風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

恋い慕って、選んでくださり、栄光の御業を

主が心引かれてあなたがたを選ばれたのは、

あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。

あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。

ただ、あなたたちに対する

主の愛のゆえに選ばれたのである。申命記7:7~8

 

 神はこの世の

無力な者や見下されている者を選ばれました。

神の御前で誰も誇らせないためです。Ⅰコリント1:28~29

 創世記21:1~7

 ヨハネ1:35~51(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句1/4;木)


 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方はが、

多くの民の中からイスラエルの民を、

そして、多くの人の中から私たち一人一人を選び、

呼び出してくださったのだそうですが、

それは、私たちの素晴らしさや、善さによったのではなく、

むしろ、貧弱であり、

この世にあって無力なもの、見下されている者であったのに、

そのようなものをなお、愛し、憐れみ、

あえて選んでくださったのだそうです。

 

 だから、天の神、主が私たちを選んでくださったことにおいて、

私たちが、自分を誇ることは何一つないのですね。

 

イスラエルの祖先、アブラハムとその妻サラに子どものイサクが生まれたときも、
神の選びによる特別の介入があってのことだったのだそうです。
サラは子どもを産んだことがない女性でした。

アブラハムが99歳になったとき、
主はアブラハムに現れ、こう仰せられた。
「わたしは全能の神である。
あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
わたしはわたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。
わたしはあなたをおびただしくふやそう。
わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。
あなたは多くの国民の父となる。
あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。
あなたの名はアブラハムとなる。
わたしがあなたを多くの国民の父とするからである」(創世記17:1~5新改訳)。

そのあと、天の神、主は、アブラハムに現れたとき、仰せられたのだそうです。

「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。
そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」


 サラはその人のうしろの天幕の入り口で、聞いていた。
アブラムとサラは年を重ねて老人になっており、
サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。
それでサラは心の中で笑ってこう言った。
老いぼれになってしまったこの私に、何の楽しみがあろう。
それに主人も年寄りで。」


 そこで、主はアブラハムに仰せられた。
「サラはなぜ
『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年を取っているのに』
と言って笑うのか。
主に不可能なことがあろうか。
わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのもとに帰って来る。
そのとき、サラには男の子ができている」(創世記18;10~14)、と。

そして、主は、約束されたとおり、サラを顧みて、
仰せられたとおりに主はサラになさった。
サラはみごもり、
そして神がアブラハムに言われたその時期に、
老いアブラハムに男の子を産んだ。
アブラハムは、自分に生まれた子、
サラが自分に産んだ子をイサク(神は笑う)と名づけた。

そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、
八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。
アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳(サラは90歳)であった。
サラは言った。
「神は私を笑われました。
聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。
だれがアブラハムに、
『サラが子どもに乳をのませる』と告げたでしょう。
ところが私は、あの年寄りに子を産みました」(創世記21:1~7)。


 イエスは、
「ナザレから何の良いものが出るだろう」(ヨハネ1:46)と言われる
ナザレに育たれました。

 そして、エルサレムには、
律法を熱心に学ぶ、優秀な多くの若者がいたのに、
エスの選ばれた12弟子は、ガリラヤ地方の漁師だったり、
当時、取税人遊女のやからと言われて嫌われ、
さげすまれていた取税人だったりの、
律法を学んだことのない者たちだったのだそうです。

天の神、主は、ご自分の民として、あえて、
この世の取るに足りない者、見下されている者、無に等しい者を選ばれ、
そのような私たちに、
エスによって、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、
この方によって、ご自身の御思いを心に置き、
思いを一つにする者にし、
そのような私たちをとおして、
ご自身がしようと思われる栄光の御業を実現してくださるのだそうですから。

今日も。

全きいこいに戻らせようと

私の魂よ、

再び安らうがよい、

主はお前に報いてくださる。詩116:7

 

 私の神は、

ご自分の栄光の富に応じて、

キリスト・イエスによって、

あなたがたに必要なものを

すべて満たしてくださいます。フィリピ書4:19

 

 出エジプト2:1~10

 ヨハネ1:29~34(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句1/3;水)


 詩篇116篇の作者はうたいます。

私は主を愛する。

主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。
主は、私に耳を傾けられるので、

私は生きる限り主を呼び求めよう。
死の綱が私を取り巻き、
よみの恐怖が私を襲い、
私は苦しみと悲しみの中にあった。

そのとき、私は主の御名を呼び求めた。
「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」
主は情け深く、正しい。

