告知されていた時が来て、神の統治の中へ
主は、私たちを遣わして、
主が恵みをお与えになる年、
私たちの神が報復される日を告知される。イザヤ書61:1~2
イエスの言葉:
「時は満ち、神の国は近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。マルコ1:15
レビ記19:1~3、13~18
エゼキエル書33:21~33(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句11/9;木)
天の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方は、
預言者を遣わし、民へのメッセージを伝えさせたのですね。
わたしと思いを一つにする者に、わたしと同じ心を持つ者になってほしい。
父と母とを敬い、隣人をしいたげたり、かすめ奪わない者に、
日雇い人の賃金をその日のうちに払う者に、
耳の聞こえない者を侮らない者に、
目の見えない者の前につまずく物を置かない者に、
不正な裁判をしない者に、
弱い者におもねり、強い者にへつらって判決を曲げることなく、正しくさばく者に、
人々の間を歩き回って、人を中傷しない者に、
隣り人の血を流そうとしない者に、
心の中で身内の者を憎まない者に、
隣り人をねんごろに戒める者に、
復讐は神にお任せして、人々を恨まない者に、
隣り人を自分自身のように愛する者に(レビ記19:1~3、13~18)、と。
そして、イザヤを通して約束して言われます。
神の御子である方が救い主として人の世に来られ、
貧しい者に良い知らせを伝え、
心の傷ついた者をいやし、
捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、
すべての悲しむ者を慰め、
灰の代わりに頭の飾りを、
悲しみの代わりに喜びの油を、
憂いの代わりに賛美の外套を着けさせてくださる日が来る(イザヤ61:1~3新改訳)、と。
イエスは言われます。その約束の時、神のご計画の時は満ち、
神の国、神のご支配、統治は近づいた。
悔い改めて、神に向きなおって福音、イエスによる良い知らせを信じなさい」と。
今は、イエスが、私たちの身代わりを引き受けてくださり、
私たちに代わって十字架刑での処刑を受けて、
私たちの処刑を「完了」してくださっている(ヨハネ19:20)のだそうです。
それで、私たちは、私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を
処刑された者、死んだ者としていただき、
この、〔生まれた時からの私〕という霊から出て来る思いを
死んだ者から来た思いだと認め、
イエスの御前に投げ捨てていくのだそうです。
そして、もう一人の助け主である方、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方によって〔父である神〕の御思いを心に置いていただいて、
〔父である神〕と同じ思いを思う者にしていただけるのだそうです。
〔父である神〕が聖であるように、私たちも聖である者へと。
〔父である神〕の統治の中へと。
今日も。
聞くには早く、語るに遅く、怒るには遅いように
武具を帯びようとする者が、
武具を解く(戦いに勝利した)者と同じように
勝ち誇ることはできない。列王記上20:11
私の愛する兄弟たち、
よくわきまえていなさい。
だれでも、聞くのに早く、
話すのに遅く、
また怒るのに遅いようにしなさい。
人の怒りは神の義を実現しないからです。ヤコブ書1:19~20
Ⅱコリント10:1~6
エゼキエル書20:30~44(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句11/7;火)
主よ、
我々と結んだ契約を心に留め、
それを破らないでください。エレミヤ書14:21
我らのために救いの角を、
僕ダビデの家から起こされた。
主は我らの先祖を憐れみ、
その聖なる契約を覚えていてくださる。ルカ1:69、72
創世記13:5~12(13~18)
エゼキエル書33:10~20(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句11/8;水)
アラムの王ベン・ハダテは、彼の全軍、32人の王と、馬と戦車とをもって、
サマリヤを包囲して攻め、
使者たちを遣わして、イスラエルの王アハブに言わせたのだそうです。
「あなたの銀と金は私のもの。
あなたの妻や子供たちの最も美しい者も私のものだ。
サマリヤのちりが私に従うすべての民の手を満たすほどでもあったら、
神々がこの私を幾重にも罰せられるように」と。
そこでイスラエルの王は答えて言ったのだそうです。
「武装しようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない」と(Ⅰ列王20:1~11新改訳)。
私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)〔生まれた時からの私〕という霊は、心、高ぶる者であり、
