風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

男と女が、それぞれ、特徴をもって補い合うようにと

 神は人を男と女に創造された。
創造の日に、彼らを祝福されて、
人と名付けられた。
創世記5:2

 尊敬をもって
互いに相手を優れた者と思いなさい。
ロマ12:10

 ロマ(14:20b~15:1)15:2~6
 エゼキエル書1:22~28(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句10/20;金)

 天の神、主は、私たち人間を、男と女に創造されたのだそうですが、
「みんな、同じに」ではなく、
それぞれ、違っていて、
相手が、自分の持っていないものを持っている、
互いに相手が自分よりも優れたものとして尊敬し合うように創造されたようです。

 大量生産のビスケットのように、
十把ひとからげに、みんな同じに造られたのではなく、
それぞれに、細かい御思いをもって、
個性的に、それぞれ、違ったものとして造られているのだそうです。
互いに尊敬し、相手を大切に思い、
愛において一つになり、互いに補い合う者ようにと。

 イエスも、ご自分を喜ばせることはなさらないで、
私たちの受けるはずのそしりをご自分の身に受けてくださったのだそうです。
それで、私たちも、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕の御思い、イエスの御思いが心に来るとき、
エスと思いを一つにする者となり、
自分を喜ばせることよりも、隣人を喜ばせ、
その人の徳を高め、
その人の益になることを願っていくようにしていただけるのだそうです(ロマ15:1~2)。
 今日も。

 

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大きく、深い、御計らいによって

主よ、あなたの御業はいかに大きく、
計らいはいかに深いことでしょう。
詩92:6

 キリストに根を下ろして造り上げられ、
教えられたとおりの信仰をしっかり守って、
あふれるばかりに感謝しなさい。
コロサイ書2:7

 ガラテヤ書5:13~18
 ガラテヤ書5:13~18
 エゼキエル書1:1~~21(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句10;19)


天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方の御業、
その御計からいは、大きく、深いというのですね。
創造の御業についてもそうですが、
私たちのこの歴史を導いておられる御業、
そして、私たち一人ひとりに現してくださる御業、その御計らいは。

ご計画の時が満ちて、〔父である神〕は、この人間の歴史の中に、
独り子である方、〔御子である神〕を、預言のことばのとおりに、
ベツレヘムで、
「女の子孫」として(創世記3:15)、
ダビデの子孫である一人の貧しい処女マリアの胎を通して生まれさせ、
この方がおよそ33歳のころ、エルサレム城外で十字架刑で処刑され、
神にそむく者、反逆した者として、天と地の間に高く掲げられたのだそうです。

そして、このイエスの処刑によって、
私たち、すべての人間の「そむき」、「的外れ」の責任の処罰が終わったもの、完了しているものとしてくださって、ご自身との和解を提案してくださっているのだそうです。

 そのうえで、これを受け入れる人々に、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって私たち一人ひとりに思っておられる御思いを、それぞれの心に置いてくださって、
私たちがご自身と同じ思いを思い、一つ心になるようにしてくださるのだそうです。

それで、これをもらった、受け取った人たちは、
〔父である神〕と思いを一つにしておられるイエスの御思いに根を下ろし、
エスの御思いで行動する者となり、
〔父である神〕への信頼がいよいよ強くされて、
あふれるばかりの感謝で満たされるようになるのだそうです。

〔御霊〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって歩む者にしていただけて、
今までの、自分自身の理性による善悪の判断だけで行動していた生き方から解放され、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る、
〔父である神〕の御思いによって行動する者にしていただけるのだそうですから(ガラテヤ5:13~18)。

 〔父である神〕が私たちを愛していてくださる、その愛の御思いが心に来て、
その心に来た御思いによって、
隣人を自分自身のように愛する、大切に思うようにもしていただけるのだそうですから。
〔父である神〕の御計らいのとおりに。
今日も。

 

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間に合うもの、役に立つものにしていただけて

なぜ主の言葉を侮り、
わたしの意に背くことをしたのか。
サムエル記下12:9

 神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。
そこには、「主はご自分の者たちを知っておられる」と、
また「主の名を呼ぶ者は皆、
不義から身を引くべきである」と刻まれています。
Ⅱテモテ2:19

 雅歌8:4~7
 ルカ18:18~30(通読箇所) 
   (ローズンゲン日々の聖句10/18;水)


 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
預言者ナタンを通して、ダビデ王に言われたのだそうです。

イスラエルの神、主はこう仰せられる。
『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、
サウルの手からあなたを救い出した。
さらに、あなたに主人の家を与え、
あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、
イスラエルとユダの家も与えた。
それでも少ないというのなら、
わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。

 

それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、
わたしの目の前で悪を行ったのか。
あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、
その妻を自分の妻にした。
あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ』」(Ⅱサムエル12:7~9新改訳)、と。


彼ら(ヒメナオとピレト)は、真理からはずれてしまい、
復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。
それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、
それに次のような銘が刻まれています。
「主は、ご自分に属する者を知っておられる。」また、
「主の名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」

大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。
また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
ですから、だれでも自分自身をきよめて、
これらのこと(何の益にもならず、聞いている人々滅ぼすことになる、ことばについての論争、邪悪な無駄話
2:14、16)を離れるなら、
その人は尊いことに使われる器となります。
すなわち、清められたもの、主人にとって有益なもの、
あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

それで、あなたは、若い時の情欲を避け、
きよい心で主を呼び求める人たちとともに、
義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
無知な思弁を避け、争ったりしないで、
むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、
反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい(Ⅱテモテ2:18~25)、と。


私たち、天の神、主に話していくことをせず、
天の神、主に願うことをせず、
この時のダビデ王のように、天の神、主をあなどり、
自分の理性の判断で、自分が判断した善し悪しに従って行動する者です。

 けれども、イエスの十字架刑での死を自分の死としていただき、
墓に葬られ、三日目に死者の中から、新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方によって、心に、〔父である神〕が思っておられる御思いを置いていただいて、
その御思いについて行く生き方をする者は、きよめられた、

神がしようと思われる御業に間に合う、役に立つ者に
していただけるのだそうですね。
今日も。

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答えようとして、待ちかまえておられるのだそうですから

主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。ヨエル書3:5(新改訳では、2:32)

 門をたたきなさい。
そうすれが、開かれる。
ルカ11:9

 マルコ3:31~35
 ルカ18:9~17(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/17;火)

 天の神、主は、ヨエルを通して言われます。

「わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。
血と火と煙の柱である。
主の大いなる恐るべき日が来る前に、
太陽はやみとなり、月は血に変わる。
しかし、主、『「わたしはあるという者」と名乗られる方』の名を呼ぶ者は
みな救われる」(ヨエル2:30~32新改訳)、と。


エスは言われます。

「求めなさい。そうすれば与えられます。

捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれであっても、求める者は受け、
捜す者は見つけ出し、
たたく者には開かれます。

あなたがたは、悪い者であっても、
自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。
とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、
どうして聖霊をくださらないことがありましょう(ルカ11:9~13)、と。

けれども、自分は、得ている、知っている、到達していると自負している人は、
求めようとせず、門をたたこうともしないのですね。

 自分には、神の前に差し出す良いものが何一つないと分かっている人が、
神のあわれみを求めるようです(ルカ18:9~14)。

 〔父である神〕は、私たちが、
ご自身を愛しようとしない者、
ご自身と心を一つにしようとしない者であることを認めて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を求め、
この方によって、ご自身と愛し合う関係に入り、
思いを一つにし、心を一つにする者になって(エゼキエル36:25~28)、
一つ家族に(マルコ3:31~35)加わってほしいと願っておられるようですね。
今日も。

 

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太陽のように輝く、その時を

天が煙のように消え、
地が衣のように朽ち、
地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、
私の救いはとこしえに続く。
イザヤ書51:6

 神は、私たちを怒りに定められたのではなく、
私たちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるよう
定められたのです。
Ⅰテサロニケ5:9

 マタイ6:1~4
 ルカ18:1~8(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/16;月)

私たちは、この天と地が、この世界が、
ずっと、限りなく、永遠に続くもの、という前提でものを考えています。
それで、今の世だけで、物事が完結するかのような考え方をしています。

 けれども、今の、天が煙のように散り失せ、
地は衣のように古びて、
その上に住む者は、ぶよのように死ぬ、
そういう時が必ず来るようです。

 そして、天の神、主が、ご自身の側で、全部、用意して、
私たちに差し出していてくださっている和解の提案を、無視、拒否し、
「私は自分で生きています。私は、私の責任は私で取れます」という生き方を続けている人たちが、
天のスーパーコンピュータ?のようなものに記録されているところに従って、
各自が、自分の行いに従って裁かれる、そのときが。

 

 それで、天の神、主は、
私たち、すべての人間が、公正な裁きによっても、処刑されることを望まないで、
御子である方を、人として、人の世に遣わし、
この方を私たち、すべての人間の身代わりとして、十字架刑で処刑し、
わたしたちを処刑が終わったものと見なしてくださる道を開いてくださっているのだそうです。

 そして、これを受け取った人たちが、目覚めていても、眠っていても、
主イエスとともに生きる生き方、
天の神、主と思いを一つにし、心を一つにしながら生きる生き方ができるようにと(Ⅰテサロニケ5:10)。


