風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

答えようとして、待ちかまえておられるのだそうですから

主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。ヨエル書3:5(新改訳では、2:32)

 門をたたきなさい。
そうすれが、開かれる。
ルカ11:9

 マルコ3:31~35
 ルカ18:9~17(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/17;火)

 天の神、主は、ヨエルを通して言われます。

「わたしは天と地に、不思議なしるしを現す。
血と火と煙の柱である。
主の大いなる恐るべき日が来る前に、
太陽はやみとなり、月は血に変わる。
しかし、主、『「わたしはあるという者」と名乗られる方』の名を呼ぶ者は
みな救われる」(ヨエル2:30~32新改訳)、と。


エスは言われます。

「求めなさい。そうすれば与えられます。

捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれであっても、求める者は受け、
捜す者は見つけ出し、
たたく者には開かれます。

あなたがたは、悪い者であっても、
自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。
とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、
どうして聖霊をくださらないことがありましょう(ルカ11:9~13)、と。

けれども、自分は、得ている、知っている、到達していると自負している人は、
求めようとせず、門をたたこうともしないのですね。

 自分には、神の前に差し出す良いものが何一つないと分かっている人が、
神のあわれみを求めるようです(ルカ18:9~14)。

 〔父である神〕は、私たちが、
ご自身を愛しようとしない者、
ご自身と心を一つにしようとしない者であることを認めて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を求め、
この方によって、ご自身と愛し合う関係に入り、
思いを一つにし、心を一つにする者になって(エゼキエル36:25~28)、
一つ家族に(マルコ3:31~35)加わってほしいと願っておられるようですね。
今日も。

 

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太陽のように輝く、その時を

天が煙のように消え、
地が衣のように朽ち、
地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、
私の救いはとこしえに続く。
イザヤ書51:6

 神は、私たちを怒りに定められたのではなく、
私たちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるよう
定められたのです。
Ⅰテサロニケ5:9

 マタイ6:1~4
 ルカ18:1~8(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/16;月)

私たちは、この天と地が、この世界が、
ずっと、限りなく、永遠に続くもの、という前提でものを考えています。
それで、今の世だけで、物事が完結するかのような考え方をしています。

 けれども、今の、天が煙のように散り失せ、
地は衣のように古びて、
その上に住む者は、ぶよのように死ぬ、
そういう時が必ず来るようです。

 そして、天の神、主が、ご自身の側で、全部、用意して、
私たちに差し出していてくださっている和解の提案を、無視、拒否し、
「私は自分で生きています。私は、私の責任は私で取れます」という生き方を続けている人たちが、
天のスーパーコンピュータ?のようなものに記録されているところに従って、
各自が、自分の行いに従って裁かれる、そのときが。

 

 それで、天の神、主は、
私たち、すべての人間が、公正な裁きによっても、処刑されることを望まないで、
御子である方を、人として、人の世に遣わし、
この方を私たち、すべての人間の身代わりとして、十字架刑で処刑し、
わたしたちを処刑が終わったものと見なしてくださる道を開いてくださっているのだそうです。

 そして、これを受け取った人たちが、目覚めていても、眠っていても、
主イエスとともに生きる生き方、
天の神、主と思いを一つにし、心を一つにしながら生きる生き方ができるようにと(Ⅰテサロニケ5:10)。


 イエスは、言っておられます。
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。
そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いを受けられません。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、
自分の前でラッパを吹いてはいけません。
まことに、あなたがたに告げます。
彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが隠れているためです。
そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、
あなたに報いてくださいます(マタイ6:1~4新改訳)、と。

 そのように、次の世のことを知っている人たちは、
施しや善行の褒賞を、この世で受けることよりも、
次の世で受けることを願うのだそうです。


 とは言っても、私たちは、何でも、黙って、我慢していなさい、ということではないようですね。

エスは話されました。

「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。

その町に、ひとりのやもめがいたが、
彼のところにやって来ては、
『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
彼はしばらくは取り合わないでいたが、
後には心ひそかに
『私は神を恐れず、人を人とも思わないが、
どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、
この女のために裁判をしてやることにしよう。
でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。

不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、
いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
あなたがたに言いますが、
神は、速やかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます」(ルカ18:1~7)。


