風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

預言のことば、イエスのあかしのとおりに

良くても悪くても、
我々の神である主の御声に聞き従います。エレミヤ書42:6


  “霊”の火を消してはいけません。
預言を軽んじてはいけません。
Ⅰテサロニケ5:19~20

 黙示録19:4~9
 使徒20:17~38(通読箇所)

 (ローズンゲン日々の聖句8/5;土)

 

バビロンの王は、エルサレムを占領した後、ユダの主だった者をバビロンへ捕らえ移し、
ユダの地には、何も持たない貧民の一部を残し、彼らにぶどう畑と畑を与え、
アヒカムの子ケダルヤを総督として立てたのだそうです。

 ところが、そのケダルヤをネタヌヤの子イシュマエルが殺し、残っていた民をとりこにして、アモン人のところに渡ろうとしていたので、
カレアハの子ヨハナンと、彼とともにいた将校は、イシュマエルを追い、民を取り換えしたのですが、
バビロンの王がユダの総督として立てたケダルヤをイシュマエルが殺したことで、
バビロンの王を恐れてエジプトへ逃げようとしたのだそうです。

 

そのとき、すべての将校たち、カレアハの子ヨハナンたちは、預言者エレミヤのもとに来て言ったのだそうです。
「どうぞ、私たちの願いを聞いてください。
私たちのため、この残った者皆のために、あなたの神、主に、祈ってください。
ご覧のとおり、私たちは多くの者の中からごくわずかだけ残ったのです。
あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように」と。

 そして、「私たちは、すべてあなたの神、主が私たちのためにあなたを送って告げられることばのとおりに、必ず行います。
私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います」と。

10日の後、主のことばがエレミヤにあり、エレミヤは彼らにそれを告げたのだそうです。
「あなたがたが私を遣わして、あなたがたの願いを御前に述べさせたイスラエルの神、主は、こう仰せられる。
『もし、あなたがたがこの国にとどまるなら、わたしはあなたがたを建てて、倒さず、
あなたがたを植えて、引き抜かない。
わたしはあなたがたに下したあのわざわいを思い直したからだ。
あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼をこわがるな。
――主の御告げ――
わたしはあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、彼の手からあなたがたを救い出すからだ。わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼は、あなたがたをあわれみ、あなたがたをあなたがたの土地に帰らせる』(エレミヤ42:9~12新改訳)と。

しかし、彼らは、エレミヤに、
「あなたは偽りを語っている。
私たちの神、主は、『エジプトに行って寄留してはならない』と言われるために、あなたを遣わされたのではない」(43:2)と答えて、主の御声に聞き従おうとはしないで、エジプトに下って行ったのだそうです。

このように、私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)になっている人間は、
「良くても悪くても、我々の神である主の御声に聞き従います」とほんとうに思いはするのでしょうけれど、
自分の理性の判断と違うことが告げられると、
神のことばよりも自分の理性の判断のほうを信頼して、
自分の理性の判断のほうを選んで行動してしまう者のようです。

「御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません」(Ⅰテサロニケ5:19~20新改訳)と言われていますが、私たちの〔生まれた時からの私〕という霊は、〔聖である霊〕と呼ばれる方の導きに従うよりも、自分の理性の判断を信頼してしまう者で、神のことばを軽んじ、神に従おうとしない者のようです。

私たち、この、〔生まれた時からの私〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて処刑されたもの、死んだものとしていただき、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方が心に書き付けてくださる〔父である神〕の御思いによって生きるなら、
その新しい人は、「良くても悪くても、我々の神である主の御声に聞き従う者」なのでしょうね。


使徒パウロは、〔聖である霊〕と呼ばれる方の迫りの中で、五旬節の日には、エルサレムに着いていたいと旅を急いでいるのですが、
彼はエペソの人たちに言うのですね。
「いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。
そこで私にどんなことが起こるかわかりません。
ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、
なわめと苦しみが私を待っている言われることです。
けれども、私が自分の走るべき行程を走りつくし、
エスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、
私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒20:22~24)と。

私たちも、このパウロのように、「良くても悪くても、我々の神である主のことばに従う者」にしていただき、預言のことば、イエスのあかし(黙示録19:10)のとおりに扱っていただきたいものですね。

今日も。

 

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