まことに、私の神は憐れみ深い。
主はわきまえのない者を守られる。

私がおとしめられたとき、私をお救いになった。

私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。

主はおまえに、良くしてくださったからだ。
まことに、あなたは私のたましいを死から、
私の目を涙から、

私の足をつまずきから、救い出されました(詩篇116:1~8新改訳)、と。

 

 

 ヨセフがエジプトで、王に次ぐ者、宰相になった時に、

飢饉を逃れてエジプトに下ったイスラエルの人々は、

王の保護のもとで増え広がり、一つの民族に成長したのだそうです。

 

 しかし、このときは、遊牧民征服王朝だったようですが、

やがて、ヨセフのことを知らない別の王朝、

本来のエジプト人の王朝に替わったとき、

新しい王は、イスラエルの民に日干しレンガを作らせ、
新しい街を建てる労働力としてこき使うようになったのだそうです。

 

 しかし、苦しめれば苦しめるほど、イスラエルの人口が増えていくので、

今度は、王は、

生まれて来る男の子はみな、ナイル川に投げ込んで殺すよう命令したのだそうです。

 そのようなとき、モーセは生れたのだそうです。

両親は、3ヶ月の間、その子を隠していたのですが、

隠しきれなくなって、

パピルス製のかごを手に入れ、

瀝青(アスファルト)と樹脂を塗って水が入らないようにし、

その子を中に入れ、

ナイル川の葦の茂みの中に置いたのだそうです(出エジプト1:8~22)。

 

 その子の姉のミリアムが、

その子がどうなるかを知ろうとして、遠く離れて立っていたとき、

パロ(エジプト王の称号)の娘が水浴びをしようとナイル川に降りて来て、

そのかごを見つけ、

「それを開けると、子どもがいた。

なんと、それは男の子で、泣いていた。

彼女はその子をあわれに思い、『これはきっと、ヘブル人の子どもです』と言った。

そのとき、その子の姉がパロの娘に言った。

『あなたに代わって、その子に乳をのませるため、

私が行って、ヘブルの女のうばを呼んでまいりましょうか』」、と。

 こうして、その赤ん坊は、死からまぬかれ、

実の母親に育てられることになり、

「その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。

その子は王女の息子となった。

彼女はその子をモーセと名づけた。

彼女は『水の中から、私がこの子を引き出したのです』と言ったからである」(出エジプト2:1~10)。

 

 

 天の神、主は、このようにして、

イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出し、

約束の地に帰らせるための指導者としての、モーセを準備されたのですが、

およそ1500年後のイエスの場合、

バプテスマのヨハネの証言は次のようだったのだそうです。

 

 その翌日、

ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。

「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」

私が「私のあとから来る人がある。

その方は私にまさる方である。

私よりも先におられたからだ」(ヨハネはイエスよりも6ヶ月先に生まれている)

と言ったのは、この方のことです。

 

 私もこの方を知りませんでした。

しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、

私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」

 

 またヨハネは証言して言った、

「御霊が鳩のように天から下って、

この方の上にとどまられるのを私は見ました。

私もこの方を知りませんでした。

しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、

私に言われました。

「御霊がある方の上に下って、

その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、

その方こそ、

聖霊によってバプテスマを授ける方である。」

私はそれを見たのです。

それで、この方が神の子であると証言しているのです」(ヨハネ1:29~34)。

 

 私たちの願い、叫びに答え、報い、良くしてくださり、

全きいこい、安らぎに入れてくださる方、

 

キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、

私たちの必要のすべてを満たしてくださる方、

赤ん坊のモーセナイル川の水の中から引き出し、

バプテスマ(洗礼)の水の中から上がられたイエスに、

聖霊なる神〕を派遣された〔父である神〕が、

私たちにも、

私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださった

エスを通して〔聖霊なる神〕を派遣してくださり、

この方によって、

私たちの心にご自身の御思いを置いてくださり、

受け入れる者がご自分と心を一つにして生きるようにと

願っていてくださるのだそうです。

必要のすべてを用意して。

全き安らぎの中で。

この新しい年。

嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心の代わりに賛美の衣を

主は、シオンのゆえに嘆いている人々に、
灰に代えて冠をかぶらせ、
嘆きに代えて喜びの香油を、
暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために、
わたしを遣わした。
イザヤ書61:1、3

 イエスの言葉:
疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
マタイ11:26

 ヨシュア記24:1~2a、13~18、25~26
 ヨハネ1:19~28(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句1/2;火)

