風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

孤児、寡婦、寄留者を心に留めておられる方によって

主は、
 孤児と寡婦の権利を守り、
  寄留者を愛して
   食物と衣服を与えられる。 
  あなたたちは寄留者を愛しなさい。申命記101819
 
 お前たちは、
見知らぬ旅人だった私を
もてたしてくれた。マタイ2535
 
      (ローズンゲン日々の聖句8/1;月)
 
 天の神、主、「わたしはあるという者だ」と名乗られる方は、人間を創造するのに際して、これを平均的に、同じものに造らないで、個性的に、ひとりひとり違ったものに造っておられるようです。
 
 そして、強い立場、豊かに持っている立場に置かれた者が、弱い者、貧しい者を顧み、補い合い、また、立場が変われば、今度、強くなった者、豊かになった者が、弱い立場、貧しい立場に置かれた者を顧みるようになり、こうして、補い合い、愛し合い、思いやり合うことで、平等になることを望んでおられるようです。
愛と思いやりによってなる、「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがない」世界を。(Ⅱコリント81315)。
 
 今から2500年ほど前、モーセの時代にも、孤児と寡婦、他国からの寄留者は、弱い立場の代表的なものだったようです。
天の神、主は、その人たちの権利が守られ、食物と衣服が与えられるようにと言われるのですね。
 
 イエスは言われます。
「これらのわたしの兄弟たち、
しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、
わたしにしたのです」(マタイ253140)と。
 
 私たちが誰かにしたことを、イエスは、イエスご自身にしたこととして覚えていてくださるので、
私たちが、イエスの御前に立つとき、その報いからもれることはないのだそうです(マタイ25:31~40)
 
 
 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3522)、自分が少しでも他の人よりも優れた者になって、少しでも他の人の上に立とうとし、良いものは、全部、自分一人で独占しようとする傾向を持つ者、与えたくない者ですが、
その、「生まれたときからの私」という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、「死んでしまっているもの」と帳簿付けをしていただき(ロマ611)、
三日目に墓から、新しい霊のからだに復活し、天の父の右の座に帰られた、そのイエスが遣わして下さる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えして、
この方によって、心に、「父である神」が私たち一人一人に思っていてくださる御思いを置いていただいて(エゼキエル3627)、
父である神が思っていらっしゃる、孤児、寡婦、外国からの寄留者、貧しい人、からだの不自由な人、旅人への思いを、私たちも思う者にしていただけるのだそうです。
 
 
 かつて、神の民として選ばれたイスラエルの人々は、自分の力で、自分の行いで、神の願うことをしようとして、かえって、自分の理性の判断を先立て、自分の理性を神として、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に逆らうという失敗をしてしまったのだそうですが、
彼らの失敗によって、この「聖である霊」と呼ばれる方による新しい生き方が、異邦人である私たちに及ぶことになったのだそうです。
 
 そして、私たちが完成されることが、彼らも、この「聖である霊」と呼ばれる方による新しい生き方を受け入れることにつながり、共に、完成されることになるのだそうです(ロマ11:1~12)。
 
 イエスも、郷里に行かれたとき、イエスの小さいときからをよく知っている人たちの不信によって、そこでは何一つ力ある業を行うことができなかったのだそうです(マルコ6:1~6)。
 
 私たちにも、そういう場面も起こるかもしれませんが、そこで止まってしまわないで、完成をめざして、私たち一人一人をとおして働こうとしておられる「聖である霊」と呼ばれる方の働きが、ご計画の通りに実現するよう、導きに従って、御業の中に踏み出して行きたいですね。
今日も。