風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

お互いの足を洗い合って

 神は、
善をも悪をも、
一切の業を、
隠れたこともすべて、
裁きの座に引き出されるであろう。
コヘレト(伝道の書)12:14

 

 心のきよい人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
マタイ5:8

 

 創世記32:22b~32
 ロマ書14:1~12(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句4/29;月・祝)


 相手に損害を与えてはいけない。
あなたの神を畏れなさい。
レビ記25:17

 

 わたしがあなたがたにした(弟子の足を洗う)通りに、
あなたがたもするようにと
模範を示したのである。ヨハネ13:15

 

 ヨブ記42:7~13(14~17)
 ロマ書14:13~23(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句4/30;火)


 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
善いことも悪いことも、
隠れたこと、私たちの心を行き来した思いもすべてを御前に引き出し
裁きを行なわれる方なのですね。

 

 だから、心のピュアな人、
混じりけのない、ふた心でない、単一な心の者は幸いだと言われるのですね。

 

 神は、
「私はこんなひどい仕打ちを受けるような悪いことをした覚えはない。
神と言い争いたい」と言い続けるヨブを善しとし、
自分の聖書知識と経験によってヨブを罪ありとし、
神を弁護し、ヨブ゙に悔い改めを迫る三人の友人のほうを怒られたのだそうです。
「あなたがたがわたしについて真実を語らず、
わたしのしもべヨブのようではなかったからだ」と。

そして、ヨブの友人たちのための祈りを受け入れられたのだそうです(ヨブ42:7~9)。

 

 私たちの〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、
他人の信仰をさばき、
また逆に、信仰の弱い人を軽く見、あなどります。

 

 けれども、【聖である霊】と呼ばれる方。
エスが十字架刑での処刑を受けて、死んで葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
雲に包まれて見えなくなられたイエス

 

 そのイエスが天の【父である神】の右の座にあって派遣してくださる
【聖である霊】と呼ばれる方が、私たちの心に置いてくださる
【父である神】の御思いは、
信仰の弱い人を受け入れ、
また、信仰の弱い人も強い人をさばかず、
相手に損害を与えないで、
平和に役立つこと、
お互いの霊的成長に役立つことを追い求めていくもの、
愛によって行動していくもの、なのだそうです(ロマ14:1~23)。

 

 だから、私たちは、
自分の〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、
処刑されたもの、死んだものから出て来た思いであると認めて、
これを神の御前に投げ捨て、
【聖である霊】が心に置いてくださる
【父である神】の御思いによって生きるのですね。

 

 イエスがなさったように、
互いに、互いの足を洗い合って。

 

 キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、
批判し、滅ぼさないでください(ロマ14:15)、とパウロが言うように。

今日も。

 

 

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らくだが針の穴を通る、そのようなことを私たちのために

 神は豊かな憐れみにより、
私たちを新たに生まれさせ、
生き生きとした希望を与えて下さった。
Ⅰペテロ1:3(4/28の週の聖句)

 

 見よ、わたしこそ神である。
わたしのほかに神はない。
わたしは殺し、また生かす。
わたしは傷つけ、またいやす。
わが手を逃れうる者は、一人もない。
申命記32:39

 

 イエスは「重ねて言うが、
金持ちが神の国にはいるよりも、
らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」と言われた。
弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、
「それでは、誰が救われるのだろうか」と言った。
エスは彼らを見つめて、
「それは人間にできることではないが、
神は何でもできる」と言われた。
マタイ19:24~26

 

 ヨハネ20:19~20(21~23)24~29
 詩116
   (ローズンゲン日々の聖句4/28;Ⅳ日曜)


 「見よ、わたしこそ神である。
わたしのほかに神はない」と言われる方、
人を殺し、また生かし、
人を傷つけ、またいやす方。
この方の手から逃れさせ、
この方がしようとされていることを止めさせる者はいないのだそうですから。

 

