風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

飲み食いして、楽しみ、感謝をささげ

 悪に負けることなく、

善をもって悪に勝ちなさい。ロマ書12:21(10/21の週の聖句)

 

 私は快楽をたたえる。

太陽の下(もと)、

人間にとって、

飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。

それは、太陽の下、

神が彼に与える人生の、

日々の労苦に添えられたものなのだ。コヘレトの言葉(伝道の書)8:15

 

 神がお造りになったものは

すべて良いものであり、

感謝して受けるならば、

何一つ捨てるものはないのです。Ⅰテモテ4:4

 

 マタイ5:38~48

 詩38(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句10/21;Ⅲ日曜)

 

 私たち、

「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっていて(創世記3:5、22)、

自分の理性の善悪の判断で、

自分の思うとおりを生きようとする者です。

 

 それで、カインの子孫、レメクが言うように

「私の受けた傷のためには、ひとりの人を、

私の受けた打ち傷のためには、一人の若者を殺した。

カインに7倍の復讐があれば、レメクには77倍」(創世記4:23~24)の

復讐をしたい者なのですね。

 

 だから、「目には目を。歯には歯を」と言われ、

片方の目をつぶされたら、復讐は片方の目まで。

歯を1本折られたら、歯を1本折り返すところまで、と、

復讐を制限されているのだそうです。

 

 けれども、イエスは言われるのですね。

「わたしはあなたがたに言います。

悪い者に手向かってはいけません。

あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。

あなたに1ミリオン(1㎞半)行けと強いるような者とは、

いっしょに2ミリオン(3㎞)行きなさい。

求める者には与え、

借りようとする者は断らないようにしなさい」(マタイ5:38~42)と。

 

 それで、パウロも言うのですね。

「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、

すべての人が良いと思うことを図りなさい。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。

神の怒りに任せなさい。

それは、こう書いてあるからです。

『復讐はわたしのすることである。

わたしが報いをする、と主は言われる。』

 

 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。

渇いたなら、飲ませなさい。

そうすることによって、

あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

悪に負けてはいけません。

かえって、善をもって悪に勝ちなさい(ロマ12:17~21新改訳)、と。

 

 また、私たちは、

聖書を自分の善悪の判断のままに解釈して、

結婚を禁じたり、食物を断つことで、

自分の信仰の熱心を表そうとしたりしがちですが、

食物は、

神に信頼し、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、

神が造られたものなのだそうです。

神が造られたものはみな良いもので、

感謝して受けるならば、捨てるべきものは何一つないのだそうです。

 飲み食いして楽しみ、

神に感謝をしていくならば、

それは神に喜ばれることのようです。

徳を立てていく方向において。

 

 イエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、

〔父である神〕の御思いを

私たちの心に置いてくださるのだそうですから。

 

今日も。

 

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

 

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキング]

 

<ahref="https://www.blogmura.com/point/00697809.html" >

<imgsrc="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/></a

ご自身の座に着かせ、一緒に食事をする関係に入れて

 お前たちは炎の中から取り出された、

燃えさしのようになった。

しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと、

主は言われる。アモス書4:11

 

 彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、

その不誠実のせいで、

神の誠実が無にされるとでもいうのですか。

決してそうではない。

神は真実なお方です。ロマ書3:3~4

 

 箴言3:1~8

 黙示録3:14~22(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句10/20;土)

 

 天の神、主、

「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、

愛によって、

御自身と心を一つにして生きるようにとの願いで造られていながら、

与えられた自由意志でもって、

「神のひとりのようになり善悪を知る」ようになっていて(創世記3:5、22)、

自分の善しと思う道を突き進んでいる私たちが、

御自身に帰って来るようにと願って、

私たちの進む道をふさぎ、止められることがあるのだそうです。

もしかすると、心をひるがえして、

帰って来てくれるかもしれない、と。

 

 それで、パンに欠乏させても、

干ばつで農作物が枯れてしまい、

飲む水に困るようにしても、

イナゴを送ってオリーブの木やいちじくの木を食い荒らさせても、

疫病を送り、また、戦争で多くの者が死ぬようにしても、

また、ソドムとゴモラをくつがえしたようにくつがえし、

炎の中から取り出された燃えさしのように、見る影もないようにしても、

それでも、あなたがたはわたしに帰って来なかったと、

天の神、主は、嘆いておられるのですね。

 

 けれども、神は真実なお方、

私たち人間の側は不誠実であっても、神は誠実を全うし、

ご計画の通りに私たちの救いを全うしてくださるのだそうです。

 