自分で何事かを出来たと思い上がる者、なのですね。
けれども、私たちに代わって、十字架刑での処刑を受けてくださったイエスを通して来て下さる、
〔聖である霊〕が私たちの心に置いてくださる思いは、
「聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそい」ものなのだそうです。
私たちの義憤は、神の義を実現するものではないのだそうですから。
だから、〔生まれた時からの私〕という霊から来る思い、
「様々の思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり、すべてのはかりごと」(Ⅰコリント10:5)を、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて「処刑された者」、「死んだ者」から出て来た思いであることを認め、
この思いはイエスに差し出し、イエスの足もとにかなぐり捨てながら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いを自分の思いとして生きるといいののだそうです。
主が約束してくださっているとおりに。
今日も。
イエスを通して、私たちにしてくださる大いなる御業
大いなる主、
限りなく賛美される主、
大きな御業は究めることもできません。詩145:3
キリストの内には、
満ちあふれる神性が、
余すところなく、
見えるかたちをとって宿っており、
キリストはすべての支配や権威のかしらです。コロサイ書2:9~10
ロマ書12:17~21
エゼキエル書20:1~17(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句11/6;月)
天の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方は、大いなる方。
大いに賛美されるべき方。
その大きな御業、偉大さは測り知ることのできない方。
そして、イエスのうちには、この神のご性質が満ちあふれ、
私たちに見えるかたちをとって宿っているのだそうです。
すべての支配や権威のかしらとして。
それで、私たちは、自分で復讐するよりも、
この方の怒りにお任せするほうが良いと知るのですね。
この方が「復讐はわたしのすることである。
わたしが報いをする」と言われているのだそうですから(ロマ12:19)。
私たち自身である、私たちの〔生まれた時からの私〕という霊から出て来る思いは、
イスラエルの民と同じように、
天の神、主の御思いをないがしろにし、
従おうとも、行おうともせず、
自分の目の慕うものを神としていく者です(エゼキエル20:1~17)。
けれども、私たちの身代わりになって
十字架刑での処刑を受けてくださった
イエスを通して来て下さる
〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちの心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いは、
だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、
すべての人が良いと思うことを図る思い、
自分に関する限り、すべての人と平和を保つ思い、
もし敵が飢えたなら、彼に食べさせ、
渇いたなら、飲ませようと思う思いなのだそうです。
悪に負けるのではなく、
かえって、善をもって悪に打ち勝つようにしてくださるのだそうですから(ロマ12:17~21)。
今日も。
主が、赦してくださったように、私たちにも
悪に負けることなく、
善をもって悪に勝ちなさい。ロマ書12:21(11/5の週の聖句)
あなたは罪を赦す神。
恵みに満ち、憐れみ深く、
忍耐強く、慈しみに溢れる方。ネヘミヤ記9:16
主があなたを赦してくださったように、
あなたがたも同じようにしなさい。コロサイ書3:13
マタイ5:38~48
詩69:17~37(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句11/5;Ⅰ日)
天の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方は、
赦しの神であり、
情け深く、憐れみ深く、
怒るのにおそく、恵み豊かであられる方。
神の大きな御業を体験し、恵みを受けながら、
私たち人間は、勝手にふるまい、うなじをこわくし、
御思いと思いを一つにしようとせず、
聞き従うことを拒み、
自分たちの間で行われた奇しい御業を記憶もしない者なのですね(ネヘミヤ99:9~17)。
けれども、神は、そのような私たちを捨てようとはされないのだそうです(ネヘミヤ9:17)。
私たちは自分の受けた悪に対して、自分で復讐したい者、
3倍にも7倍にもして仕返しをしたい者です(創世記4:23~24)。
その、どこまでも神に逆らい、自分で復讐しないと気が済まない私たち、
〔生まれた時からの私〕という霊を、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、
