風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

谷川の流れを慕いあえぐ、鹿のように

 すべて多く与えられた者は、

多く求められ、

多く任された者は、

さらに多く要求される。ルカ12:48(7/29の週の聖句) 

 まことにあなたはご自分を隠される神、
イスラエルの神よ、
あなたは救いを与えられる。
イザヤ書45:15

 いまだかつて、
神を見た者はいない。
父のふところにいる独り子である神、
この方が神を示されたのである。
ヨハネ1:18

 マタイ25:14~30
 詩42(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句7/29;Ⅴ日曜)

 人間、ひとりひとり、皆、違います。
顔かたちももちろんですが、
才能や環境も。

 良いものを多く持っている者もあり、

それは、時には不公平に思えます。

 天の神、主は、

私たち人間を、

大量生産のビスケットのように、

均一、平均的に造られたのではなく、

御思いのままに、

ユニークな、独自性のある者として造られたのだそうです。

 

 そして、多く与えた者からは多く求め、

多くのものを任せた者からは、

多くのものを要求されるのだそうです。

 

 他のしもべたちから抜きんでて主人に信用され、

家の管理を任されたしもべ(ルカ12:42~48)、

 

 あるいは、

5タラント任されたしもべ、

2タラントまかされたしもべ、

1タラント任されたしもべの時のように(マタイ25:14~30)。

 

 そして、神の評価は、

量や成果そのものではなく、

主人の心、その思いのとおりを実行したかどうか、

その誠実さ、忠実さにあるようです。


 神は、ご自分を隠して救いを与えられる方。

〔父である神〕のふところにおられる〔独り子〕である神、

人となられたイエスによってご自身を示しておられる方。


 それで、人々が、「おまえの神はどこにいるのか」とそしるとき、

「鹿が谷川の流れをしたいあえぐように、

神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎ、

神を、生ける神を求めて渇く」(詩篇42:1~2)のですね。

 

 「わがたましいよ。

なぜ、おまえはうなだれているのか。

なぜ、私の前で思い乱れているのか。

神を待ち望め。

私はなおも神をほめたたえる。

私の顔の救い、私の神を」(詩篇42:10~11)、と。

この新しい週も。

 

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語った言葉が、そのとおりになるよう、見張っておられるのだそうですから。

わたしは、

 

わたしの言葉を成し遂げようと、

 

見張っている。エレミヤ書1:12

 

 

 神の言葉は生きており、


力を発揮し、


どんな両刃の剣よりも鋭い。
ヘブル書4:12

 

 フィリピ書2:12~18

 ヨハネ7:25~39(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句7/28;土)

 天の神、主、

「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、

御自分が語った言葉がそのとおりになるように
見張っておられる、というのですね。

 

 この方の語られた言葉は生きていて、

力を発揮する、

権威ある言葉なのだそうですから。

 

「北から災いが来る」と言われると(エレミヤ1:14)、

そのとおりになり、

 

 「主よ。お心一つで、私をきよくしていだけます」と言う
ツアラート(重い皮膚病、ハンセン病)の人に
エスが、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われると
ツアラートがきよめられ(マタイ8:1~4)、

 

 「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」と言われると、

中風で死にかけている百人隊長のしもべはいやされた(マタイ8:5~13)

のだそうです。


 神は、言葉、

そのご自身の御思いを、

エスを通して来てくださる

〔聖である霊〕と呼ばれる方によって

私たちの心に置いてくださり、

私たちの願いとし、

志としてくださって、

御自分がしようと思っておられるその事を、

私たちに行わせてくださるのだそうです(ピリピ2:13)。

私たちを御自分と心を一つにしている者として。


 イエスは言われました。

「まだしばらくの間、

わたしはあなたがたといっしょにいて、

それから、わたしを遣わした方のもとに行きます」(ヨハネ7:33新改訳)。


 イエスは、そのことばのとおりに、

〔父である神〕のお心に従って、

私たちすべての人間の身代わりとなり、

十字架刑での処刑を受けてくださり、

死んで、墓に葬られ、

三日目の日曜日の早朝、

死人の中から新しい霊のからだによみがえり、

40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語ったのち、

オリーブ山で、弟子たちが見守る中、

上げられ、雲に迎えられ、

遣わされた方、天の〔父である神〕の右の座に帰られたのだそうです。


 そして、〔父である神〕の右の座にあって、

もう一人の方、

〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださり、

 

 この方によって、

〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを

心に置いてくださり(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、

受け入れる者が〔父である神〕と同じ思いを思い、

一つ心になり、

〔父である神〕がその人を通してしようと思っておられることを

していくようにしてくださるのだそうです。


 そして、

「わたしの言葉を成し遂げようと、

見張って」いてくださるのですね。

今日も。

 

