風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

神の栄光の輝きの中で

あなたの上には主が輝き出で、
主の栄光があなたの上に現れる。
イザヤ書60:2(2/10の週の聖句)

 

 私の救い、私の主よ、
すぐに私を助けてください。
詩38:23

 

 イエスは艫(とも)のほうで枕をして眠っておられた。
弟子たちはイエスを起こして、
「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」
と言った。マルコ4:38

 

 マルコ4:35~41
 詩63(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句2/10;Ⅱ日曜)


 私は御顔を仰いで満ち足り、
喜び祝い、
右の御手から永遠の喜びをいただきます
。詩16:11

 

 霊の結ぶ実は愛であり、
喜び、平和、寛容、
親切、善意、誠実、
柔和、節制です。
ガラテヤ5:22~23

 Ⅱコリント3:(9~11)12~18
 ロマ8:18~25(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句2/11;月・祝)

 やみが地をおおい、
暗やみが諸国の民をおおっています。
けれども、天の神、主、
「『わたしはある(I am)』 という者」と名乗られる方が来てくださるとき、
この方の栄光が私たちを包み、
光を放ち、輝いてくださるのだそうです。

 

 この方は、私たちの救い、
私たちの主であってくださる方。
私たちの救い主。

 

 イエスと弟子たちが小舟で、ガリラヤ湖の向こう岸へ渡ろうとしておられたとき、
突然、激しい突風が起こり、
舟は波をかぶって沈みそうになったのだそうです。
ところがイエスはとものほうで眠っておられたのですね。

 ガリラヤ湖の漁師であった弟子たちもどうすることもできなくなり、
エスを起こして
「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」と言うと、
エスは起き上がって、風を叱りつけ、
湖に「黙れ、静まれ」と言われたのだそうです。

すると、風はやみ、大なぎになったのだそうです(マルコ4:35~41)。

 

 この方の御顔を仰ぐとき、
私たちも満ち足り、喜び祝い、
永遠の喜びをいただくことができるのですね。

 

 私たち人間の始祖、アダムとエバは、
天の神、主から、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
「わたしたちが一つであるように、わたしたちとひとつであるように」(ヨハネ17:21~23)
との願いで造られたものなのだそうです。

 

 しかし、彼らは、サタンに誘惑され、
その、造られた場にとどまることをせず、
もっと偉い者になろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになってしまったのだそうです(創世記3:22)。
神の創造の目的から「的が外れた」ものに」。

 

 そして、この
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている「的外れ」の性質は、
そのまま、私たちすべての人間に遺伝しているのですね。
私たちは、生まれながらにして「神のひとりのようになり、善悪を知る」者、
「的外れ」な者として生まれて来ているのですね。

 

 それで、この方が、
〔父である神〕の御思いを受けて、
天の〔神の御子〕の栄光の座を後にして、
「女の子孫」(創世記3:15)、
人間イエスとして人間の歴史の中に来られたのだそうです(ヨハネ1:1~14)。

 

 そして、およそ33歳の頃、
私たち、すべての人間の身代わりとなり、
私たちが問われるべき「的外れ」の責任のすべてをご自身の身に負って、
神に背いた者、神に呪われた者として十字架刑での処刑を受け、
天と地との間に掲げられてくださったのだそうです。

 〔父である神〕は、このイエスが受けられた処刑を、
私たち一人一人の処刑と見なしてくださり、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑されたもの、死んだものとし、
死亡手続きを済ませてくださるのだそうです。

 

 そのうえで、受け入れる者に、
このイエスを通して、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、
この方によって私たちの心に
御自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置き、
書きしるしてくださって、
受け入れる者の心に御自身の思いがあるようにし、
受け入れる者を、ご自身と一つ心の者にくださるのだそうです。
「わたしたちがひとつであるように、わたしたちと一つの者」にと。

 

 この〔聖である霊〕と呼ばれる方が働かれるとき、
私たちの心にも、
神の御性質である「愛、喜び、平和、寛容、
親切、善意、誠実、柔和、節制」の思いが来るようになるのですね。

 それで、この神の栄光の輝きの中で、
私たちもダビデのようにうたうのですね。

「神よ。あなたは私の神。
私はあなたを切に求めます。
水のない、砂漠の衰え果てた地で、
私のたましいは、あなたに渇き、
私の身もあなたを慕って気を失うばかりです。
私は、あなたの力と栄光を見るために、
こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。
あなたの恵みはいのちにもまさるゆえ、
私のくちびるは、あなたを賛美します。

 

 それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、
あなたの御名により、両手を上げて祈ります。
私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、
私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。
ああ、私は床の上であなたを思い出し、
夜ふけて私はあなたを思います。
あなたは私の助けでした。
御翼の陰で、私は喜び歌います。
私のたましいは、あなたにすがり、
あなたの右の手は、私を支えてくださいます」(詩篇63:1~8新改訳)、と。

 

 この新しい週も。

 

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