風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

「あなたの御名こそ、栄え輝きますように」と願う者になって

 私たちにではなく、
主よ、私たちにではなく、
あなたの御名こそ、
栄え輝きますように。
あなたの慈しみとまことによって。
詩115:1

 天におられる私たちに父よ、
御名が崇められますように。
マタイ6:9

 ヨハネ1:19~28
 ホセア書3:1~5(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句6/26;火)

 〔御子である神〕も、
〔聖である霊〕と呼ばれる神も、
自らも、全知、全能、永遠不変の方でありながら、
ご自分の栄光を求めることはせず、
自分の思いが成ることを求めず、
〔父である神〕への愛のゆえに、
ただ、ひたすら、〔父である神〕が崇められること、
〔父である神〕の御思いが成ることだけを求めておられるの方なのですね(ヨハネ5:19、6:38、8:28、12:50、16:13~14)。

 「神のひとりのようになり、善悪を知るように」なっている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊は、
天の神、主に対抗して、自分の栄光を求め、
自分独りの善悪の判断のとおりに事を行って行こうとする者です。

 その、私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
私たちは、イエスが受けてくださった十字架刑での処刑で、
処刑されたもの、死んだものとしていただけるのだそうです。

 そして、そのイエスを通して来てくださる〔聖である霊〕とお迎えしたとき、
この方によって私たちの心に来る思いは、
〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神の御思いと同じく、
〔父である神〕を愛する思い、
〔父である神〕の御名が崇められることをひたすら願う思い、なのだそうです。

 それで、私たちも、
エスが弟子たちに教えられたように、
「天におられる私たちの父よ、
御名が崇められますように」と願うようになるのですね。

 バプテスマのヨハネが、活動を始めたとき、
人々は、この人こそキリストと期待したのだそうです。
あるいは、旧約時代の最大の預言者エリヤの再来、
あるいは、モーセが預言していた「あの預言者」か、と。

 しかし、バプテスマのヨハネは、
人々の期待に便乗して自分の栄光を求めることはせず、
自分を遣わされた方の御思いのとおりの分を守り、
自分は、キリスト出現の前に道を整えるために遣わされた者、
「私はその方のくつのひもを解く値打ちもありません」という場を守り、
エスが栄光を受けられることを求めて行ったように(ヨハネ1:19~28)。

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
「神のひとりのようになり、善悪を知るようになって」
自分の理性を神とし、
自分の理性による善し悪しの判断のままに、
自分の好む神を作って行く、
「的外れ」になった私たち、


 夫に愛されていながら、
姦通している女のような私たちを
なお、愛してくださって(ホセア3:1~5)、

 

 立ち返って、ご自分の「子」、家族に、
自分と心を一つにする者になって
自分と栄光を共にする者になってほしいと
願っていてくださるのだそうですから。
今日も。

 

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