 そのように、私たちは、
エスによって、天の、〔父である神〕に、
自分の思いのたけを、思いっ切り、ぶっつけ、
聞いていただき、見ていただける関係に入れていただいているのだそうです。

だから、この方に、何でも聞いていただきながら、親しい交わりをもちながら、
次の世を目指して歩むのだそうです。
今日も。

 

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兄弟をも愛する思いが、心に来て

神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。
これが、神から受けた掟です。
Ⅰヨハネ4:21(10/15の週の聖句)

 息絶えようとするとき、
私は主の御名を唱えた。
私の祈りがあなたに届いた。
ヨナ書2:8

 誘惑に陥らないように祈りなさい。ルカ22:40

 マルコ12:28~34
 詩5(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/15;Ⅲ日)

 ヨハネは手紙で書き送っています。
「神はそのひとり子を世に遣わし、
その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。
ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
愛する者たち、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、
私たちもまた互いに愛し合うべきです。
神は私たちに御霊を与えて下さいました。
それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、
今そのあかしをしています。
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、
神はその人の内におられ、その人も神のうちにいます。
私たちは愛しています。
神がまず私たちを愛してくださったからです。
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。
目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。
私たちはこの命令をキリストから受けています(Ⅰヨハネ4:9~21より、新改訳)、と。


紀元前750年頃のことと思われますが、
ヨナは、天の神、主から、アッシリア帝国の首都、ニネベに行くよう命じられます。
「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。
彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。
もう40日すると、ニネベは滅ぼされる、と」(ヨナ1:2、3:4)。

 けれども、ヨナは、この預言によって、ニネベの人たちが、自分たちの罪を認め、悔い改めると、
あわれみ深い神は、敵国、ニネベの人たちを滅ぼさないで、赦すに違いない、と思い、
ヨッパから、船でタルシシュ(スペイン)へ逃げ出そうとしたのだそうです。
それで、天の神、主は、激しい暴風を起こしたので、船は難破しそうになり、
ヨナは、水夫たちに、自分を海に投げ込むように言ったのだそうです。
天の神、主は、大きな魚を用意して、海に投げ込まれたヨナを飲み込ませられたのだそうですが、
その、大きな魚の腹の中で、ヨナは神に祈って言ったのだそうです。
「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。
私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。
私はあなたの目の前から追われました。
しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。
私の神、主よ。
あなたは私のいのちを穴から引き揚げてくださいました。
私のたましいがわたしのうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。
私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました」(ヨナ2:1~7)、と。


エスは言われます。
「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と。

また、律法学者が「すべての命令の中で、どれが一番大切ですか」と質問したのに対してに、申命記6:4とレビ記19:18を引用して、答えて言われました。


「一番大切なのはこれです。
イスラエルよ。聞け。
われらの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
 次にはこれです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
この二つより大事な命令は、ほかにありません」(マルコ12:28~34)、と。


 私たち、イエスの十字架刑での処刑を、
私自身である「生まれた時からの私」という霊の処刑としていただき、
エスが派遣してくださる〔御霊〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方が心に置いてくださる、
神を愛し、隣人を愛する〔父である神〕の愛の御思いに満たされていくくことができるのだそうです。

そして、ダビデがうたっているように、

「私の言うことを耳に入れてください。主よ。

私のうめきを聞き取ってください。

私の叫びの声を心に留めてください。

私の王、私の神。

私はあなたに祈っています。

主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。

朝明けに、私は穴tなおために備えをし、

見張りをいたします。

 

あまたは悪を喜ぶ神ではなく、

わざわいは、あなたとともに住まないからです。


私は、豊かな恵みによって、

あなたの家に行き、

あなたをおそれつつ、

あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します。

あなたの義によって私を導いてください。

私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。

あなたに身を避ける者がみな喜び、

とこしえまでも喜び歌いますように。

あなたが彼らをかばってくださり、

御名を愛する者たちが、

あなたを誇りますように。

主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、

大盾で囲むように愛で彼らを囲まれます(詩篇5篇より、新改訳)、と。

 

この新しい週も。



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御言葉はごく近くに、口に、心に

御言葉はあなたのごく近くにあり、
あなたの口と心にあるのだから、
それを行うことができる。
申命記30:14

群衆が
「では、私たちはどうすればよいのですか」と尋ねると、
ヨハネは、
「下着を二枚持っている者は、
一枚も持たない者に分けてやれ。
食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
ルカ3:10~11