 そして、その方の大きなあわれみのゆえに、
イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、
私たちを新らしく生まれさせて、
生き生きとした希望を与え、
生ける望みを持つようにしてくださっているのだそうです。
らくだが針の穴を通るような出来事を完了して。

 

 その日、イエスが十字架刑での処刑を受けてくださって、
近くにあった
アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られた日(金曜日)から
三日目の週の初めの日、日曜日、
死人の中から新しい霊のからだに復活したイエスは、
早朝、墓に来たマグダラのマリヤたちに御自身を現わされ、
エルサレムからエマオに帰る二人の弟子と歩みをともにされて、
夕食の席に着かれたのですね。

 

 また、その日の夕方、
ユダヤ人を恐れて戸が閉められている部屋の
弟子たちのところに入って来られ、言われたのだそうです。
「平安があなたがたにあるように。
父がわたしを遣わしたように、
わたしもあなたがたを遣わします。」

 

 そして、彼らに息を吹きかけて
聖霊を受けなさい。
あなたがたが(【父である神】と一つ思いになって)誰かの罪を赦すなら、
その人の罪は赦され、
(【父である神】と一つ思いになって)誰かの罪をそのまま残すなら、
それはそのまま残ります」と。

 

 そして、八日の後、
その時、そこにいなかったトマスには、
「あなたの指をここにつけて、わたしの手(の釘の跡)を見なさい。
手を伸ばして、
わたしのわきに手を差し入れ(槍で突き刺された跡に触っ)てみなさい。
信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。


 それで、トマスは復活されたイエス
「私の主、私の神」と答えたのだそうです(ヨハネ20:19~29)。
トマスが、イエスの復活が事実だと分かるようにしてくださって。


 私たちも、この神、
【父である神】、【御子である神】、【聖である霊】と呼ばれる神に
告白しながら進むのですね。


 私は主を愛する。
【主】は私の声、私の願いを聞いてくださるから。
主は、私に耳を傾けられるので、
私は行けるかぎり主を呼び求めよう。
死の綱が私を取り巻き、
黄泉の恐怖が私を襲い、
私は苦しみの中にあった。
そのとき、私は【主】の御名を呼び求めた。
【主】よ。どうか私のいのちを助け出してください。」


 【主】は情け深く、正しい。
まことに、私たちの神はあわれみ深い。
【主】はわきまえのない者を守られる。
私がおとしめられたとき、私をお救いになった。
私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。
【主】はお前に、良くしてくださったからだ。

 

 まことに、あまなたは私のたましいを死から、

私の目を涙から、
私の足をつまずきから、救い出されました。(詩篇119:1~8新改訳)、と。

この新しい週も。

 

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旅の無事を祈って

 私たちは神の前に身をかがめ、
私たちの旅の無事を祈ることにした。
エズラ記8:21

 

 イエスは言われた。
「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、
だれも父のもとに行くことができない。」
ヨハネ14:6

 

 ルカ24:1~12
 ロマ書13:8~14(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句4/27;土)


 ペルシャの王、アルタシャスタの時代、
バビロンからエルサレムに帰る旅に出発しようとするときに、
エズラは、まず、皆を集め、
断食を布告し、神の前でへりくだり、
道中の無事を神に願い求めたのだそうです。

 

 エズラは、
道中の敵から助けてもらうための部隊と騎兵たちを
アルタシャスタ王に求めるのを恥じたのだそうです。

 

 かつて王に、
「私たちの神の御手は、
神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、
その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る」
と言っていたので。

 

 神の御国への旅も、
エスが「道であり、真理であり、いのちであるわたしを通してでなければ、
だれひとり父のみもとに、神の国に来ることはありません」と言われているとおりに、
エスを通してでなければだれひとり、
御国に到達することはできないのだそうです。

 

 十字架刑で処刑され、
アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られたイエス

 

 その三日目、週の初めの日、日曜日の明け方早く、
準備しておいた香料を持って墓に着いた女たち、
マグダラのマリヤ、ヨハンナ、ヤコブの母マリヤとほかの女たち。

 

