風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

彼がわたしを呼び求めるとき

主の言葉:

彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答える。詩91:15

 

 “霊”も弱い私たちを助けてくださいます。

私たちはどう祈るべきかを知りませんが、

“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。ロマ書8:26

 

 使徒17:(16)22~24

 使徒8:4~25(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句6/14;水)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちがご自身を呼び求めるのを待っておられ、その求めに答えて、ご自身を与えてくださる方、

「求めなさい。そうすれば与えられます。求める者にどうして聖霊をくださらないことがありましょう」(ルカ11:13)と言われる方

愛し合い、いつも一緒にいて、お互いを与え合う関係を願っておられる方のようです。

 

妬むほどに愛しておられる、ご自身にとって大切な方(ヤコブ4:5)を、私たちに派遣し、

「わが霊」と呼ぶ、この方によって、

いつも、いつまでも私たちと一緒にいようと計画してくださっているのだそうですから(ヨハネ14:16)。

 

 〔父である神〕は、〔聖である霊〕と呼ばれるこの方が私たち人間のうちに住んでくださるために、まず、私たちをきよめてくださるのだそうです。

 

 〔御子である神〕が、天の栄光の座を後にして、人の世に降り、

「女の子孫」(創世記3:15)として人の世に生まれ、

私たちの身代わりとなり、私たちの「罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ:29、出エジプト12:1~13)となり、

私たち人間の「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)「的外れ」の責任のすべてをご自身の身に負って、神にそむく者、神に呪われたものとなって十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうですから。

 

 それで、受け入れる者は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)〔生まれた時からの私〕という霊を処刑されたもの、死んだものとしていただけて、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られても滅びないで済むようにしてくださるのだそうです。

 

 それで、準備が整っている今は、私たちが受け入れさえすれば、〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちに来て下さって、

〔父である神〕の私たち一人一人に持っておられる御思いを私たちそれぞれの心に置いてくださり(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、

また、言葉に表せないうめきをもって私たちの思いを〔父である神〕に届けてくださるのだそうです。

 

 それで私たちも、〔父である神〕と、部分的ではあるとしても、思いを同じくし、心を一つにして、愛し合い、いつも一緒にいて行動をともにするようにしていただけるのだそうです。

 

 それで、受け入れる者は、もう、神から遠く離れている者ではなく、神の御思いの中に生き、動き、存在している者(使徒17:27~28)にしていただけるのだそうです。

 

 この、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られて、受け入れる者を新しく生まれさせてくださる出来事(ヨハネ3:1~15)は、神の民、ユダヤ人の枠から溢れ出て、サマリヤの人々に(使徒1:8、8:1~17)、

さらに遠くにいる人々(使徒2:39)、

東の果ての日本にいる私たちにまで及んで、

私たちを神の御思いで生きる者にしていくのだそうです。

今日も。

 

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