風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

喜びの歌と共に朝を迎えられるようにと

主は、ひととき、お怒りになっても、
命を得させることを御旨としてくださる。
泣きながら夜を過ごす人にも、
喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
詩30:6

 あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。
このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
エフェソ書2:8

 フィリピ書4:8~14
 ルカ13:6~9(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/25;月)

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
私たち一人一人に命を得させたいと思っていてくださる方なのですね。
それで、私たちのそむきをお怒りになることがあっても、それは、ひととき、つかの間のことなのだそうです。
夕暮れには涙を宿す、あるいは、泣きながら夜を過ごすようなことがあっても、
朝明けには喜びの叫びがあるように、
喜びの歌と共に朝を迎えるようにしてくださるのだそうです。

 天の神、主は、私たちが、地のちりから造られたものであり、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、
自分の力では、そこから、自分を変えることができないものであることをよくご存じなのだそうです。

 それで、ご自身の側で、私たちを贖う、買い戻す計画を立ててくださり、
その、ご計画の時が満ちて、〔御子である神〕が、「女の子孫」として人の世に来て下さり(創世記3:15、ヨハネ1:14)、
私たちに代わって、私たちの「的外れ」の責任をとって、十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 〔父である神〕は、この墓に葬られたイエスを、全能の御力をもって、三日目、日曜日の早朝、死者の中から新しい霊のからだに復活させ、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語らせたのち、
オリーブ山で、弟子たちの見守る中、天の、ご自身の右の座に帰らせられたのだそうです。

 そのイエスが、今度は、ご自分に代わって、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を、受け入れる者に派遣してくださるのだそうです。
そして、この方が、私たちの心に〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いをおいてくださるのだそうです。
それで、私たちは、この方によって、〔父である神〕と同じ思いを思い、一つ心になって生きる、
愛し合う関係に入れていただけるのだそうです。

このことは、恵みによること、何の働きもなく、何の資格もない、いただけるはずのない者に、タダで、賜物、プレゼントとして与えていただけるのだそうです。
だから、私たちは、この方の言葉に信頼して、もらうだけ、受け取るだけ、でいいのだそうです。

 〔父である神〕は、私たちにも、
「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、賞賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めてほしい」(ピリピ4:8)とも、思っておられるのだそうですから。
今日も。



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強制されてではなく、自分から進んで、選び取ってほしいのだそうです。命の道を。

思い煩いは何もかも神にお任せしなさい。
神が、あなたがたのことを心にかけていてくださる。
Ⅰペテロ5:7(9/24の週の聖句)

 わたしは、生と死、祝福と呪いをあなたがたの前に置く。
あなたがたは命を選びなさい。
申命記30:19

 イエスの言葉:
わたしが来たのは、
彼らが命を受けるため、
しかも豊かに受けるためである。
ヨハネ10:10

 マタイ6:25~34
 詩20(通読箇所)
    (ローズンゲン日々の聖句9/24;Ⅳ日)

 使徒パウロは、ピレモンに、ピレモンのところから逃亡した奴隷、オネシモのことについて、言っています。
「私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、
こういうわけですから、むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。
私は、あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。
それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、
自発的でなければいけないからです」(ピレモン8~9、14)と。


天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、私たちと愛し合う関係を深めたいと思っていらっしゃる方なのだそうです。

 愛し合う関係、それは、強制されたものではなく、自由意思で、自発的なものなのですね。
それで、天の神、主は、私たちが、自由意思で、自発的に、自分からすすんで、
ご自身との愛し合う関係に入ってほしいと願っておられるのだそうです。

それで、私たちの前にも、生と死、祝福と呪いの道を置かれているのだそうです。
人となられた〔御子である神〕、イエスに、
私たちの、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、
創造の目的から「的外れ」になっている責任を負わせて、
私たちの身代わりにして、十字架刑で処刑し、私たちを処罰済みのものとし、
そのイエスによって、私たちにもう一人の助け主、〔聖である霊」と呼ばれる方を派遣し、
この方によって、〔父である神〕が私たち一人一人に対して持っておられる御思いを、私たち、それぞれの心に置いてくださって、
私たちが、〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにして生きる道を用意し、
私たちに差し出していてくださるのだそうです。