 それで、言われるのですね。

わが子よ。私のおしえを忘れるな。

私の命令を心に留めよ。

そうすれば、あなたの長い日と、

いのちの年と平安が増し加えられる。

恵みとまことを捨ててはならない。

それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。

神と人との前に好意と聡明を得よ。

心と尽くして主に拠り頼め。

自分の悟りにたよるな。

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。

そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

自分を知恵ある者と思うな。

主を恐れて、悪から離れよ。

それはあなたのからだを健康にし、

あなたの骨に元気をつける(箴言3:1~8)、と。

 

 〔父である神〕は、

御子イエスが私たちに代わって受けてくださった

十字架刑での処刑で、

「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになって、

「的外れ」になっている、

私たち自身である〔生まれたときからの私〕という霊を

処刑済み、死んだものとしてくださるのだそうですから。

 

 そして、受け入れる者に、もう一人の方、

〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、

この方によって、私たちの心に御自身の御思いを置いてくださり、

受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、

一つ心になって生きるようにしてくださるのだそうですから

(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 

 冷たくもなく、熱くもない私たちの心を熱く燃やしてくださり、

豊かな者とするために、火で精錬された金を与え、

裸の恥を現さないために着る白い衣を、

目が見えるようになるための目薬を与えてくださり、

共に食事をし合う関係にしてくださるのだそうですから。

 

 そして、イエスと共に

エスが着いておられる座に着く者にも。(黙示録3:14~22)。

 

今日も。

 

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

 

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキング]

 

<ahref="https://www.blogmura.com/point/00697809.html" >

<imgsrc="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/></a

油が、ランプの芯を通って燃え、周りを照らすように

 ノアは神に従う無垢な人であった。

ノアは神とともに歩んだ。創世記6:9

 

 あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。

人々が、あなたがたの立派な行いを見て、

あなたがたの天の父を

あがめるようになるためである。マタイ5:16

 

 ヨハネ18:28~32

 黙示録3:7~13(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句10/19;金)

 

 「人が地上に増え始め、

彼らに娘たちが生まれたとき、

神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、

その中から好きなものを選んで、自分たちの妻とした。

 

 そこで、主、

「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、

『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。

それは人は肉に過ぎないからだ。

それで人の齢(よわい)は、120年にしよう』と仰せられた。

 

 主は、地上に人の悪が増大し、

その心に計ることがみな、

いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

 

 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、

心を痛められた。

そして主は仰せられた。

『わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。

人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。

わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ』」(創世記6:1~7)。

 

 

 最初の人、アダムが造られて10代目の頃の様子は

このようだったのですね。

 

 けれども、ノアは主とともに歩む、

主の心にかなった、無垢な、

人のあるべき生き方をしていたのだそうです。

 

 

 イエス

私たちに代わって受けてくださった十字架刑での処刑によって、

「神のひとりのようになり、

善悪を知る」ようになっている(創世記3:5、22)

私たち自身である〔生まれたときからの私〕という霊を

処刑されたもの、死んだものとしていただき、

 

 墓に葬られ、

三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、

40日に渡って何度も弟子たちに現れ、

神の国について語ったのち、

オリーブ山で弟子たちが見守る中、

天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

 

 そのイエスを通して、

私たちに来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。

〔父である神〕は、その〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、

ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを、

それぞれの心に置いてくださり、

一人一人がご自身と思いを同じくし、

心を一つにして生きるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 

 それで、これを受け取った者は、

自分自身の〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、

十字架刑で処刑され、

死んだものから出て来た思いであると認めて横に見ながら、

〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る

〔父である神〕の御思いによって生きるようになるのだそうです。

 

 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、

その〔父である神〕の御思いが成るよう

働いてくださるのだそうですから。

 

 それで、ランプの油が、ランプの芯を通って燃え、

周りを照らすように、

私たちを通して、

〔父である神〕の御思いが成るよう働かれる

〔聖である霊〕と呼ばれる方の働きの現れが、

ランプの光のように、

私たちの周りを照らすことになるのだそうです。

 

 そして、いつも神と共にいて、

やがて実現する神の都、

神の元から出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、

エスの新しい名とを書きしるされた者と

してくださるのだそうですから(黙示録3:12)。

 

 〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる

〔父である神〕の御思いの中を。

今日も。

 

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

 

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキング]

 

<ahref="https://www.blogmura.com/point/00697809.html" >

<imgsrc="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/></a

天の神、主が、私たちと共にいてくださって

 行くがよい。

主がお前と共におられるように。サムエル記上17:37

 

 何をするにしても、

すべて神の栄光を現すためにしなさい。Ⅰコリント10:31

 