 イエスは、言っておられます。
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。
そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いを受けられません。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、
自分の前でラッパを吹いてはいけません。
まことに、あなたがたに告げます。
彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが隠れているためです。
そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、
あなたに報いてくださいます(マタイ6:1~4新改訳)、と。

 そのように、次の世のことを知っている人たちは、
施しや善行の褒賞を、この世で受けることよりも、
次の世で受けることを願うのだそうです。


 とは言っても、私たちは、何でも、黙って、我慢していなさい、ということではないようですね。

エスは話されました。

「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。

その町に、ひとりのやもめがいたが、
彼のところにやって来ては、
『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
彼はしばらくは取り合わないでいたが、
後には心ひそかに
『私は神を恐れず、人を人とも思わないが、
どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、
この女のために裁判をしてやることにしよう。
でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。

不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、
いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
あなたがたに言いますが、
神は、速やかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます」(ルカ18:1~7)。


 そのように、私たちは、
エスによって、天の、〔父である神〕に、
自分の思いのたけを、思いっ切り、ぶっつけ、
聞いていただき、見ていただける関係に入れていただいているのだそうです。

だから、この方に、何でも聞いていただきながら、親しい交わりをもちながら、
次の世を目指して歩むのだそうです。
今日も。

 

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兄弟をも愛する思いが、心に来て

神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。
これが、神から受けた掟です。
Ⅰヨハネ4:21(10/15の週の聖句)

 息絶えようとするとき、
私は主の御名を唱えた。
私の祈りがあなたに届いた。
ヨナ書2:8

 誘惑に陥らないように祈りなさい。ルカ22:40

 マルコ12:28~34
 詩5(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/15;Ⅲ日)

 ヨハネは手紙で書き送っています。
「神はそのひとり子を世に遣わし、
その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。
ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
愛する者たち、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、
私たちもまた互いに愛し合うべきです。
神は私たちに御霊を与えて下さいました。
それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、
今そのあかしをしています。
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、
神はその人の内におられ、その人も神のうちにいます。
私たちは愛しています。
神がまず私たちを愛してくださったからです。
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。
目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。
私たちはこの命令をキリストから受けています(Ⅰヨハネ4:9~21より、新改訳)、と。


紀元前750年頃のことと思われますが、
ヨナは、天の神、主から、アッシリア帝国の首都、ニネベに行くよう命じられます。
「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。
彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。
もう40日すると、ニネベは滅ぼされる、と」(ヨナ1:2、3:4)。

 けれども、ヨナは、この預言によって、ニネベの人たちが、自分たちの罪を認め、悔い改めると、
あわれみ深い神は、敵国、ニネベの人たちを滅ぼさないで、赦すに違いない、と思い、
ヨッパから、船でタルシシュ(スペイン)へ逃げ出そうとしたのだそうです。
それで、天の神、主は、激しい暴風を起こしたので、船は難破しそうになり、
ヨナは、水夫たちに、自分を海に投げ込むように言ったのだそうです。
天の神、主は、大きな魚を用意して、海に投げ込まれたヨナを飲み込ませられたのだそうですが、
その、大きな魚の腹の中で、ヨナは神に祈って言ったのだそうです。
「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。
私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。
私はあなたの目の前から追われました。
しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。
私の神、主よ。
あなたは私のいのちを穴から引き揚げてくださいました。
私のたましいがわたしのうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。
私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました」(ヨナ2:1~7)、と。


エスは言われます。
「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と。

また、律法学者が「すべての命令の中で、どれが一番大切ですか」と質問したのに対してに、申命記6:4とレビ記19:18を引用して、答えて言われました。


「一番大切なのはこれです。
イスラエルよ。聞け。
われらの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
 次にはこれです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
この二つより大事な命令は、ほかにありません」(マルコ12:28~34)、と。


 私たち、イエスの十字架刑での処刑を、
私自身である「生まれた時からの私」という霊の処刑としていただき、
エスが派遣してくださる〔御霊〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方が心に置いてくださる、
神を愛し、隣人を愛する〔父である神〕の愛の御思いに満たされていくくことができるのだそうです。

そして、ダビデがうたっているように、

「私の言うことを耳に入れてください。主よ。

私のうめきを聞き取ってください。

私の叫びの声を心に留めてください。

私の王、私の神。

私はあなたに祈っています。

主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。

朝明けに、私は穴tなおために備えをし、

見張りをいたします。

 