 マタイ14:22~33
 ルカ17:20~37(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/14;土)

 私たちにしてほしいと思っておられる、天の神、主の御言葉、御思いは、
高尚で、深くて、手の届かない、むつかしい事、
長い、厳しい修行をしてやっと到達する境地とか、あるいはまた、
遠く、天竺まで取りに行かないといけないような事ではなく、
ごく身近にあること、
むしろ、普通の、常識的な、日常的なことの中にあるようですね。
バプテスマのヨハネが、民衆に答えたこともそうですが、
預言者ミカは次のように記しています。

「私は何をもって主の前に進み行き、

いと高き神の前にひれ伏そうか。

全焼のいけにえ、1歳の子牛をもって御前に行くべきだろうか。

主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。

私の犯したそむきの罪のために
 私の長子をささげるべきだろうか。

 主はあなたに告げられた。
 人よ。何が良いことなのか。
 主は何をあなたに求めておられるのか。
 それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、
 へりくだって
 あなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:6~8新改訳)。


 天の神、主は、イザヤを通して言われます。

「あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、

だれが、わたしの庭を踏みつけよ、と
あなたがたに求めたのか。

もう、むなしいささげ物を携えて来るな。

香の煙――それもわたしの忌みきらうもの。
新月の祭りと安息日――会合の招集、
不義と、きよめの集会、
これにわたしは耐えられない。
 ~~
あなたがたの手は血まみれだ。
洗え。身をきよめよ。
わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。
悪事を働くのをやめよ。
善をなすことを習い、
公正を求め、しいたげる者を正し、
みなしごのために正しいさばきをし、
やもめのために弁護せよ(イザヤ1:12~17)。


そして、近くにある御言葉、
私たちは、口でイエスを主と告白し、
心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、
救われるのだそうです。
人は心に信じて義と認められ、
口で告白して救われる、のだそうですから。
「彼に信頼する者は、失望させられることがない」、
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のだそうですから(ロマ10:9~13)。


十字架刑での処刑を受けられ、墓に葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
〔父である神〕が私たち一人ひとりに思っておられる御思いを、
わたしたちの心に置いてくださるのだそうです。
それで、御思い(御言葉)が、私たちの心に来るのだそうです。

弟子たちが、ガリラヤ湖で、舟が、向かい風で、波に悩まされていたとき、
エスが湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいて来られたのだそうです。
舟の中の弟子たちは、「あれは幽霊だ」と、恐ろしさのあまり、叫び声をあげたのだそうですが、
それがイエスだと分かると、ペテロが
「主よ。もし、あなたでしたら、
私に、湖の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」と言うと、
エスは、「来なさい」と言われ、
ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行ったのだそうです(マタイ14:22~29)。

私たちも、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、心に来た御思い(御言葉)によって一歩踏み出す時、
それができるようですね。

 それで、天の神、主の御思いが成り、
人の目には見えない神の国(神の支配、統治)が、私たちのただ中に来る、
私たちの中にあることになるのだそうです(ルカ17:20~21)。


そして、見えるかたちでの神の国(いわゆる、携挙、空中再臨と言われているもの)は、
突然に、
ノアが箱舟に入るその日まで、
人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしているとき洪水が襲ってきたように、

ロトの時代に、人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたその時、
天から火と硫黄が降って来たように、
地球上、すべてのところに同時に来るのだそうです(22~35)。

そして、三度目のイエスの来臨による、この地上での見えるかたちでの神の国は、
多くのしるしを伴って、来る(37、ルカ21:8~32、ゼカリヤ14:1~5、黙示録19:11~16)ようです。

 

 

 私たちのごく近く、口に、心にある御言葉、
エスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって私たちの心に来る
〔父である神〕の御思いが成っていくとき、
私たちは、目に見えない神の国(支配、統治)のただ中に、いることになるのですね。
今日も。

 

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救いの衣、恵みの晴れ着を着せていただいて

私の魂は私の神にあって喜び躍る。
主は救いの衣を私に着せ、
恵みの晴れ着をまとわせてくださる。
イザヤ書61:10

 イエスの言葉:
今飢えている人々は、幸いである。
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである。
あなたがたは笑うようになる。
ルカ6:21

 ヘブル書12:1~3
 ルカ17:11~19(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句10/13;金)