 見ると、墓の石が墓からわきにころがしてあって、
主イエスのからだはなく、途方にくれていたのだそうです。

 

 すると、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、
彼女たちの近くに来て言ったのだそうです。
「あなたがたは、なぜ、生きている方を死人の中で捜すのですか。
ここにはおられません。
よみがえられたのです。
まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、
十字架につけられ、
三日目によみがえらなければならない、
と言われたでしょう」(ルカ24:1~8)、と。

 

 イエスが受けてくださった十字架刑での処刑で、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになって(創世記3:5、22)、
「的外れ」になっている〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑済み、死んだものとしていただかなければ、
私たちに【聖である霊】と呼ばれる方が来てくださることはできず、

 

この方が来てくださらなければ、
私たちが【父である神】と
思いを同じくし、心を一つにすることは不可能なのですね。

 

 「神の国」は、【父である神】、【御子である神】イエス
心を一つにしている者がいるところで(ヨハネ12:26)、

 

 この血肉のからだを御霊のからだに変えていただいた者だけが
入るところなのだそうですから(Ⅰコリント15:35~54)。

 

 だから、イエスを通して出なければ、
【父】のもとに行くことはできないのですね。

 

 私たちは、十字架刑での処刑を受けてくださり、
死んで葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
天の父である神の右の座に復帰されたイエスを通して来てくださる
【聖である霊】と呼ばれる方によって、
【父である神】の御思いが心にある者にしていただき、
【父である神】の御思いを
わが思いとして生きて行くようにしていただけるのだそうです。

 

 互いに愛し合うことのほかには、だれに対しても何の借りもなく、
隣にいる人を自分自身のように愛する思いを心に置いていただいて。

 

 夜はふけて、昼が近づいているのだそうです。
【父である神】は私たちにも、
闇のわざ、遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみをイエスの中に打ち捨てて、
昼間らしい、正しい生き方、
イエス・キリストを着る生き方、
神の国の生き方を与えてくださるのだそうですから。

今日も。

 

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永遠のいのちにいたる食べ物をくださり

 主の言葉:
なぜ、
糧にもならぬもののために銀を量って払い、
飢えを満たさぬもののために労するのか。
わたしに聞き従え聞き従えば、
良いものを食べることができる。
イザヤ書55:2

 朽ちる食べ物のためではなく、
永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。
これこそ、人の子が
あなたがたに与える食べ物である。
ヨハネ6:27

 

 ルカ24:36~47
 ロマ書13:1~7(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句4/26;金) 

 

 私たち人間は、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっていて(創世記3:5、22)、
自分の力で自分の義を得、
神の国に入ろうとする性質を持っているようです。

 天の神、主、「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方に、
対立、対抗して、
神のひとりのようになり、神と肩を並べ、
神の前に堂々と立てる者になろうと。

 

 けれども、天の神、主は言われます。
その道は、糧にもならぬもののために金を払い、
飢えを満たすことの出来ぬもののために労していることだ、と。

 

 その道は、永遠のいのちに到達できるものではないのだそうです。
全ての人が迷い出て、
みな、ともに無益な者(ロマ3:12)、
役に立たない者、
ある甲斐の無い、居るだけで場所ふさぎになっていて
無いほうがいい者、になっているのだそうですから(ルカ17:10)。

 

 それで、【父である神】は、
ご自分の側で、別の道(ロマ3:21)、
永遠のいのちに至るパン(食べ物)を食べる(ヨハネ6:27~63)、
エスと一つになることで御国に到達する道(ヨハネ17:21~22)を
用意してくださっているのだそうです。
永遠のいのちとは、
唯一のまことの神、
【父である神】と【御子である神】イエス
体験的に知ること(ヨハネ17:3)、なのだそうですから。

 

 イエスが十字架刑で処刑され、
アリマタヤのヨセフの墓に葬られて三日目の、その日曜日のこと、
弟子たちのところに、
ユダヤ人を恐れ、戸を閉めていたのに(ヨハネ20:19)、
エスが入って来られ、彼らの真ん中に立たれたのだそうです。