神が仰る「われわれのかたちとして、われわれに似せた」(創世記1:26)もの、
エスが仰る、「わたしたち(父である神、御子である神、聖なる霊と呼ばれる神)が一つであるように、彼らがわたしたちとひとつになって」(ヨハネ17:21~23)、
命を豊かに受けて生きる道を。

けれども、私たちは、この天の神からの提案を拒否、あるいは無視して、今までどうり、
「神のひとりのようになろう」とし、「善悪を知る者」として、
自分の理性を神とし、その善し悪しの判断のままに、天の神、主に対立、対抗して生きる、
創造の目的から「的外れ」になったものとして、
最終的には滅びに至る死の道を進む自由も与えられているのだそうです。

そのうえで、天の神、主は、私たちにいのちの道を選び、
ご自身と愛し合う関係に戻ってきてほしいと、よりを戻してほしいとおっしゃっておられるのだそうです。

 私たちが、天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方を、「私の神」とし、
思い煩いの一つ一つを、私たちのことを心にかけていてくださる、この方に話して、知っていただきながら、平安のうちを生きるようになってほしいと(ピリヒ゜4:6~7)。


 この方は、種を蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしない空の鳥を養っていてくださる方。
働きもしない、紡ぎもしない野のユリを、栄華を極めたソロモン王よりも美しく装ってくださる方。

 だから、自分一人で思い煩っていないで、

十字架に架かられ、復活し、天の〔父である神〕の右の座に帰っておられるイエス

そのイエスを通して来て下さる〔聖である霊〕と呼ばれる方、
その方が心に置いてくださる、〔父である神〕の御思いが、
自分自身を通してもなっていくことを求めるほうに心を向けていってほしいのだそうです(マタイ6:25~34)。


 そして、私たちも言うのですね。
「苦難の日に、主があなたにお答えになりますように。
ヤコブの神の名が、あなたを高く上げますように。
主が天の御座から、あなたに助けを送り、あなたを支えられますように。
あなたのささげものをすべて心に留め、受け入れてくださいますように。(詩篇20:1~3新改訳)と。
この新しい週も。

 

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相続権を持つ、子になって欲しいのだそうですが、

人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう。
あなたが顧みてくださるとは。
詩8:5

 神は私たちを愛して、
イエス・キリストにおいて選ばれ、
神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、
私たちがたたえるためです。
エフェソ書1:4~6

 Ⅱテサロニケ2:13~17
 ルカ13:1~5(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/23祝;土)

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、それほどまでに、私たち、人間のことを大切に思い、御心に留めていてくださるのですね。

 イエスのおられた頃、あるガリラヤ人たちがローマ総督ピラトによって殺されたり、シロアムの塔が倒れて18人の人が死んだことがあったのだそうです。

あるいは、今も、地震で家が倒れ下敷きになったり、山が崩れや津波に飲み込まれたりとか、災難に遭うことがあります。
 イエスは、そのような人たちが、ほかの人たちよりも罪深かったから、そのような災難に遭ったわけではないと言われるのですね(ルカ13:1~5)。
 私たち、いつ、どんな災難に遭っても誰にも文句の言えないはずの者ですが、
このように、平穏無事に過ごせているのは、
私たちが善い者であるからではなく、
私たちは自分のそむきと的外れの中で、死んで当然の者なのに、
なお、天の神、主が顧みて、守っていてくださるから、なのでしょうね。

 〔父である神〕は、すべての人をご自分の子にしようと、すべての人の贖(あがな)い(買い戻し)の代金として、〔御子である神〕のいのちを支払っていてくださるのだそうです。
すべての人が、これを受け取り、ご自分のところに帰って来てほしいと願って。

 ご自分と一つ家族となり、お互いに思いを明かし合い、全部知り合って、心が通じる者、分かり合っている者となって、一つ心で生きていく関係になって欲しいと。

私たちの身代わりとなって十字架刑での処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、三日目に死人のうちから新しい霊のからだによみがえり、
40日に渡って、弟子たちに何度も現れて神の国のことを語られたあと、
弟子たちが見守る中、オリーブ山から、天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

 そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる神。
その方が、私たちのことを〔父である神〕に執り成してくださり(ロマ8:26~27)、
また、私たちの心にも、〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。
それで、私たちも、イエスがそうであったように(ヨハネ8:28)、
〔父である神〕の御思いを心に持ち、御思いによって行動していく者にもしていただけるのだそうです。
あらゆる良いわざに進み、心に慰めを受け、心を強められて(Ⅱテサロニケ2:17)。
そして、イエスと同じに、天のご自身の栄光にともに輝く者にと。
今日も。

 

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よく聞き、よく見、よく吟味して、今の時代をよく見極めて

聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた。箴言20:12

 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。Ⅰテサロニケ5:21

 ヨハネ13:31~35
 ルカ12:54~59(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/22;金)

よく聞いて、よく見て、よく吟味し、よく見分けて、良いものを大事にし、固く守るようにと、天の神、主は仰るのですね。

 イエスは、ご自分が、いよいよ、明日は十字架刑での処刑を受けられるという前夜、
弟子たちとの最後の夕食の席で言われたのだそうです。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。
互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と。

 自分が「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて、
自分の心のうちからは、互いに対立し、張り合うばかりの思いしか出て来ない者であるという、自分の実態をよく見ている者は、
天の神、主が、プレゼントとして差し出していてくださる、
エスが受けられた十字架刑での処刑による、自分の「生まれた時からの私」という霊の処刑、死亡手続きを受け取る思いにもなるようですね。

 そして、死んで葬られ、三日目、日曜日の早朝、墓から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて、神の国のことを語った後、
弟子たちの見守る中、オリーブ山から、天の、〔父である神〕の右の座に帰られた(使徒1:3~11)、
そのイエスがご自分に代わって派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方(ヨハネ14:16、26)をお迎えする心にも。

 この方が、私たちの心にも、〔父である神〕の御思いを置いてくださるので(エレミヤ31:33、エゼキエル36:26~27)、
張り合うばかりの私たちの心にも、〔父である神〕の愛の御思いが来て、
エスが〔父である神〕の愛の御思いによって私たちを愛していてくださるように(ヨハネ12:49~50、14:10)、
私たちも愛し合う者にしていただけるのだそうですから。

だから、よく聞き、よく見て、天気を見分けるように、今がどういう時代なのかをよく見分けて、
何が正しいかを判断しなさいと言われるのですね。
そして、告訴する者といっしょに役人の前に行っている人が、途中でも、熱心に告訴しようとしている人と和解して、告訴を取り下げてもらおうとするように(ルカ12:54~59)。

今の時代は、〔父である神〕が、イエス・キリストにあって、この世をご自分と和解させ、
違反行為の責めを人々に負わせないで、罪を知らない方、〔御子である神〕イエスに負わせて処刑にし、
私たちの処罰が終わっていることにして、
誰からも、私たちを訴える者、サタンが、私たちを地獄の道連れにしようと
どんなに私たちの罪を告訴しても心配がないようにしてくださって、
ご自分の家族になり、ご自分と思いを一つにして生きようよ、と、
和解を提案していてくださっている時代なのだそうですから(Ⅱコリント5:18~21)。
今日も。



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必要のすべてを満たし、安心して、眠らせてくださるのだそうです

朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ。
それは、むなしいことではないか。
主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
詩127:2

 私たちの神は、
ご自分の栄光の富に応じて、
キリスト・イエスによって、
あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
フィリピ書4:19

 歴代誌上29:9~18
 ルカ12:49~53(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/21;木)

 自分で生きていると思っている人は、自分一人の力で一生懸命に努力し、
朝早く起き、夜おそくまで働き、生活の糧を得るために焦慮、辛苦することになるようですね。
けれども、天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
ご自分の栄光の富をもって、
キリスト・イエスによって、私たちに必要なものをすべて満たしてくださる方なのだそうです。
だから、自分一人で、何とかしなくっちゃあとやっているところから、向きを変え、
天の神、主のほうに目を向けて、
この方に相談しながらやっていきなさい、と勧めてくださっているようです。
そうしていると、山のように、目の前に立ちふさがっていた困難も(詩篇121:1)、
そうこうしているうちに、気がついてみると通り過ぎていたということにしてくださるのだそうです。