 天の神、主が、ご自身の側において、イエスによって、
私たちが大いに楽しみ、喜び躍るようにしてくださっているのだそうです。
わたしたちに救いの衣を着せ、
恵みの晴れ着、正義の外套をまとわせ、
花婿のように栄冠をかぶらせ、
花嫁のように宝玉で飾ってくださるのだそうですから。

園が蒔かれた種を芽生えさせるように、
神である主が義を賛美とを、
すべての国の前に芽生えさせてくださる、のだそうですから。

だから、今、飢えている人、おなかをすかしている人は幸いだ、
今、泣いている人は幸いだとイエスは仰るのですね。

そのままで、イエスを見上げていけば、
エスご自身で、
私たちを、満ち足りるように、
笑いで満ちるようにしてくださるのだそうですから。

そして、それを経験した多くの人たちが、証人として、
私たちを雲のように取り巻いているのだそうですから。

 だから、私たちも、いっさいの重荷と、まとわりつき、からまりついて来る罪とを、
自分で何とかしようとしないで、
父である神と御子イエスの御前に、
投げ出し、かなぐり捨てていけばいいのだそうです。

罪が出て来るたびに、心に罪を感じるたびに、
父である神を、信仰の創始者であり完成者である、御子イエわスを見上げて、
その御前にかなぐり捨て、受け取ってもらうといいのだそうです(ヘブル12:1)。

エスに出会った10人のツァラート(ハンセン病)の人が、遠く離れた所から、
「イエスさま、どうぞあわれんでください」と叫んだように。

そして、いやされて、
そのうちのひとりの外国人は、神をほめたたえ、あがめて、
エスのところに帰って来て(ルカ17:11~19)、
エスとともに歩んだように。


 私たちも。
 今日も。

 

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将来と希望、栄光の望みを

わたしはあなたがたのために立てた計画を心に留めている、
と主は言われる。
それは平和の計画であって、災いの計画ではない。
将来と希望を与えるものである。
エレミヤ書29:11

 

神はこの計画が
異邦人にとって栄光に満ちたものである事を、
知らせようとされました。
その計
画とは、あなたがたのうちにおられるキリスト、
栄光の希望です。
コロサイ書1:27~28

 使徒5:34~42
 ルカ17:1~10(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/12;木)

エレミヤは、エルサレムからバビロンへ引かれていった捕囚の民に、
エルサレムから手紙をかき送ったのだそうです。
イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。
エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に、
家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。
妻をめとって、息子、娘を生み、
あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、
息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。
わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。
そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるからだ。』

まことに、主はこう仰せられる。
「バビロンに70年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、
あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
 ――主の御告げ――
それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、
わたしはあなたがたに聞こう。
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、
わたしを見つけるだろう。
 ――主の御告げ――
わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、
わたしがあなたがたを散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。
 ――主の御告げ――
わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる」(エレミヤ29:4~14新改訳)。


パウロは、コロサイの信徒に書き送っています。

「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。
神のことばを余すところなく伝えるためです。
これは、多くの世代にわたって隠されていて、
いま神の聖徒たちに現された奥義(計画)なのです。
神は聖徒たちに、この奥義(計画)が異邦人の間にあって
どのように栄光に富んだものであるかを、
知らせたいと思われたのです。

この奥義(計画)とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
私たちは、このキリストを宣べ伝え、
知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。
それは、すべての人を、キリストにある成人(完全な者)として立たせるためです」(コロサイ1:25~28)。


律法学者ガマリエルは言っています。
「その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。
しかし、もし神から出たものならば、
あなたがたは彼らを滅ぼすことはできないでしょう」(使徒5:38~39)と。

 そして、この2000年、多くの権力によって、あるいは、学問によって迫害、攻撃され、滅ぼされようとしながら、この、人が、神の民イスラエルだけでなく、異邦人の私たちも、キリストの中にあって、成人(完全な者)にしていただける、という計画は、滅ぼされることなく、21世紀の私たちにも働いているのですね。

この世の、具体的な生活の中で、
自分が、「役に立たないしもべ」だと、自覚し、認めて(ルカ17:10)、
エスの十字架刑での処刑を自分の処刑としていただき、
エスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方が、心に置いてくださる〔父である神〕の御思いと思いを一つにして、
本当の故郷、天の御国に帰るその日を待ち望みながら、
しっかりと、足を地につけて生きるようにと。
今日も。

