風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

この人が、多くの人の過ちを担い、執り成しを、

多くの人の過ちを担い、
  背いた者のために執り成しをしたのは、
   この人であった。イザヤ5312
 
 罪と何のかかわりもない方を、
神は私たちのために罪となさいました。
私たちはその方によって
神の義を得ることができたのです。Ⅱコリント521
 
        (ローズンゲン日々の聖句5/2;月)
 
 天の神、主は、人間の歴史の最初から、代理のものを処罰することによって、罪を赦す道と示して来られたようです。
 
 本当の愛とは、相手と一つになりたいと願うもののようですね。
創世記1:26によると、神は、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰って人を造られたのだそうです。
「父である神」、「御子である方」、「聖である霊」と呼ばれる方は、愛し合い、尊敬し合うゆえに、自由意思で、自発的に、心を一つにし、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる、いつも一緒にいて、一緒にいることを喜んでおられる、その一つの中に加わる者と願って、私たち人間を造られたということでしょうか。
 
 けれども、最初の人、アダムとエバは、サタンに誘惑されて、神様とのその一つの中にいることだけでは満足しなくて、もっと素晴らしいものに、「神のようになり、善悪を知るようになろう」として、神との一つの場から出てしまったのだそうです(創世記34622)。
 
 その時、神である方は、やがて、「女の子孫」として来る方があり、サタンはその方のかかとに噛みつくけれど、その方はサタンの頭を踏み砕くと預言され、「善悪を知る者」になって、自分が裸であることに気付いたアダムとエバがいちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰に巻いていたのに替えて、皮の衣を作り、二人に着せてくださったのだそうです(創世記321)。
皮の衣、つまり、二人の代理として動物が命をささげたのですね。
 
 カインとアベルのささげ物のとき、神である方がアベルの小羊を受け取られたのも、自分を正しいとするカインと、自分の罪を知っていて、自分の罪の代理としての、身代わりの小羊をささげたアベルのささげ物が受け入れられたということであったのかもしれません(創世記4:4)。
 
 神である方は、イスラエルの民に、動物が民の代理となり、民の罪を背負って処刑されるという贖い(あがない)の制度を定め、常に、代理の死を告げ知らせ続けて来られました。
 
 そして、ついにご計画の時が満ちて、ナザレ村のダビデ王の系譜である貧しい一人の処女マリヤを選び、その胎を通して、御子である方を、男のそむきの罪を引き継いでいない「女の子孫」として人とならせ、この方がおよそ33歳の頃、ローマ兵を用いて十字架刑での処刑に付されされ、呪われた者、反逆者として天と地の間に掲げられたのだそうです。
 
 「父である神」と呼ばれる方は、ご自分と完全に一つになっていらっしゃる、そむき、離反の全くない「御子」である方を、私たち人間の反逆の罪を背負わせて処刑し、私たちを赦すことを計画され、「御子」イエスは、御父の御思いのとおりにこれを実行され、完成されたのだそうです(ヨハネ1930)。
 
 イエスによる私たちの処刑が終わっている今は、これを受け取る者は、「生まれたときからの霊」という自分自身は処刑された者とみなされ、受け入れる者には「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、この方の働きによって、受け入れる者をイエスの義を着た者、心に「父である神」が私たち一人一人に思っていてくださる御思いを書き付け、受け入れる者を「父である神」と思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにして生きる者ともしてくださるのだそうです。
今日も。