 Ⅰコリント14:26~33

 黙示録3:1~6(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句10/18;木)

 

 戦いをいどむペリシテ人

ガテ出身の巨人ゴリアテを前にして、

少年ダビデは、サウル王に言ったのだそうです。

「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、

あのペリシテ人からも私を救い出してくださいます」と。

 

 そのような特別なときばかりではなく、

普段の、日常の生活の中の一つ一つの出来事においても、

天の神、主、

「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方が

共にいてくださって、

〔父である神〕の御思いのとおりに

事を為させてくださっているのだそうです。

 

 だから、どんな小さいと思えることも、

食べられるのも、飲むことができるのも、

「神の栄光の現れ」なのですね。

 

 だから、感謝し、賛美をささげるのは

正しい在り方なのでしょうね。

 

 それで、私たちが集まるとき、

それぞれの人が、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる御思いによって、

賛美したり、教えたり、黙示を話したり、

異言を話したり、解き明かしをするのですが、

 

 〔父である神〕は、

そのすべてのことを、

みんなの徳を高めるためにしてほしいのだそうです。

 

 それで、もし、だれかがみんなに向かって

メッセージや証しをするように異言で話すのならば、

ふたりか、多くても三人が順番に話し、

ひとりは解き明かしをするように、と言われるのですね。

 

 もし解き明かす者が誰もいなければ、

みんなに向かっては黙っていて、

自分だけで、神に向かって話しているようにと。

 

 預言をする者も、ふたりか三人が話し、

ほかの者は、その預言を吟味するとよいのだそうです。

 

 もし座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、

先の人は、話すのをその人に譲って、黙って座るのですね。

 

 私たちは、みながかわるがわる預言ができるのであって、

すべての人が学ぶとができ、

すべての人が勧めを受けることができるのだそうですから。

 

 私たち自身は、

自分に与えられた霊的な賜物も、

誇り、自己主張したい者ですが、

 

 私たちと共におられる神は

混乱の神ではなく、

平和の神なのだそうですから(Ⅰコリント14:26~33)。

 

 イエスは、

御自身と思いを同じくし、心を一つにして、

共に歩む者の名を、

〔父である神〕と御使いたちの前で

言い表してくださるのだそうですから(黙示録3:4~5)。

 

 〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、

〔父である神〕と思いを同じくし、心を一つにして、

共に歩む。

今日も。

 

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

 

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキング]

 

<ahref="https://www.blogmura.com/point/00697809.html" >

<imgsrc="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/></a

明けの明星の栄光に輝く

 彼の王国に権威は増し、

平和は絶えることがない。イザヤ書9:6

 

 イエス・キリストは、

きのうも今日も、

また永遠に変わることのないお方です。ヘブル書13:8

 

 エフェソ書5:25~32

 黙示録2:18~29(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句10/17;水)

 

 天の神、主、

「『わたしはある(I am)』 という者」と名乗られる方は、

イザヤを通して預言して言われました。

 

 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。

ひとりの男の子が、私たちのために与えられる。

主権はその肩にあり、

その名は「不思議な助言者、力ある神、

永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

その主権は増し加わり、

その平和は限りなく、

ダビデの王座に着いて、その王国を治め、

さばきと正義によってこれを堅く建て、これを支える。

今より、とこしえまで。

万軍の主の熱心がこれを成し遂げる(イザヤ9:6~7新改訳)、と。

 

 そのイザヤが預言した方、イエスは、

きのうも今日も、永遠に変わることのないお方、なのだそうです。

だから、異なった教え、

違ったイエスを教える教えに惑わされないように、と言われるのですね。

 

 その、

〔父である神〕と心を一つにしていらっしゃる

エスの御思いを、

〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に置いていただいた男は、

エスが御自分に信頼する者の集まりを愛し、

その人々のために御自身をささげられたように、

自分の妻を愛するのだそうです。

 

 イエスが、みことばにより、水の洗いをもって、

御自身に信頼する者の集まりをきよめて聖なるものとし、

ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、

聖く傷のないものとなった栄光の人々を

御自分の前に立たせられるように、

 

 夫も自分の妻を

自分のからだのように愛するようになるのだそうです。

 

 〔父である神〕の御心は、

「人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」

というものなのだそうですから(エフェソ5:25~32)。

 

 御子イエスが私たちに代わって受けてくださった

十字架刑での処刑で、

「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている(創世記3:5、22)

〔生まれら時からの私〕という霊を、

処刑が終わっているもの、死んだものとしていただき、

 

