風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

みなしごのように放っておかれることはないのだそうです。

私の神よ。

私の魂はうなだれて、あなたを思い起こす。詩42:7

 

 イエスの言葉:

わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。

あなたがたのところに戻って来る。ヨハネ14:18

 

 Ⅱコリント1:23~2:4

 使徒9:32~43(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句6/20;火)

 

 人々が、そして、自分自身も、「お前の神はどこにいるのか」、とか、「神は死んだ」とか言い、また、思い、

神は「沈黙」しておられる、

私の祈りに答えて下さらない、

神は本当に居るのだろうかと、

魂がうなだれてしまうときがあります。

 

 使徒の時代のこと、

ルダに行ったペテロは、そこで、8年間、中風で床に着いているアイネヤという人に会い、

「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。

立ち上がりなさい。

そして自分の床を整えなさい」と言うと、

彼はただちに立ち上がったのだそうです。

 

 また、ルダに近いヨッパのドルカスという女性も、病気になり、死んで、屋上の間に寝かされていたのだそうですが、

呼ばれて行ったペテロが、みなを外に出し、ひざまずいて祈り、

そして、「タビタ。起きなさい」というと、彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がったのだそうです。

 

 しかし、今、日本では、そのような天の神、主の御業はなかなか見られなくて、

(アフリカから、生き返らせてもらった人たちが、何人か、死亡証明書を持って、日本に来たりもしていますが)、

魂がうなだれてしまうことが多いです。

 

 けれども、イエスは言われます。

「あなたがたを放ってはおかない。戻って来る」と。

 

 受け入れる者を迎えに、戻ってきてくださり、

受け入れる者に新しい復活のからだを着せ、

天に引き上げて、いつまでも一緒にいるようにしてくださるのだそうです(Ⅰテサロニケ4:16~17)。

 

そして、それまでの間は、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって(ヨハネ14:10~16)、

この方の御業の中に生き、この方によって〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いを、心に置いてくださって、受け入れる者が〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにして(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~28)、

〔父である神〕がその人を通してしようと思われることをしていくようにしていただけるのだそうです。

 

 けれども、イエスは、戻って来たとき、

「わたしに喜びを与えてくれるはずの人たちから悲しみを与えられるようになりはしないか」(Ⅱコリント2:3)と心配しておられるようですね。

 

 私たちを、ご自身の十字架刑での処刑に合わせて、私たち一人一人の〔生まれた時からの私〕という霊を処刑されたもの、死んだものとしたのに、

私たちが、その死んだはずの古い自分の中に留まり、死亡手続きの住んでいるその自分を善くしようと、そのほうに熱心になって、自分の善さで神の前に立てるようになろうとして、

「妬むほどに愛しておられる」〔聖である霊〕と呼ばれる方がなおざりにされ、ほったらかしにされているのではないか、と。

 

 私たち、〔生まれた時からの私〕という霊は、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、死んだものと認めて、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いに心を向け、

〔父である神〕と心を一つにして、

〔父である神〕が私を通してしようと思っておられることをしていく一日になりたいですね。

今日も。

 

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