風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

計りがたい大きな、不思議な業を

神は計り難く大きな業を、

  数知れぬ不思議な業を成し遂げられる。ヨブ記Job9:10

 

 私たちは皆、

この方の満ちあふれる豊かさの中から、

恵みの上に、さらに恵みを受けた。ヨハネJohn1:16

 

 イザヤ書Isaiah42:5~9

 ルカLuke1:18~25

      (ローズンゲン日々の聖句12/20;火)

 

 神々と呼ばれるものはたくさんあります。

しかし、聖書が伝える神は、

天を造り出し、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、

その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた方なのだそうです。(イザヤIsaiah42:5)

 

 そして、その測りがたい大きな、不思議な業の最大のもの、

天使たちもかたずをのんで見守っていた、

「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」(Ⅰコリント1Corinthians2:9)、

 

それが、御子、独り子である方が、人間、一人の人、イエスして人の世に来られ、

救い主として、私たちすべて人間の、そむきの責任のすべてを身に負って、

反逆者として、神に背き、神に呪われた者となって、

十字架刑での処刑を受けられることだったのだそうです。

 

 そのうえで、このイエスの死を自分の死と受け取り、

背きの罪の処罰が終わった者、

「生まれた時からの霊」をイエスの十字架刑での処刑に合わせて処刑された者、

死んだ者としてもらっていることを受け入れた者に、

もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣されることだったのだそうです。

 

 創造の目的から(創世記Genesis1:26)「的外れ」になってしまい(創世記Genesis3:5、22)、

処罰され、滅びるはずの者の中に、

「聖」である方、ねたむほどに愛しておられる方が来られる。

 

 そして、受け入れる者の心に、

「父である神」が一人一人に思っておられる御思いを書きしるして、

受け入れる者が「父である神」と同じ思いを思い、一つ心になる。

 

 「父である神」は、その方、イエスを義をもって召し、

その手を握り、見守り、その方を民の契約とし、国々の光とし、

見えない目を開き、

囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出すのだそうです(イザヤIsaiah42:6~7)から。

今日も。

 

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