風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

虫けら、役に立たない者、居るだけで場所ふさぎになっている者を招いてくださって

イスラエルよ、
あなたはわたしの僕、
わたしはあなたを選び、
決して見捨てない。
イザヤ書41:9

 神の賜物と招きとは取り消されない。ロマ書11:29

 Ⅰコリント2:6~10
 申命記7:12~26(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/26;金)

 天の神、主、「『わたしはある』という者と名乗られる方は言われるのですね。

しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。
わたしが選んだヤコブ
わたしの友、アブラハムのすえよ。

わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、
地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。

「あなたは、わたしのしもべ。
わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。

見よ。あなたに向かっていきり立つ者はみな、

恥を見、はずかしめを受け、
あなたと争う者たちは、
無いもののようになって滅びる。
あなたと言い争うものを捜しても、
あなたは見つけることばできず、
あなたと争う者たちは、全くなくなってしまう。
あなたの神、主であるわたしが、
あなたの右の手を堅く握り、
「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。
恐れるな。虫けらのヤコブ
イスラエルの人々。
わたしはあなたを助ける。
 ――主の御告げ――
あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。
あなたは主によって喜び、
イスラエルの聖なる者によって誇る(イザヤ41816新改訳)、と。

 神の賜物と招きとは変わることがなく、
取り消されることもないのだそうです。

それは、私たち、人間の側の善さとか、資格、努力によるのではなく、
私たちの側は「虫けら」のよう、
役に立たない者、無いほうがいい者のであるのに(ルカ16:10)、
天の神、主の側でのあわれみ、
私たちを大事に思っていてくださる、
その御思いに依っているのだそうですから。

 〔父である神〕は、御子である方、
天使の万軍に号令される栄光の主を、
「女の子孫」(創世記
315)として、人の世に送り、
この方を、私たちの身代わりとし、
私たちが赦されるために、
私たちの罪を背負ってほふられる犠牲の小羊として、
木にかけて処刑し、私たちを赦そうとしておられるのだそうです。


 これは、この世界の始まる前から、天地創造の前から、
神ご自身の御心の中で決められていたことであって、
この隠された奥義としての神の知恵を、
この世の支配者たちは、だれひとりとして悟らなかったのだそうです。
もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょうから。

 まさしく、
「目が見たことのないもの、
耳が来たことのないもの、
そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、
神の備えてくださったものは、みなそうである」のですね。

 神はこれを、「聖である霊」と呼ばれる方によって
私たちに啓示してくださっているのだそうです(Ⅰコリント
2610)。

 2000
年前の支配者たちと同じように、
今も、この啓示を無視する人たちもいますが、
けれども、私たち、やがて、
このほふられたと見える小羊(黙示録
56)、
手と足に十字架刑での処刑で開いた釘の穴、
わき腹に槍で突き刺された傷跡を持つ方(ヨハネ
20202428
の前に立つことになるのだそうです。

 〔父である神〕は、
私たちのからだの中の「先住民」(申命記
71226)であり、
「神のひとりのようになり、
善悪を知る者になっている(創世記
3522
「生まれたときからの霊」を、
エスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑が済み聖絶されたもの、死んだものとしてくださり、
このイエスをとおして来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方、
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いによって、
〔父である神〕が
私たちひとりひとりを通してしようと思われることを、
私たちひとりひとりがしていく者にしようと
招いていてくださるのだそうですから。
今日も。