ダビデ王が、人々に、「私は全力を尽くして、私の神の宮のために、金、銀、青銅、鉄、木、しまめのう、色とりどりのモルタルの石のための象眼細工、あらゆる宝石、大理石を用意した。
そのうえ、私は神の宮を喜ぶあまり、私の宝としていた金銀をささげた。
きょう、だれか、みずから進んでその手にあふれるほど、主にささげる者はないだろうか」と呼びかけたのだそうです。
すると、民は、みずから進んでささげ、大いに喜んだのだそうです(Ⅰ歴代誌29:1~9新改訳)。
 そのように、天の神、主によって運ばれている者は、心に余裕ができ、喜びがあるようです。


エスは言われました。
「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。
だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。
それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう」(ルカ12:49~50)と。

「わたしが受ける、受けなければならない、苦しいバプテスマ」。
私たち、人間のそむき、反逆の罪の中にどっぷりと浸され、沈められ、神に反逆した者と成り切って、
十字架刑で天と地の間に高く掲げられて処刑される。
しかし、そのことが成らなければ、「地に火が燃える」ことは成らなかったということのようです。
〔聖である霊〕と呼ばれる方が、地の、私たちのうちに来られて、
「火が燃える」ように、この方の働き、
〔父である神〕の御思いが私たちのうちに来て、私たちが〔父である神〕と一つ心になって行動していくようになる出来事が。

 イエスが十字架刑での処刑を受けられ、イエスが受けるべきバプテスマが完了している(ヨハネ19:30)今は、地に火は投じられ、燃えているのだそうです。

そして、受け取りさえすれば、その出来事は私たちにも始まるのだそうです。

 

 それで、これを受け取った者と、まだ受け取らない者とが、自分の思いによって生きるか、天の神、主の御思いを受け、自分の思いも天の神、主に受け取っていただきながら、神と心を一つにしながら生きるか、で、
家族の中でも分裂が起こるのだそうです(ルカ12:51~53)。

 けれども、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)とも、言っていただいていて、
対立する家族も、神の家族として、本当の意味で、再び得ることにしていたでけるのだそうです。

 天の神、主は、私たちにも、ご自分の栄光の富に応じて、イエスによって、必要のすべてを満たしてくださり、安心して眠れるようにしてくださるのだそうですから。
今日も。

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よく見、よく聞いて、事実を確かめ、受け取って

その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。ヨエル書3:1(新改訳では2:28)

 エスは神の右に上げられ、
約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。
あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
使徒2:33

 フィレモン書1~16(17~22)
 民数記27:12~23(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/20;水)

 〔父である神〕は、ご自身と〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、愛し合い、尊敬し合って、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしていらっしゃる、その一つに加わる者がもっと欲しいと願われて、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰られ(創世記1:26)たのだそうです。

それで、まず、人の住みかとしてこの天地、宇宙を造り、
必要な物すべてを整えてから、
最後の人を造ってエデンの園に置かれたのだそうです。

 自由意思で、自発的な、愛し合うことによる一つを願われた神。
しかし、人は、その愛し合い、一つになっている場に留まることをせず、
もっと偉い者になろうと思い、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)になろうとして、
神との一つの場から、神に対立、対抗する者へとずれてしまったのだそうです。

 それでも、天の神、主は、私たち人間を愛し、惜しんでくださって、
御子によって私たち、すべての人間を贖(あがな)い、
すべての人に〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、
この方によって受け入れる者の心にご自身の御思いを置き、
自由意思で、自発的に、愛し合い、思いを一つにする者になってほしいと願われたようです。

 このヨエルによる預言から800年ほど後、神のご計画の時が満ちて、
〔御子である神〕が、処女マリヤの胎を通して、「女の子孫」(創世記3:15)として、私たちの世に来られ(ヨハネ1:14)、
およそ33歳のころ、私たち、すべての人間の「的外れ」の責任をご自身の身に負って、
エルサレムにおいて十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

〔父である神〕は、その全能の御力によって、この、墓に葬られたイエスを、
三日目、日曜日の早朝、死人の中から復活させ、
40日に渡って、何度も弟子たちに現れさせ、神の国のことを語った後、
弟子たちの見守る中、オリーブ山から、天の、ご自身の右の座に帰らせなさったのだそうです(使徒1:3~11)。
エルサレムから離れないで、父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、あなたがたは聖霊バプテスマを受けるからです」との約束を残して。