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今からは、あなたのおことばを守らせてください。

 わたしは迷い出て、


ついに卑しめられました。

 

今からは、


あなたの仰せを守らせてください。
詩119:67

 

 

エスの言葉:

 

わたしを愛する人は、

わたしの言葉を守る。ヨハネ14:23 

 

Ⅰペテロ3:8~17

 ヨハネ7:14~24(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句7/27;金)

 

 私たち、

「神にひとりのようになり、善悪を知る」ようになって、

自分の理性による善悪の判断のままに、

創造者であられる天の神、主の御心から

迷い出てしまっている者なのですね。

 

 それで、

大きな困難などにより、

自分に力の限界を知り、

自分が造られたものであることを悟ることもあるようです。

 

 そして、造り主である天の神、主のおことばを求め、

御思いのとおりに生きようとするようになることも。

 

 イエスは言われます。

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」、と。

 

 愛、

「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている

私たちから出て来る愛は、

相手を自分の思うとおりにしようとする傾向があります。

 

 天の神、主から来る愛は、

相手の思うことがそのまま成るように願うもの、

相手の願うようにしてあげたいと思うものなのだそうです。

 

 イエスが、

「わたしが天から下って来たのは、

自分のこころを行なうためではなく、

わたしを遣わした方のみこころを行なうためです」(ヨハネ6:38)と言っておられるように。


 私たちの身代わりとなり、

神に呪われたものとなって

十字架刑での処刑を受けてくださり、

死んで墓に葬られ、

三日目に死人のうちから新しい霊のからだによみがえり、

40日に渡って何度も弟子たちに現れ、

神の国のことを語ったのち、

オリーブ山で弟子たちの見守る中、天に上げられ、

〔父である神〕の右の座に帰られたイエス


 そのイエスを通して来てくださる、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が

受け入れる者の心に置いてくださる

〔父である神〕の御思いは、

私たちが心を一つにし、

同情し合い、

兄弟愛を示し、

憐れみ深く、

謙遜な心で、

悪をもってあくにむくいず、

侮辱をもって侮辱に報いず、

かえって祝福を与えたい思いなのだそうです(Ⅰペテロ3:8~9)。


 イエスが、

私たちに代わって受けてくださった十字架刑での処刑によって、

私自身である

〔生まれたときからの私〕という霊を

処刑されたもの、死んだものとしていただいた私たちは、

 

 その、自分から、

〔生まれたときからの私〕から出て来る思いは、

「死んだもの」から出て来た思いであると認め(計算し)て

エスの前に差し出し、受け取っていただきながら、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる

〔父である神〕の御思いによって行動するようにしていただけるのだそうですから。

 

 イエスが、

自分から語るのではなく、

〔父である神〕の御思いのとおりを語っておられたように、

語る言葉の一つ一つにおいてさえも(ヨハネ7:17)。

今日も。

 

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永遠のいのち、〔父である神〕の御思いの中を生きる

 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。
しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、
わたしの結ぶ平和の契約が
揺らぐことはないと、
あなたを憐れむ主は言われる。
イザヤ書54:10

 神は、その独り子をお与えになったほどに、
世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
ヨハネ3:16

 Ⅰコリント12:27~13:3
 ヨハネ7:1~13
   (ローズンゲン日々の聖句7/26;木) 

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
私たち人間をあわれんでくださる方。
私たちをいつくしんでくださる方なのだそうです。

 私たちは、この方から、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)と願われ、
「われわれ」、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において、
自由意思で自発的に
心を一つにし、
思いを一つにし、
行動を一つにし、
存在を一つにしていらっしゃる、
その一つに、
愛と尊敬において、
自発的に、自由意思で加わる者を
との願いで造られた者なのだそうです。

 けれども、最初の人、アダムとエバは、
その造られた、神と心を一つにする場にとどまることを善しとせず、
もっと偉い者になろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになって(創世記3:5、22)、
造り主である天の神、主に背き、
対立、対抗する者になったのだそうです。
創造の目的から「的外れ」の者に。


 そして、このアダムとエバの子孫である私たち人間は、
この「的はずれ」の性質を受け継いで生まれて来ているのですね。

 けれども、神の慈しみは、
そのような私たち人間からも移ってしまうことはないのだそうです。

 〔御子である神〕が、
このアダムの〔的外れ〕の性質を受け継がない
「女の子孫」(創世記3:15)として、
ダビデの子孫の一人であるナザレ村の貧しい一処女、
マリヤの胎を通して、
人の世の、この歴史の中に来てくださり、