 霊を見ているのだと驚き恐れている弟子たちに、
エスは「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。
わたしにさわって、よく見なさい。
霊ならこんな肉や骨はありません。
わたしは持っています」と言われ、

 それでも、うれしさのあまうりまだ信じられず、
不思議がっている弟子たちに、
「ここに何か食べ物がありますか」と言われ、
差し出した魚一切れを彼らの前で食べられたのだそうです。

 

 そして言われました。
「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、
あなたがたに話したことばはこうです。
わたしについてモーセの律法と預言者詩篇とに書いてあることは、
必ず全部成就するということでした。

 次のように書いてあります。
キリストは苦しみを受け、
三日目に死人の中からよみがえり、
その名によって、
罪の赦しを得させる悔い改めが、
エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(ルカ24:36~47)、と。

 天の、【父である神】の右の座に復帰されたイエスが派遣してくださる
【聖である霊】と呼ばれる方。
その方が心に置いてくださるのだそうです。
【父である神】の御思いを。
私たちが【父である神】、【御子である神】と思いを一つにして歩むようにと。

 

 上に立つ権威に従い、
税を納めなければならない人には税を納め、
恐れなければならない人を恐れ、
敬わなければならない人を敬い(ロマ13:1~7)ながら。
永遠のいのちの中を。

今日も。

 

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喜び歌い、祝わせようと

 朝には
あなたの慈しみに満ち足らせ、
生涯、
喜び歌い、喜び祝わせてください。
詩90:14

 

 私たちの主イエス・キリストの父である神は、
ほめたたえられますように。
神は、
私たちをキリストにおいて、
天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
エフェソ書1:3


 ヨハネ21:1~14
 ロマ書12:14~21(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句4/25;木)


 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
朝ごとに、私たちを恵みと慈しみで満ち足らせ、
生涯、私たちのすべての日に、
喜び歌い、喜び祝い、楽しむようにしようとしていてくださる方なのですね。

 

 私たちを、イエスにあって、
天にあるすべての祝福をもって満たし、
祝福していてくださるのだそうです。

 

 私たちを世界の基の置かれる前から、
エスにあって選び、
御前で聖く、傷のない者にしようとしていてくださるのだそうですから(エペソ1:4)。

 

 それで、まず、
【御子である神】が、「女の子孫」として(創世記3:15)、
ダビデの家系である処女マリヤの胎を通して人の世に来られ、
およそ33歳の頃、
私たち、すべての人間の「的外れ」の責任をご自身に負って
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 

 神と一つになるものをとの願いで造られていながら(創世記1:26、ヨハネ17:21~23)、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになって(創世記3:5、22)、
創造の目的から「的外れ」になっている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑済み、死んだものとするために。

 

 そのすべての手続きを完了し(ヨハネ19:30)、
墓に葬られたイエスは、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から復活されたのですね。
新しい霊のからだに。

 

 そして、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
神の国のことを語られたのですが、
三度目は、ガリラヤ湖で漁をしていたペテロたち7人に、でした(ヨハネ21:1~14)。

 

 そして、イエスは、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
雲に包まれ、見えなくなられたのだそうです。

 

 「わたしが父のもとに帰ったなら、
あなたがたにもう一人の助け主(ヨハネ14:16、16:7)を派遣する。
だからエルサレムを離れないで、父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、あなたがたは聖霊バプテスマを受けるからです」と言い残して。

 そして、10日後の五旬節(ペンテコステ)の祭りの日に、
待ち望んでいた弟子たちに
約束の【聖である霊】と呼ばれる方が来られて、
【父である神】が話そうとしておられる、その思いを
弟子たちの心に置き、
弟子たちは、【聖である霊】と呼ばれる方が弟子たちの心に置かれた
その御思いのとおりに話し出したのですね(使徒2章)。

 