 〔父である神〕が、〔独り子である神〕を、
「女の子孫」(創世記3:15)である人間イエスとして、
人間の歴史の中に派遣されたのだそうです。
この方の上に、〔聖である霊〕と呼ばれる方が豊かに臨み(ヨハネ3:34)、
悲しみ嘆いている人々に、頭にかぶった灰に代えて冠を、
嘆きに代えて喜びの香油を、
暗い心に代えて賛美の衣をまとわせてくださるために。

疲れた者、重荷を負う者には、だれにでも、休みを、安息を与えよう、と。

 エジプトの奴隷状態から、
イスラエルの民を脱出させたモーセの後継者とされ、
民を約束の地に導き入れたヨシュア

 彼は、イスラエルの全部族をシェケムに集め、言ったのだそうです。
イスラエルの神、主はこう仰せられる。
『わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、
あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、
あなたがたはそこに住み、
自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。』

 今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。
あなたがたの先祖たちが川の向こう、
およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。
もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、
川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、
今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、
あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。
私と私の家とは主に仕える」(ヨシュア24:1~2a、13~15新改訳)、と。

 すると、民は答えて言ったのだそうです。
「私たちは主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、
絶対にそんなことはありません。
私たちの神、主は、私たちと私たちの先祖たちを、
エジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、

 私たちの目の前で、あの数々の大きなしるしを行い、
私たちの行くすべての道で、
私たちの通ったすべての民の中で、
私たちを守られた方だからです。

 主はまた、すべての民、この地に住んでいたエモリ人をも、
私たちの前から追い払われました。
私たちもまた、主に仕えます。
主が私たちの神だからです」(16~18)、と。

 それでヨシュアは、その日、民と契約を結び、
シェケムで、おきてと定めを定め、
これらの言葉を神の律法の書にしるし、
大きな石を取って、主の聖所にある樫の木の下に、それを立てた」(25~26)、

のだそうです。


 イエスが、キリスト(神の子・救い主)としての、
公の活動を始める少し前、
王の前に道を備える者として活動を始めたバプテスマのヨハネは言いました。
「私は水でバプテスマを授けているが、
あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる。
その方は私の後に来られる方で、
私はその方のくつのひもを解く値うちもありません」(ヨハネ1:26~27)、と。

 私たちも、その、バプテスマのヨハネが言う、
「私の後に来る方」であるイエスを、
あの時のイスラエルの民のように、
「わたしの神、わたしの主」とし、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
〔父である神〕と心を一つにする者にしていただけて、
灰に代えて冠を、
嘆きに代えて喜びの香油を、
暗い心に代えて賛美の衣を、
重荷を負い、疲れた心に安息をいただけるのだそうですね。
この新しい年。

渇いている者には、価なしに飲ませてくださるのだそうですから

2018年の聖句
渇いている者には、
わたしが命の水の泉から
価なしに飲ませよう。
黙示録21:6

1月の聖句
七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、
いかなる仕事もしてはならない。
あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、
牛、ろばなどのすべての家畜も、
あなたの町の門の中に寄留する人々も
同様である。
申命記5:14
 
すべてを主イエスの名によって行い、
エスによって、
父である神に感謝しなさい。
コロサイ書3:17(1/1の週の聖句)

 あなたたちは、
あなたたちの神、
主が命じられたことを忠実に行い、
右にも左にもそれてはならない。
申命記5:32

 イエスの言葉:
あなたがたが豊かに実を結び、
わたしの弟子となるなら、
それによって、
わたしの父は栄光をお受けになる。
ヨハネ15:8

 ルカ4:16~21
 ヤコブ4:13~15
 詩97(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句1/1;月)
 
 新年のお慶びを申し上げます
天の神、主、「『わたしはあるという者』と名乗られる方は、
ローズンゲン「日々の聖句」を通しては、
「渇いている者には、
わたしが命の水の泉から価なしに飲ませよう」
と仰ってくださっています。

 イエスが、私たちに代わって、ご自身の命を支払っていてくださるのだそうです。
それで、私たちは、ただで、価を支払うことなく、
命の水を飲むことが許されているのだそうです。

 自分に足りないと思う、一つ一つのことも、
私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださり、
三日目に死人の中より新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
いつも、どこででも、私たちといっしょにいて、
その全能の御力をもって、
〔父である神〕の御思いのとおりに実行してくださるのだそうですから。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る、
〔父である神〕の御思いのとおりに、
エスの御名によって、イエスに信頼して踏み出していくとき、
〔聖である霊〕と呼ばれる方の働きによって、
私たちは豊かな実を結ぶことになり、
〔父である神〕の栄光が現れることになるのだそうです。
 