 

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驚くべき御業を、私たちのために

彼らは、海に船を出し、大海を渡って商う者となった。
彼らは深い淵で主の御業を、驚くべき御業を見た。
主に感謝せよ。
主は慈しみ深く、
人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
詩107:23、24、31

 実際、神は
私たち一人一人から遠く離れてはおられません。
使徒7:27

 ルカ7:1~10
 ルカ16:19~31(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/11;水)

 

詩篇の作者はうたいます。
 船に乗って海に出る者、大海で商いをする者、

彼らは主のみわざを見、

深い海でその奇しいわざを見た。

主が命じてあらしを起こすと、風が波を高くした。

彼らは天に上り、深みに下り、

そのたましいはみじめにも、溶け去った。

彼らは酔った人のようによろめき、

ふらついて分別が乱れた。

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、

主は彼らを苦悩から連れ出された。

主があらしを静めると、波はないだ。

波がないだので彼らは喜んだ。

そして主は、彼らをその望む港に導かれた。
彼らは、主の恵みと、

人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ(詩篇107:23~31新改訳)、と。


使徒パウロは、アテネのアレオパゴスでエピクロス派やストア派の哲学者たちに語ったのだそうです。
「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、
手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
また、何かに不自由なことでもあるかのように、
人の手によって仕えられる必要はありません。
神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、
それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
これは、神を求めさせるためであって、
もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。
確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

 ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。

神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、
今は、どこででもすべての人に悔い改め(方向転換)を命じておられます。

なぜなら、神は、お立てになったひとりの人(イエス)により、
義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。
そして、その方(イエス)を死者の中からよみがえらせることによって、
このことの確証をすべての人にお与えになったのです」(使徒17:16~31)、と。

 

 

 イエスが、ガリラヤのカペナウムの町に入られたとき、
ローマ軍の百人隊長が、イエスのもとにユダヤ人の長老たちを送り、
病気で死にかけている自分のしもべを助けに来て下さるよう、お願いしたのだそうです。

 それで、イエスは彼らといっしょに行かれたのだそうですが、
この百人隊長は、友人たちを使いに送って、イエスに伝えたのだそうです。
「主よ。わざわざおいでくださいませんように。
あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、(異邦人の)私にはありません。
ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。
ただ、おことばをいただかせてください。
そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
と申しますのは、私も権威の下にあるものですが、
私の下にも兵士たちがいまして、
そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。
また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします」、と。

 これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来た群衆(ユダヤ人)に
「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と言われ、
使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていたのだそうです(ルカ7:1~10)。

 

 

 別のとき、イエスはこういう話をされたのだそうです。

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、
金持の食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。
犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

 

 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。
金持ちも死んで葬られた。

 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。

しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。
『父アブラハムさま。私をあわれんでください。
ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。
私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

アブラハムは言った。
『子よ。思い出してみなさい。
おまえは生きている間、良い者を受け、
ラザロは、生きている間、悪い物を受けていました。
しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。
ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えてくることもできないのです。』

 

 彼は言った。
『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
私には兄弟が5人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、
よく言い聞かせてください。』

 

 しかしアブラハムは言った。
『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』


 彼は言った。
『いいえ、父アブラハム
もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、
彼らは悔い改めるに違いありません。』

 

 アブラハムは彼に言った。
『もしモーセを預言者との教えに耳を傾けないのなら、

たといだれかが死人の中から生き返っても、
彼らは、聞き入れはしない。』」(ルカ16:19~31新改訳)


 大海の嵐も、死にそうな病も、この方の言葉には従うのに、
ただ、私たち人間だけが、この方を無視し、
自分の理性による善悪の判断によって、自分の思うままをやっているのですね。

 

 それは、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
「父よ。あなたがわたし(イエス)におられ、わたし(イエス)があなた(父である神)にいるように、
彼らもわたしたちにおるようになり、
私たちが一つであるように、彼らも一つであるため」(ヨハネ17:21~22)という、創造の目的からズレている、的外れになっている状態なのだそうです。

 

 今は、その、嵐も沈めるお方が私たちに近くいてくださって、
エスによって、「和解しようよ。帰って来ておくれ」と呼びかけていてくださるのだそうです。
「思いを一つにし、心をひとつにする関係になろうよ」と。
今日も。

 

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