それから10日後のペンテコステ(50日祭、律法授与の記念日)に、
待ち望んでいた120人ばかりの弟子たちに、激しい風が吹いてくるような響きとともに、
〔聖である霊〕と呼ばれる神が来られて、
弟子たちはこの方が心に置かれる御思いのままに語り出したのだそうです。

物音に驚いて集まって来た大勢の人に、ペテロをはじめとするイエスの弟子たちは、
「あなたがたが見聞きしているこのことは、あのヨエルの預言の成就です。
50日前、あなたがたが十字架に架けて殺したあのイエスを、
神は死人の中からよみがえらせ、
神の右にあげられたのです。
その、イエスが遣わされた〔聖である霊〕と呼ばれる方が来ておられるのを、今、あなたがたは見、聞いているのです」と説明したのだそうです。

 そして、これを聞いて心を刺され、「私たちはどうしたらいいでしょうか」と問う人々に、
ペテロは、「悔い改めなさい(神に向き変りなさい)。
そして、それぞれの罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。
そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と勧め、
その日、3000人(男だけで)ほどが弟子に加えられたのだそうです(使徒2章)。


使徒パウロは、ピレモンに、ピレモンの奴隷、オネシモのことについて、
「私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、
あなたの同意なしには何一つすまいと思います。
それで、愛によって、あなたにお願いしたい。
それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです」
と手紙で書き送っています(ピレモン8~9、14)。


天の神、主は、私たちにも、
強制されてではなく、
「ねばならないから」、「そうあるべきだから」というのではなく、
愛によって、自由意思で、自発的に、
この〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方が心に置かれる〔父である神〕の御思いを受け取って、
この御思いについて行ってほしいと願っておられるのだそうですから(ガラテヤ5:25)。
今日も。



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清い唇を与えていただき、心を一つにして仕える者にと

わたしは諸国の民に、清い唇を与える。
彼らは皆、主の名を唱え、
一つ心となって主に仕える。
ゼファニア書3:9

 すべての舌が、
イエス・キリストは主である」と公に宣べて、
父である神をたたえるのです。
フィリピ書2:11

 ガラテヤ書5:22~26
 民数記24:1~25(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句9/19;火)

 イエスは、言っておられます。
「わたしは、自分から話したのではありません。
わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
  ~~
わたしが話していることは、
父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです」(ヨハネ12:49~50)と。

 

私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている者は(創世記3:5:22)、
天の神、主に聞こうとせず、
自分の理性による、ことの善し悪しの判断のままに、自分の考えを口にする者です。

 けれども、天の神、主は、その、私自身である「生まれた時からの私」という霊を、
エスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
死んだもの、処刑済みのものとしてくださり、
そして、新しく、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお遣わしくださって、
この方によって、受け入れる者の心に、〔父である神〕が、私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださり、
エスと同じ関係、同じ在り方で生きる者にしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 

それは、「血(血筋)によってではなく」(ヨハネ1:13)、諸国の民、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から(黙示録5:9)なのだそうです。
イエス・キリストは主である」と告白し、
〔父である神〕を愛し、自由意思で、自発的に、自分からすすんで、
〔父である神〕と心を一つにして行動するようにしていただけるのだそうです。

それで、パウロを通して言われるのですね。
「しかし、御霊の実(働きの現れ)は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、柔和、自制です。
  ~~
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉(〔生まれた時からの私〕)という霊)を、
さまざまの情欲や欲望とともに、
十字架につけてしまったのです。
もし私たちが御霊によって生きるのなら、
御霊に導かれて、進もうではありませんか」(ガラテヤ5:22~25)と。


異教の占い師、エジプトから出て来たイスラエルを呪うために高額な報酬で雇われて来たバラムでさえもが、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、呪うはずの、そのイスラエルを祝福し、
周辺の民族にこれから起こることを預言したのだそうです(民数記24:1~25)。

 天の神、主、「『わたしはあるという者」と名乗られる方は、
エスの十字架刑での処刑を通して来て下さる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
私たちも、
〔父である神〕と一つ心にしてくださり、
御思いの中へと出て行かせてくださるのだそうです。
今日も。



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