒9:15)として、天の神、主の御思いのままに用いられる者となって行ったのだそうです。

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちにも、

エスの十字架刑での処刑によって、神にそむき続け、平和の道を知らない、滅びに向かって進んでいくばかりの、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている自分自身である〔生まれた時からの私〕という霊を処刑されたものとしてくださり、

このイエスを通して来てくださる「聖である霊」と呼ばれる方によって、

この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いと一つ心になって、

御父がしようと思っておられることをしていく者に(ヨハネ14:12)、

エスに似た者に

エスと栄光を共にするものにしてくださるのだそうです。

今日も。

 

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