 およそ33歳の頃、
私たち、すべての人間の身代わりとなって、
神に呪われた者となって木に掛けられ、
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 〔父である神〕は、
このイエスの受けられた処刑を、
私たち、すべての人間の
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている
〔生まれたときからの私〕という霊が処刑されたもの、死んだもの、
処罰が終わっているものとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、
受け入れる者にもう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いを
受け入れる者の心に置いてくださり(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、
受け入れる者が〔父である神〕と同じ思いを思い、
一つ心になり、
〔父である神〕がしようと思われることをしていくようにしてくださるのだそうです。
エスがそうであったように。

 それで、受け入れる者は、
「永遠のいのち」の中を生きる、
唯一のまことの神、
〔父である神〕と
〔父である神〕から遣わされた〔御子である神〕イエスを、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって
体験的に知りながら生きる(ヨハネ17:3)、

〔父である神〕の御思いの中を生きる(ヨハネ12:50)ように
していただけるというのですね。

 そして、この平和の契約、新しい契約は、
揺らぐことがないのだそうですから。

 受け入れる者は、
キリストのからだの一部分、各器官として、
かしらであるキリストから来る
〔父である神〕の愛の御思いの中を生きるようにしていただけるのですね(Ⅰコリント12:27~13:3)。

 〔父である神〕のご計画の時々に合わせて(ヨハネ7:6~8)。
今日も。

 

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すべてのことは、神から発し、神によって成り、神に至るのだそうですから。

 神はご自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
創世記1:27

 主においては、
男なしに女はなく、
女なしに男はありません。
それは女が男から出たように、
男も女から生まれ、
また、すべてのものが神から出ているからです。
Ⅰコリント11:11~12

 マタイ5:33~37
 ヨハネ6:60~71(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/25;水)

 天の神、主は、霊であって、
形をもたないお方なのですね。

 それで、
「ご自分にかたどって人を創造された」という、
「われわれのかたち、われわれに似せて」(創世記1:26)とは、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神の
関係をさしているということでしょうか。

 「それは、父よ、
あなたがわたしにおられ、
わたしがあなたにいるように、
彼らもわたしたちにおるようになるためです」(ヨハネ17:21)と
エスが言っておられるように。

 そして、
ひとりの男とひとりの女、
結婚は、この神の「かたち」そのものなのでしょうね。

 「それゆえ男はその父母を離れ、
妻と結び合い、
ふたりは一体となるのである」(創世記2:24新改訳)の
「それゆえ」は、
直前の、女が男の「助け手」として、
男のあばら骨から女が造られたことをさすのでしょうが、

 さらに、
「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」にまで
さかのぼることができるのでしょうか。

 つまり、男一人では、
「われわれのかたち、われわれに似せ」た関係ができない、
ということになるのでしょうか。


 結婚は、

「われわれ」、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において、自由意思で、自発的に
思いを一つにし、心を一つにし、行動を、存在を一つにしていらっしゃる、

 「自分のこころを行なうのではなく、
遣わした方のみこころを行なおう」としていらっしゃる(ヨハネ6:38、16:14)、

 その一つの中に加えられて、
神と思いを同じくし、心を一つにした者どうしが、
一つに、一体になるという。

 だから、神は、結婚を大切にし、
これを壊す不品行、姦淫を極端に嫌われるのでしょうね。

 よく、世で言われている、
「ふたりが合意の上ならいい」のではなく、
ふたりとも石で打ち、悪を除き去るように(申命記22:22~27)と
厳しく命じておられるように。

 私たちも、神から出ている者、
〔父である神〕の御思いによって生まれて来て、
御思いによって今日まで運ばれて来たもの。

 だから、
私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、
三日目に死人のうちから新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語ったのち、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方が
受け入れる者の心に置いてくださる御思いは、
エスがそうであったように、
愛と尊敬において、自由意思で自発的に、
「自分の思いが成ることではなく、〔父である神〕の御思いが成るように」と
願っていく思いのようです。

 それで、事に当たっては、
自分の思いを通そうとして、神かけて誓うようなことはせず、
事実を事実のままに、
「はい」は「はい」、
「いいえ」は「いいえ」とだけ言い、
〔父である神〕の御思いが成ることを見ていくようになるのだそうです(マタイ5:33~37)。

 イエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって(ヨハネ6:60~71)。
今日も。

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地上の諸国民は、すべて、この方、イエスによって祝福を得るのだそうです

 イサクへの主の言葉:
地上の諸国民はすべて、
あなたの子孫によって祝福を得る。
創世記26:4

 東や西から大ぜいの人が来て、
天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に
宴会の席に着く。
マタイ8:11