 「見よ。その日が来る。
――主の御告げ―― 
その日、わたしは、
イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、
彼らの心にこれを書きしるす」(エレミヤ31:31、33)。

 

「わたしがあなたがたをすべての汚れからきよめるそのとき、
あなたがたに新しい心を与え、
あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
わたしの霊をあなたがたのうちに授け、
わたしのおきてに従って歩ませ、
わたしの定めを守り行わせる。
あなたがたはわたしの民となり、
わたしはあなたがたの神となる」(エゼキエル36:25~28)
と言われた【父】の約束のとおりに。

 

 それで受け入れる者は、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになって、
「的外れ」になっている〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、
処刑されたもの、死んだものから出て来た思いであると認めて、
これを御前に差し出し、見ていただきながら、

 

 イエスが【父である神】の右の座から受け入れる者に派遣してくださる
【聖である霊】と呼ばれる方が心に置いてくださる
【父である神】の御思いによって歩むようにしていただけるのですね。

 

 私たちを迫害する者を祝福し、
喜ぶ者といっしょに喜び、
泣く者といっしょに泣き、
互いに一つ心になり、
高ぶった思いを持たず、
身分の低い者に順応し、交わり、
だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、
すべての人が良いと思うことを図り、
自分に関する限り、すべての人と平和を保ち、
自分で復讐することをせず、
「復讐はわたしのすることである。
わたしが報いをする」と仰られる神の怒りにお任せし、
敵が飢えたなら食べさせ、
渇いたなら飲ませ、
悪に悪を返すのではなく、
善をもって悪に打ち勝つようにさせてくださるのだそうです。
【父である神】の御思いのとおりに。

 

 【父】は、私たちを
ご自身の慈しみに満ち足らせ、
喜び歌い、祝わせようと、
あらゆる霊的祝福で満たしていてくださるのだそうですから。

今日も。

 

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見て、喜ぶようにと

 主よ、私の神よ、
私の目をあなたに向け、
あなたを避けどころとします。
私のたましいをうつろにしないでください。詩141:8

 イエスは弟子たちに
手とわき腹とをお見せになった。
弟子たちは、主を見て喜んだ。ヨハネ20:20

 ヨハネ20:11~18
 ロマ12:9~13(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句4/24;水)

他の弟子たちから復活されたイエスに会ったと聞いても
12弟子の一人、トマスは、言っていたのですね。
「私は、(イエスの)その手に(十字架刑で開いた)釘の跡を見、
私の指を釘のところに差し入れ、
また私の手を
(イエスが死んでいることを確認するためローマ兵が槍で突き刺した)
そのわきに差し入れてみなければ、
決して信じません」と。

その1週間後、
エスが弟子たちのところに来られて、トマスに
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。
手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。
信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われたとき、
トマスは、イエスに向かって言ったのだそうです。
「わたしの主。私の神」と。

十字架刑での処刑を受けられ、
墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活されたイエス

私たちもこの方を
「私の主。私の神」とするのですね。
私たちをうつろにしたり、放り出したりしない避け所と。

エスが葬られていた墓のところにたたずんで泣いていた
マグダラのマリヤに御自身を現わし、
「マリヤ」と呼びかけてくださった(ヨハネ20:11~18)イエスは、
私たちの心にも喜びを満たしてくださるのですね。

そして、
天の、【父である神】の右の座に復帰されたイエスは、
「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。
それは、もしわたしが去って行かなければ、
助け主があなたがたのところに来ないからです。
しかし、もし行けば、
わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(ヨハネ16:7)
と言っておられたとおりに、

10日後の五旬節(ペンテコステ)の祭りのとき、
エルサレムにとどまり、待ち望んでいた弟子たちに、
もう一人の助け主(ヨハネ14:16)、
【聖である霊】と呼ばれる方を派遣され、
弟子たちがこの方が話させてくださるとおりに
他の言葉で話すようにされたのですね。