あまたは悪を喜ぶ神ではなく、

わざわいは、あなたとともに住まないからです。


私は、豊かな恵みによって、

あなたの家に行き、

あなたをおそれつつ、

あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。

あなたの義によって私を導いてください。

私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。

あなたに身を避ける者がみな喜び、

とこしえまでも喜び歌いますように。

あなたが彼らをかばってくださり、

御名を愛する者たちが、

あなたを誇りますように。

主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、

大盾で囲むように愛で彼らを囲まれます(詩篇5篇より、新改訳)、と。

 

この新しい週も。



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御言葉はごく近くに、口に、心に

御言葉はあなたのごく近くにあり、
あなたの口と心にあるのだから、
それを行うことができる。
申命記30:14

群衆が
「では、私たちはどうすればよいのですか」と尋ねると、
ヨハネは、
「下着を二枚持っている者は、
一枚も持たない者に分けてやれ。
食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
ルカ3:10~11

 マタイ14:22~33
 ルカ17:20~37(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/14;土)

 私たちにしてほしいと思っておられる、天の神、主の御言葉、御思いは、
高尚で、深くて、手の届かない、むつかしい事、
長い、厳しい修行をしてやっと到達する境地とか、あるいはまた、
遠く、天竺まで取りに行かないといけないような事ではなく、
ごく身近にあること、
むしろ、普通の、常識的な、日常的なことの中にあるようですね。
バプテスマのヨハネが、民衆に答えたこともそうですが、
預言者ミカは次のように記しています。

「私は何をもって主の前に進み行き、

いと高き神の前にひれ伏そうか。

全焼のいけにえ、1歳の子牛をもって御前に行くべきだろうか。

主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。

私の犯したそむきの罪のために
 私の長子をささげるべきだろうか。

 主はあなたに告げられた。
 人よ。何が良いことなのか。
 主は何をあなたに求めておられるのか。
 それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、
 へりくだって
 あなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:6~8新改訳)。


 天の神、主は、イザヤを通して言われます。

「あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、

だれが、わたしの庭を踏みつけよ、と
あなたがたに求めたのか。

もう、むなしいささげ物を携えて来るな。

香の煙――それもわたしの忌みきらうもの。
新月の祭りと安息日――会合の招集、
不義と、きよめの集会、
これにわたしは耐えられない。
 ~~
あなたがたの手は血まみれだ。
洗え。身をきよめよ。
わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。
悪事を働くのをやめよ。
善をなすことを習い、
公正を求め、しいたげる者を正し、
みなしごのために正しいさばきをし、
やもめのために弁護せよ(イザヤ1:12~17)。


そして、近くにある御言葉、
私たちは、口でイエスを主と告白し、
心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、
救われるのだそうです。
人は心に信じて義と認められ、
口で告白して救われる、のだそうですから。
「彼に信頼する者は、失望させられることがない」、
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のだそうですから(ロマ10:9~13)。


十字架刑での処刑を受けられ、墓に葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
〔父である神〕が私たち一人ひとりに思っておられる御思いを、
わたしたちの心に置いてくださるのだそうです。
それで、御思い(御言葉)が、私たちの心に来るのだそうです。

弟子たちが、ガリラヤ湖で、舟が、向かい風で、波に悩まされていたとき、
エスが湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいて来られたのだそうです。
舟の中の弟子たちは、「あれは幽霊だ」と、恐ろしさのあまり、叫び声をあげたのだそうですが、
それがイエスだと分かると、ペテロが
「主よ。もし、あなたでしたら、
私に、湖の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」と言うと、
エスは、「来なさい」と言われ、
ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行ったのだそうです(マタイ14:22~29)。

私たちも、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、心に来た御思い(御言葉)によって一歩踏み出す時、
それができるようですね。

 それで、天の神、主の御思いが成り、
人の目には見えない神の国(神の支配、統治)が、私たちのただ中に来る、
私たちの中にあることになるのだそうです(ルカ17:20~21)。


そして、見えるかたちでの神の国(いわゆる、携挙、空中再臨と言われているもの)は、
突然に、
ノアが箱舟に入るその日まで、
人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしているとき洪水が襲ってきたように、

ロトの時代に、人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたその時、
天から火と硫黄が降って来たように、
地球上、すべてのところに同時に来るのだそうです(22~35)。

そして、三度目のイエスの来臨による、この地上での見えるかたちでの神の国は、
多くのしるしを伴って、来る(37、ルカ21:8~32、ゼカリヤ14:1~5、黙示録19:11~16)ようです。

 

 

 私たちのごく近く、口に、心にある御言葉、
エスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって私たちの心に来る
〔父である神〕の御思いが成っていくとき、
私たちは、目に見えない神の国(支配、統治)のただ中に、いることになるのですね。
今日も。

 

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