 マタイ7:7~12
 ヨハネ6:28~40(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句7/23;月)

 このイサクへの約束は、
およそ2千年後、
アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるダビデ
そしてそのダビデの子孫であるマリヤの胎を通して、
生まれられたイエスによって成就したのだそうです。

 イエスは、十字架刑での処刑を受けられましたが、
〔父である神〕は、このイエスの処刑をもって
すべての人間の
そむき、「的外れ」の処罰が終わったものとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、これを受け取った者に、
もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、
受け入れる者の心に、
ご自身が一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。

 それで、受け入れる者は、
この部分において、
父である神と同じ思いを思い、一つ心になって、
一つ行動をとる者にしていただけるのだそうです。

 それで、天の神、主と一つになっている者として、
天の御国での宴会の席を用意していただけるのだそうです。
エスは、
「わたしについて来なさい。

わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです」(ヨハネ12:26)
と言っておられますから。

 私たちが、もし、
求め続けるなら与えられ、
捜し続けるなら見つけ出し、
たたき続けるならなら与えられるのだそうですから(マタイ7:7~9)。


 そして、イエスがそうであったように、
「自分の心を行なうのではなく、
遣わした方の御心を行行なう」(ヨハネ6:38)ことを求めるようになるのだそうですから。
今日も。

 

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戦車、馬、軍備ではなく、主の御名を誇りとして

 光の子として歩みなさい。
光から、
あらゆる善意と正義と真実が生じるのです。
エフェソ書5:8~9(7/22の週の聖句)

 戦車を誇る者もあり、
馬を誇る者もあるが、
我らは、我らの神、
主の御名を唱える。
詩20:8

 キリスト・イエスにおける恵みによって
強くなりなさい。
Ⅱテモテ2:1

 マタイ5:13~16
 詩48(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/22;Ⅳ日曜)

 イエスは、天の御国のたとえとして、
花婿を出迎えるため、
ともし火を持って花婿を出迎える10人の乙女の話しをしておられます。
5人は予備の油を用意していたが、
あとの5人は予備の油を用意していなかったという。

 また、イエスは言われます。
「あかりをつけて、それを枡(ます)の下に置く者はありません。
燭台の上に置きます。
そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、
人々があなたがたの善い行いを見て、
天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:15~16)。

 ともし火、あかり、
当時はランプだったのですね。
ランプは、ランプ自身で光を出すことは出来ません。
ランプは中の油が灯心を通って、その先で燃えて光を放つものです。

 イエスの話しの中などでは、
油は、〔聖である霊〕と呼ばれる方をさしていることが多いです。
すると、ランプの器具や灯心は私たちのことなのでしょうか。

 「光の子として歩む」、
「あなたがたの光を人々の前で輝かせる」、
その光は、
私たち自身から出るものではなく、
私たちのうちに来られる〔聖である霊〕と呼ばれる方が、私たちをとおして働かれる、
その働きの現れのことなのでしょうね。

 「あらゆる善意と正義と真実」、
それは、私たちのうちにあるものではなく、
私たちのうちから出て来るものではなく、
天の神、主のご性質なのでしょうから。

 自分で立とうとする者は、
自分の力を強くし、自分の力の強さを誇りとするようです。
「戦車を、軍馬を」、軍備を整えて安心し、誇るように。

 けれども、キリストにおける恵みによって、
私たちの功績によらず、
恵みとして、
エスによって来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方の強さを
私の強さとする生き方もあるようです。

この詩篇48篇の作者のように。

 主は、
「『わたしはある(I AM)という者」と名乗られる方は、
大いなる方。
大いにほめたたえられるべき方。
その聖なる山、われらの神の都において。
高嶺の麗しさは、全地の喜び。
北の端なるシオンの山は大王の都。

 神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された。
見よ。王たちは相つどい、ともどもにそこを通り過ぎた。
彼らは、見るとたちまち驚き、おじ惑って急いで逃げた。
その場で恐怖が彼らを捕らえた。
産婦のような苦痛。
あなたは東風でタルシシュの舟を打ち砕かれる。
私たちは聞いたとおりを、そのまま見た。
万軍の主の都、われらの神の都で。
神は都を、とこしえに堅く建てられる。(詩篇48:1~8新改訳)

 私たちに代わって
十字架刑での処刑を受けてくださって、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている(創世記3:5、22)、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑が終わったもの、死んだものとしてくださり、

 墓に葬られ、
三日目に死人のうちより新しい霊のからだに復活して、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

 そのイエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
受け入れる者をとおして、
〔父である神〕の御思いのとおりを実行してくださるのだそうですから。

 善意と正義と真実をもって。
この新しい週も。

 

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