新しい契約、
「わたしはわたしの律法(御思いが言語化されたもの)を彼らの中に置き、
彼らの心にこれを書きしるす」(エレミヤ31:31~33)、
「あなたがたに新しい心を与え、
あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
わたしの霊をあなたがたのうちに授け、
わたしのおきて(御思いが言語化されたもの)に従って歩ませ、
わたしの定めを守り行わせる」(エゼキエル36:25~28)
との約束の通りに、
新しい契約を実現してくださって。

それで、この方によって、私たちも、
【父である神】の御思いを心に置いていただいて、
偽りのない愛、
悪を憎み、善に親しむ思い、
兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、
尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思う思い、
勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕え、
望みを抱いて喜び、患難に耐え、
絶えず神と語らい、
聖徒の入用に協力し、旅人をもてなす(ロマ12:9~13)
思いが心にあるようにしていただけるのだそうです。

わたしの主、私の神、
【父である神】と思いを一つにしていただいて。

今日も。

 

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信仰のないさまも、見守っていただきながら

 主は御自分の民の裁きを行ない、
僕らを力づけられる。
申命記32:36

 

 イエスの言葉:
言っておくが、
神は速やかに裁いてくださる。
しかし、人の子が来るとき、
果たして地上に信仰を見いだすだろうか。
ルカ18:8

 

 ヨハネ20:1~10
 ロマ書12:1~8(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句4/23;火)


 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
ご自分の民のために正しいさばきを行い、
力づけてくださるのだそうですね。
ご自分の民を憐れみ、かばって。
彼らの力が失せ去り、
未成年も成人した者も、
奴隷も自由の者もいなくなるのを見られるそのときに。


 神はすみやかにこのことをしてくださるのだそうです。
けれども、イエスは言われるのですね。
「人の子が(二度目に)来るとき、
地上にその信頼が見られるであろうか」と。

 

 ペテロやヨハネをはじめとするイエスの弟子たちは、
少なくとも、イエスが何度か、
ご自身が、祭司長、律法学者たちによって殺され、
三日目によみがえる、
と予告されたのを聞いていました(マタイ16:21、ルカ18:32~33)。


 けれども、弟子たちには理解できず、
信じられていなかったのですね。
エスが葬られた墓が空になっていることを見ても(ヨハネ20:1~10)。

 

 あの過ぎ越しの祭りの備えの日の金曜日の朝、
9時頃に十字架につけられ、
午後3時頃、「完了した」と言われて息を引き取られたイエス

 

 過ぎ越しの祭りと重なった大いなる安息日が始まる日没までにと、
時間がなく、急いで、
近くにあった、
アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に納められたのですが、

 

 三日目、日曜日の早朝、
マグダラのマリヤやほかのマリヤ達が墓に行ってみると墓は空で、
エスのからだはなかったのですね。
大の大人5~6人でないと動かせない大きな石のふたがされ、
ローマ帝国の封印がされ、

(おそらく、4人一組の)ローマ兵によって番をされていたにもかかわらず。

 

 死人の中から新しい霊のからだに復活したイエスは、
まず、泣いているマリヤに御自身を現わされ、
その後、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の【父である神】の右の座に復帰なさったのだそうです。

 

 そして、ご自身が受けられた十字架刑で処刑で、
〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑されたもの、死んだものとしていただいたことを受け取った者に、
もう一人の方、
【聖である霊】と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。

 

 この方は、
受け入れる者のうちに来て、
その心に【父である神】の御思いを置いてくださるのだそうです
(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 

 それで、受け入れる者は、
生まれたときからの自分に死に、
新しく【聖である霊】と呼ばれる方によって生きるように
していただけるのだそうです(ヨハネ3:1~8、ロマ6:11)。

 

 それで、受け入れる者は、
エスのように、
【父である神】と思いを同じくし、心を一つにして、
神がしようと思われることをしていくようにしていただけるのだそうです。

 

 自分を神にささげ、
心を一新していただき、
神が思われている分に応じて(ロマ12:1~8)。

神が見守っていてくださる中で。

今日も。

 

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