 そのイエスを通して来てくださる

〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る

〔父である神〕の御思いによって生き続ける者、

最後まで、神と思いを同じくし、心を一つにして歩む者は、

エスの御国において、

明けの明星の栄光を与えていただけて、

諸国を支配する権威を与えていただくことになるのだそうです(黙示録2:26~28)。

 

 イエス・キリストは、永遠に変わることのないお方なのだそうですから。

今日も。

 

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

 

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキング]

 

<ahref="https://www.blogmura.com/point/00697809.html" >

<imgsrc="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/></a

勝利を得て、新しい名を与えていただく

 神に従い正義を行なうことは、

いけにえをささげることよりも

主に喜ばれる。箴言: 21:3

 

  うわべだけで裁くのを止め、

正しい裁きをしなさい。ヨハネ7:24

 

 ロマ13:1~7

 黙示録2:12~17(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句10/16;火)

 

 天の神、主のお心のとおりに正義と公義を行うことを、

主は、ささげものをすることよりも喜ばれるのだそうですね。 

 

 たくさんささげものをして、

自分は信仰深い、神に対して熱心だと思う私たちですが、

それでいて、正義や公義をないがしろにするなら、

それは、神に喜ばれることではないのだそうです。

 

 また、私たちは、

表面的なところで、

ことの善し悪しを判断してしまうものですから、

天の神、主がどう思っておられるのかを聞きながら判断しないと、

的外れな決定をしてしまうようですね。

 

 当時の、神の律法を守ることに熱心だった人たちが、

安息日を守る」ということにおいても、

ただ、表面的に守るだけで、

神の本当のお心を知ろうとしないで、

安息日に病気をいやしたイエスに腹を立てたように。

 

 また、この世の権威も、神を無関係にあるのではなく、

神によって立てられているのだそうです。

 

 だから、人はみな、上に立つ権威に従いなさい、と。

みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、

税を納めなければならない人には税を納め、

恐れなければならない人を恐れ、

敬わなければならない人を敬うように(ロマ13:1~7)、と。

 

 イエスを通して来てくださる

〔聖である霊〕と呼ばれる方は、

〔父である神〕の御思いを私たちの心に置いてくださるのだそうですから、

もっともっと、

この方に満たされ、覆われて、

御心の中に沈められて行きたいですね。

 

 神は、私たちに

新しい名を与えてくださるのだそうですから(黙示録2:17)。

 

 今日も。

 

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

 

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキング]

光の中を歩む

 あなたたちのもとにある

外国の神々を取り除き、

主に心を傾けなさい。ヨシュア記24:23

 

 光の子として歩みなさい。エフェソ書5:8

 

 Ⅱテサロニケ3:6~13

 黙示録2:8~11(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句10/15;月)

 

 「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている

私たちの〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、

天の神、主、

「『わたしはある(Iam)』という者」と名乗られる方に対抗して、

いろいろな神々を作り出すもののようです。

自分の欲を遂げてくれる、

自分に都合のいい神を。

自分の理性の思うままに。

 

 それでヨシュアイスラエルの民に言ったのですね。

「あなたがたが、主、

「『わたしはある(Iam)』という者」と名乗られる方を選んで、

主に仕えるというのなら、

あなたがたの中にある、この方以外の神々を除き去り、

この方に心を傾けなさい」と。

 

 そして、使徒パウロを通しては、

エスの中にある者としていただいて、

暗やみのわざ、

「的外れ」になり、ズレてしまっているわざを

明るみに、イエスの前に差し出し、

見ていただき、知っていただいて、

明るみに引き出されたもの、

光によって照らされたものとしていただきなさい、と。

 

 私たちの身代わりとなって、

十字架刑での処刑を受けて、

私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を

処刑済みのもの、死んだものとしてくださり、

墓に葬られ、

三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、

天の父である神の右の座に帰られたイエス

 

そのイエスを通して来てくださる

〔聖である霊〕と呼ばれるお方。

その方が受け入れる者の心に置いてくださる〔父である神〕の御思い。

 

 それは、締まりのない歩み方、

何の仕事もせず、おせっかいばかりする

締まりのない歩み方ではなく、

静かに仕事をし、自分で得たパンを食べ、

たゆむことなく善を行おうとする思い、

なのだそうですから(Ⅱテサロニケ3:6~13)。

 

 苦しみと貧しさの中にあっても、

悪魔が私たちをためし、牢に投げ入れるようなことがあっても、

死に至るまで忠実であらせてくださり、

いのちの冠をいただけるようにしてくださるのだそうですから(黙示録2:8~11)。

 

 光の子として。

今日も。

 

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)