 そして、神が天地創造の御業を完成させ、七日目に休まれた、
あの安息に、
私たちも入れていただけるのだそうですから。
この新しい年。

一人として滅びることなく、永遠の命を持つように、と

主の憐れみは深く、
恵みに富み、
忍耐強く、
慈しみは大きい。
詩103:8(12/31の週の聖句)

 主は言われた。
「わたしは、
エジプトにいるわたしの民の苦しみを
つぶさに見、
追い使う者のゆえに叫ぶ
彼らの声を聞いた。
出エジプト記3:7

 神は、
その独り子をお与えになったほどに、
世を愛された。
独り子を信じる者が
一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
ヨハネ3:16

 ルカ12:35~40
 詩103(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句12/31;Ⅰ日)

 

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
憐れみ深く、恵みに富み、
忍耐強く私たちを待っていてくださる方、
慈しみ豊かな方なのだそうです。


 イスラエルの民が、エジプトで、奴隷の労役に苦しんでいる
その苦しみをつぶさに見ていてくださり、
その叫びを聞いていてくださる方。
その労役かから解放し、
約束の地に導き入れるために
モーセを派遣してくださった方。

 

そのように、独り子である方を、人として、人の世に派遣され、
この方を私たちの身代わりにして、
私たちの「的外れ」の責任の全部をこの方に負わせて
十字架刑で処刑してくださるほどに、
私たち人間を愛してくださっている方、なのだそうです。

 そして、私たちを処刑済みのものとみなしてくださって、
ご自身との正しい関係に戻してくださるために、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を、
受け入れる者に派遣してくださり、
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを、
受け入れる者の心に置いてくださって、
すべての人が、ご自身と思いを同じくし、
心を一つにして生きるようにと願っていてくださるのだそうです。

その、十字架刑で処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが、
私たちを迎えに、また、来てくださるのだそうです。


 そのときを、
いつ、婚礼から帰って来るのか分からない主人を、
帰ってきたら、すぐ、戸を開けられるようにと、
腰に帯を締め、明かりをともして待っているしもべのように、
泥棒が、今夜、来ると分かって
用心している家の主人のようにしていなさいと言われるのですね。
「人の子(イエス)は、思いがけない時に来る」のだそうですから(ルカ12:35~40)。

 


 そのときを待ち望みながら、
あの詩篇103篇の詩人のように、私たちも歌いたいですね。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。

私のうちにあるすべてのものよ。

その聖なる御名をほめたたえよ。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あなたのすべての咎を赦し、
あなたのすべての病をいやし、
あなたのいのちを墓から贖い、
あなたに、恵みと憐れみの冠をかぶらせ、
あなたの一生を良いもので満たされる。
あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。


主はすべてしいたげられている人々のために、
正義とさばきを行われる。
主は、ご自身の道をモーセに、
そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。
主は、憐れみ深く、情け深い。
怒るのに遅く、恵み豊かである。
主は、絶えず争ってはおられない。
いつまでも怒ってはおられない。
私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、
私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
天が地上はるかに高いように
御恵みは、主を畏れる者の上に大きい。
東が西から遠く離れているように
私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。
父がその子をあわれむように、
主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
主は、私たちの成り立ちを知り、
私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。

人の日は草のよう。
野の花のように咲く。
風がそこを過ぎると、それはもはやいない。
その場所すら、それを、知らない。
しかし、主の恵みはとこしえからとこしえまで、
主を恐れる者の上にある。
主の義は、その子らの子に及び、
主の契約を守る者、
その戒めを心に留めて、行う者に及ぶ。
主は天にその王座を堅く立て、
その王国はすべてを統べ治める。
主をほめたたえよ。御使いたちよ。
みことばの声に聞き従い、
みことばを行う力ある勇士たちよ。
主をほめたたえよ。
主のすべての軍勢よ。
みこころを行い、主に仕える者たちよ。
主をほめたたえよ。
すべて造られたものたちよ。
主の治められるすべての所で。
わがたましいよ。主をほめたたえよ。詩103新改訳)、と。

 

