風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

監督がいると、安心して、思いっきり、生きられるのですね。

わたしは彼に答え、
   「彼こそわたしの民」と言い、
  彼は、
     「主こそ私の神」と答えるであろう。ゼカリヤ書139
 
 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、
今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ 
   戻って来たのです。Ⅰペテロ225
 
      (ローズンゲン日々の聖句5/16;月)
 
 キリストも、私たち、すべての人間のために苦しみを受けられました。
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、
正しくさばかれる方にお任せになりました。
 
 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。
キリストの打ち傷のゆえに、いやされたのです(Ⅰペテロ2125)。
 
 
 このイエスに対し、ペテロのように「あなたこそ生ける神の子、キリストです」(マタイ1616)と告白し、「私の魂の牧者、監督者」としてお迎えし、「この方こそ私の神」と申し上げるのですね。
 
 この方は、「彼こそ私の民」と仰って下さるのだそうです。
 
 
 そして、このイエスが、受け入れる者に派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方は、「父である神」、「御子である神イエス」が、私たち一人一人を通してしようと思っておられることを、受け入れる者がしていくようにと、御思いのとおりに、ある人には「知恵のことば」、ほかの人には「知識のことば」、またある人には「信仰」、ある人には「いやし」の賜物、また、「奇跡を行う力」、「預言」、「霊を見分ける力」、「異言」、「異言を解き明かす力」として働いてくださり、それらの働き全体が一つとなって、一つのからだのように、「父である神」の御意志を実現していくのだそうです(Ⅰコリント12411)。
その中に加わって欲しいのだそうですね。すべての人に。
その人でなければ埋まらない働きの場があるのだそうですから。
今日も。