処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。
そして、墓に葬られ、三日目に死人の中より、新しいからだに復活し、
40日に渡って弟子たちに現れ、神の国について語った後、
弟子たちの見ている前で、オリーブ山から、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。
そのイエスが遣わしてくださる、〔聖である霊〕と呼ばれる方。
この方をお迎えするなら、
この方が私たちの心に、〔父である神〕の御思いを置いてくださるのだそうです。
それで、私たちの心にも〔父である神〕の御思いが来て、
私たちも、自分で復讐しないで、
「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」と言われる
神の怒りに任せる心にもしていただけ、
神が自分を赦してくださった、その赦す思いも心に置いていただけて、
善をもって悪に打ち勝つようにもしていただけるのだそうです。
自分の敵を愛し、迫害する者のために祈る(マタイ5:38~48)
〔父である神〕の御思いも、
私たちの心に置いてくださるのだそうですから。
この新しい週も。
心が替わるので、口から出て来る言葉も替わり
御力を表される主をあがめよ。
力ある御業をたたえて、
我らは賛美の歌をうたう。詩21:14
人の口は、
心からあふれ出ることを語るのである。ルカ6:45
箴言3:1~8
エゼキエル書18:1~3、20~32(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句11/4;土)
人の口は、心に満ちているもの、心からあふれ出ることを語るのだそうです。
〔聖である霊〕と呼ばれる方の御思いが満ちるとき、
私たちの心にも、主をあがめ、たたえて、賛美の歌を歌う思いが満ち、
あふれ出るようになるのだそうです。
私たちは自分を知恵ある者と思い(箴言3:7)、
〔生まれた時からの私〕という霊から来る思いで心が満ち、
それが口から出て来る者です。
けれども、その、私自身である〔生まれた時からの私〕という霊を
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、
死んだものとしていただくのだそうです。
そして、この〔生まれた時からの私〕という霊から出て来る思いを、
イエスの御前に放り出し、かなぐり捨てて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方から来る御思いのほうを
私の思いとしていくのだそうです(エゼキエル18:31)。
その思いが心に満ち、あふれ出し、
賛美の歌が口から出て来るほどに。
今日も。
「私が語り、わたしが行う」と言われたとおりに
主よ、なぜ遠く離れて立ち、
苦難の時に隠れておられるのか。詩10:1
イエスは大声で叫ばれた。
「わが神、わが神、
なぜわたしをお見捨てになったのですか。」マルコ15:34
ヨハネ18:28~32
エゼキエル17:1~24(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句11/3;金・祝)
天の神、主が、遠くに行ってしまわれ、
私たちの悩みの時、苦難の時に身を隠してしまわれ、
私たちの叫びに答えてくださらないように思えるときがあるのですね。
イエスが、十字架に架かられたのは、過ぎ越しの祭りの大事な安息日の前の日、
金曜日の、朝の9時頃だったそうです(マルコ15:25)。
そして、午後の3時頃、
イエスはこのように「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれて、
息を引き取られたのだそうです。
この時、私たちのそむきと「的外れ」の責任のすべてがイエスの上に移り、
永遠の昔から片時も離れたことのなかった〔父である神〕から、
反逆する者として切り離された、ということなのでしょうね。
イエスが弟子たちに、
自分がどのような死に方をするのか示して話されていたとおりに(ヨハネ18:28~32)。
けれども、このイエスの十字架刑での死、
イエスが〔父である神〕から切り離されてくださったことによって、
私たちのそむき、「的外れ」が赦され、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちに来て下さる道が開け、
私たちが〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにして生きることができるようになったのだそうですから。
たしかに、天の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方は、
どこかへ行ってしまわれたわけではなく、
語ったこと、聖書で預言されたことを、
そのとおりに行われている方なのですね(エゼキエル17:24)。
私の上にも。
今日も。
心おののき、心騒ぎながらも
心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。」イザヤ書35:4