 この一年の終わりの日にも。

恵みの上に、さらに恵みを

人の生涯は草のよう。
野の花のように咲く。
風がその上に吹けば、消え失せ、
生えていた所を知る者もなくなる。

主の慈しみは
代々とこしえに
主を畏れる人の上にある。詩103:15~16、17


 私たちは皆、
この方の満ちあふれる豊かさの中から、
恵みの上に、さらに恵みを受けた。
ヨハネ1:16

 イザヤ書63:7~14
 ヨハネ1:14~18(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句12/30;土)

 人の生涯、人の日は、草のよう、なのだそうです。
熱風が吹くと、草は枯れ、花は散り、
生えていた所を知る者もいなくなる、のだそうですから。

けれでも、
天の神、主の恵みは、
とこしえから、とこしえまで、
主を畏れる者の上にあるのだそうです。

天地創造の初めから、〔父である神〕とともにおられ、
すべてのものを造られた方。
その方が人となって、私たちの間に住まわれたのだそうです。
〔父である神〕の恵みとまことを、私たちに届けるために。
私たちは皆、この方の満ち満ちた豊かさの中から、
恵みの上に、さらに恵みを受ることができるのだそうです。
〔父である神〕の恵みとまことが、
エスによって、
この人間の歴史の中に実現したのだそうですから(ヨハネ1:1~3、14~18)。


イザヤはうたいます。

私は、主の恵みと、主の奇(くす)しいみわざをほめ歌おう。
主が私たちに報いてくださったすべてのことについて、
そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださった
イスラエルの家への豊かないつくしみについて。

主は仰せられた。
「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と。

こうして、主は彼らの救い主になられた。
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、
ご自身の使いが彼らを救った。
その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、
昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

 しかし、彼らは逆らい、
主の聖なる御霊を痛ませたので、
主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。

 そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思いだした。
「羊の群れの牧者たちとともに、
彼らを海から上らせた方は、
どこにおられるのか。
その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、
どこにおられるのか。
その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、
彼らの前で水を分け、
永遠の名を成し、
荒野の中を行く馬のように、
つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、
どこにおられるのか。
家畜が谷を下るように、
主の御霊が彼らをいこわせた」(イザヤ63:7~14新改訳)、と。


 私たちも、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方を忘れ、
自分で生きているように思い違いをする者ですけれど、
天の神、主を思い出し、
この方の恵みとまことに帰って行けますように。

今日も。

打ち砕かれた心、貧しくされた霊の人と共にいてくださり

わたしは、高く、聖なる所に住み、
打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、
へりくだる霊の人に命を得させ、
打ち砕かれた心の人に命を得させる。
イザヤ書57:15

 貧しい人は福音を告げ知らされている。マタイ11:5

 Ⅰヨハネ4:11~16a
 ヨハネ1:9~13(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句12/29;金)

 いと高く、聖なる所に住んでおられる方が、
また、心打ち砕かれてへりくだる人と共にいてくださるのだそうです。
へりくだっている人の霊を生かし、
砕かれた心の人を生かすために。
それで、福音、
エスによる喜ばしい音信は、
心の貧しい人に告げ知らされているのですね。

ヨハネは、手紙に書いています。
 愛する者たち。神がこれほどまでに、
私たちの罪のために、なだめの供え物として
御子である方を人の世にお遣わしくださり、
この方を十字架刑で処刑し、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、
私たちにいのちを得させてくださったほどに、
私たちを愛してくださったので、
私たちも、また、互いに愛し合うようになります、と。

いまだかって、だれも神を見た者はありません。
もし私たちが互いに愛し合うなら、
神は私たちのうちにおられ、
神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
神は私たちに御霊を与えてくださいました。
それによって、私たちが神のうちにおり、
神も私たちのうちにおられることがわかります。

 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、
今そのあかしをしています。
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、
神はその人の内におられ、
その人も神のうちにいます。
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です(Ⅰヨハネ4:10~16新改訳)、と。


すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、
世はこの方によって造られたのに、
世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、
ご自分の民は受け入れなかった。

 しかし、この方を受け入れた人々、
すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、
肉の欲求や人の意欲によってでもなく、
ただ、神によって生まれた(ヨハネ1:9~13)のだそうですから。

 

十字架刑での処刑を受け、
墓に葬られ、
三日目に死人のうちより、新しい霊のからだによみがえり、
天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

 

そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。
この方が、受け入れる者の心に、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。
それで、これを受け入れる者、
心打ち砕かれ、心を貧しくされた者は、
〔父である神〕と思いを同じにし、心を一つにして生きる、
新しい生をもらい、受け取り、
この新しい生を生きていくようになるのだそうです。

今日も。