風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

かたくなな心を耕されて

今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
心をかたくなにしてはならない。ヘブル書3152/19の週の聖句)
 
 主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。申命記309
 
 テモテへのパウロの手紙:
あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。
その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、
それがあなたにも宿っていると、私は確信しています。Ⅱテモテ1:5
 
 ルカ8:4~8(9~10)
 詩編18:21~5
  (ローズンゲン日々の聖句2/19;Ⅲ日)
 
 
 「心をかたくなにする」、それは、自分の理性の判断を正しいとし、その判断を最良のもの、最高のものとして、自分の判断に固執し、他の意見を聞こうとしないことでしょうか。
うなじ(首筋)の強い(こわい)という表現もあるようです。
別の表現では、「自分を神とする」ことでもあるのでしょうね。
 
 これは、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となった私たち人間の特徴であり、「神と心を一つにする」あり方の対極にある在り方なのでしょうね。
 
 今日、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は語っておられ、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって私たちの心に、私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。
 
 けれども、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている私たちは、その声に聞こうとせず、自分の判断、自分の思いを実現しようとする、心のかたくななもの、うなじのこわいものなのですね。
 
 天の神、主は、そのような心のかたくなな私たち自身である、〔生まれたときからの私〕という霊を、御子イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、処刑されたもの、死んだものと手続きしてくださっているのだそうです。
 
 ですから、イエスの死を自分の〔生まれたときからの私〕という霊の死と受け取って、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる御思いについて行くなら(ガラテヤ52425)、私たちは、天の神、主から来る安息にあずかり、繁栄を恵みのプレゼントとしていただくことにもなるようです。
天の神、主は、私たちの繁栄を喜びとされる方なのだそうですから。
 
 人の足で踏み固められた道ばたのような、自分の経験を基にした判断で固まった心、岩の上の土の薄い土地のように自分の判断で身を引いてしまう心、この世の心づかいや富、快楽を重視する思いを砕かれ、耕されて、50倍、100倍の実を結ぶ者に(ルカ8:4~15)。
 
 パウロは若い弟子テモテに書き送っています。
いよいよこの方との関係を深め、この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方の働きの現れをいただいていきなさい(Ⅱテモテ16)と。
 
 そして、私たちもあのダビデのようにうたうのですね。
 神、その道は安全。
主のみことばは純粋。
主はすべて彼に身を避ける者の盾。
まことに、主のほかにだれが神であろうか。
私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。
この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。
彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。
戦いのために私の手を鍛え、
私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる
 
 主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は生きておられる。
ほむべきかな。わが岩。
あがむべきかな。わが救いの神(詩篇18303446)と。
この新しい週も。
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