風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

現在、只今の、本当の、ありのままの自分を認めて

主よ、
御目は、
真実を求めておられるではありませんか。
エレミヤ書5:3

 使徒たちは主に言った。
「私どもの信仰を増してください。」
ルカ17:5

 マタイ10:34~39
 ヨハネ13:12~20(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/9;金)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
私たちの真実を、
本当を求めておられる方なのですね。

エスが、弟子たちに、
「もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。
そして悔い改めれば、赦しなさい、
かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、
『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、
赦してやりなさい」と言われたのだそうです。

それで、弟子たちは、そのように赦すことなど、とてもできない、
もっと信仰が増さなければ、と思ったのでしょうか。
エスに、私たちの信仰を増してくださいとお願いしたのだそうです。

 イエスは応えて言われました。
「もしあなたがたにからし種ほどの信仰があったなら、
この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、
言いつけどおりになるのです」、と。

 そして、「しもべが主人の言いつけどおりをするように、
あなたがたも、自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、
『私たちは役に立たないしもべです。
なすべきことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17:3~10新改訳)、と。

 

私たち、自分の力、自分の努力で、信仰を増し、
深い霊的体験をし、
あれも出来、これも出来る者になろうとしている者です。

 けれども、イエスは、私たちに、
からし種ほどの、針の先でちょっと突いた痕ほどの信仰もない者、
役に立たない、あると場所ふさぎになる、ない方がいい者であると認めていきなさい、
と言われるのですね。

そういう、真実の、本当の自分を認めることができて、はじめて、
そのような自分自身を憎む者になり、
自分は、十字架刑で処刑されるはずの者だと認めることができて、
エスについて行く者になれ、
永遠のいのちを自分のものとすることができるようになるのだそうです(マタイ10:34~39)。

 「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている」(創世記3:5、22)
〔生まれたときからの私〕という霊を、
エスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、
処刑されたもの、死んだものと認め、計算し(ロマ
611)、
三日目に死人のうちより新しい霊のからだに復活した、
そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方が心に置いてくださる
〔父である神〕の私に対する御思いを私の思いとして生きる生き方を
受け取ることができるようになるのだそうですから(エレミヤ
313134、エゼキエル362528、ガラテヤ52425)。
今日も。

 

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

 

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]