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は
真実であり、
そのまま受け入れるに値します。Ⅰテモテ1:15
Ⅰコリント14:26~33
エゼキエル書16:1~22(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句11/2;木)
私たち、心おののき、心騒ぐとき、天の神、主は言われます。
「強くあれ。雄々しくあれ。恐れる必要はない」と。
「わたしがあなたと共にいるから、わたしのほうに目を向けよ」と。
「神は来て、私たちを救ってくださるから」、と。
神に、そうしなければならない責任があるわけではなく、
私たちに、そうしていただく資格があるわけでもなく、
ただ、天の神、主が、
「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる」(Ⅰテモテ2:4)からなのだそうです。
パウロは弟子のテモテへ宛てた手紙に書き送っています。
「私は、以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。
それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
私たちの主の、この恵みは、
キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、
ますます満ちあふれるようになりました。
『キリスト・イエスは、罪びとを救うためにこの世に来られた』ということばは、
まことであり、そのまま受け入れるにあたいするものです。
私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:13~15)と。
私たち人間は、天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方によって、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
「私たちが一つであるように、彼らも(わたしたちと)一つである」(ヨハネ17:21~23)ように、
と願われて造られたものなのだそうです。
そして、この天地、宇宙、この自然界を私たちの住まいとして与えていただき(イザヤ45:18)、
存在していくのに必要なもの、生きていくのに必要なもののすべてを与えていただき、
美しく装っていただき、
繁栄と栄えを与えていただいているのだそうです(エゼキエル16:1~14)。
ところが、私たち人間は、自分の美しさ、繁栄により頼み、心高ぶり、
「神のようになり、善悪を知る者」になろうとして(創世記3:5、22)、
天の神、主を無視し、
自分の理性の善悪の判断のままに、
自分の好むものを神とし、
これを拝み、これに仕え、
自分を造られた方を捨て、背を向ける者になってしまっているのだそうです(エゼキエル16:15~22)。
天の神、主は、そのような私たち人間をなお、愛し、あわれみ、
滅びてしまうことを望まず、
ご自分の側で買い戻そうとしておられるのだそうです。
今からおよそ2000年ほど前、
独り子である神が、ダビデの町ベルレヘムで、
女の子孫(創世記3:15)として、
ダビデ家の子孫、処女マリヤの胎を通して人の世に宿られ、
ユダヤの片田舎、ナザレ村で貧しい大工の息子として育たれ、
およそ、33歳のころ、エルサレム城外のゴルゴダ(どくろ)と言われている場所で、
十字架刑での死刑を受けてくださって、
ご自分のいのちを、私たちの贖(あがな)い、買い戻しの代金として支払ってくださったのだそうです。
〔父である神〕は、このイエスの処刑を、
私たち、すべての人間の処刑と見なしてくださり、
私たち自身である、私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を
処刑済み、死んだものと手続きしてくださったのだそうです。
そして、この、「死」を受け取った者に、
新しく〔聖である霊〕と呼ばれる方が来て下さるのだそうです。
この方が、私たちの心に
〔父である神〕が私たち一人ひとりに思っておられる御思いを置いてくださるので、
受け入れる者は、
〔父である神〕と思いを同じくし、一つ心になって、
新しい霊で生きるようにしてくださるのだそうです。
それで、これらのことをもらった、受け取った者たちの集まりでは、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる御思いのままに、
異なった言葉(異言)で話したり、預言をしたりするようになったのですね(使徒2:1~4)。
それで、パウロは、これらの異言とその解き明かし、預言を、
神の御思いのとおりに
みんなの徳を高めるために秩序をもってするように、と勧めているようです。
「神は混乱の神ではなく、平和の神」だから(Ⅰコリント14:26~33)、と。
天の神、主は、ご自分がしようと思われることを、
私たちが一つ心になってしていくようにと願っておられるのだそうですから。
心おののき、心が騒ぐとしても。
今日も。