自分の正しさを主張したいのですよね。私たち。
悪に報いたい、と言ってはならない。
主に望みをおけ。
主があなたを救ってくださる。箴言20:22
だれも、
悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。
お互いの間でも、
すべての人に対しても、
いつも善を行うよう努めなさい。Ⅰテサロニケ5:15
ヨブ記7:11~21
ヨハネ12:27~36(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/6;火)
鋤に手を付けてから、
イエスに信頼して、イエスに合わせていただき、
私自身である「生まれたときからの私〕という霊を、
イエスの十字架刑での処刑で処刑されたもの、死んだものしていただき、
この〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いを、
死んだものから出て来た思いとして、
これを神の前に差し出し、投げ捨てながら、
イエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いについて行く者にしていただいている、とはいえ、
不当な仕打ちを受けた場合、
〔生まれたときからの私〕という霊からは、
自分の正当性を主張して、
相手をやっつけたい思いが噴出して来るのですね。
「だって、それが正義でしょう。
不義は正されるべきでしょう」と。
しかし、人の怒りは、
たとえ、それが義憤であっても、
神の義を実現するものではない(ヤコブ1:20)のだそうです。
それで、天の神、主は、使徒パウロを通しても言っておられます。
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。
神の怒りに任せなさい。
それは、こう書いてあるからです。
『復讐はわたし(神である主)のすることである。
わたし(神である主)が復讐する、と主は言われる。』(申命記32:35)
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。
渇いたなら、飲ませなさい。
そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになります。
悪に負けてはいけません。
かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ロマ12:19~21新改訳)、と。
天の神、主は、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
「悪をもって悪に報いることを止め、
天の神、主に望みを置き、
救ってくださるのを期待して待ち、
すべての人に善を行いたい」というご自身の思いも、
私たちの心に置いてくださるのだそうですから。
〔父である神〕は、〔独り子〕である方を、
人間イエスとして、人の世に派遣され、
この方を私たちすべての人間の身代わりの小羊として、
十字架刑で処刑し(ヨハネ12:32~34)、
私たちのそむきの罪を処罰済みとしてくださって、
赦し、不義を取り除き(ヨブ7:21)、
光であるご自身の御思いの中を歩くようにしてくださっているのだそうですから。
「的外れ」になり、暗闇である、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
〔生まれたときからの私〕という霊の理性の判断に帰って、
「悪をもって、悪に報いる」ことのないように(ヨハネ12:35~36)、と。
今日も。
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もし、あなたが、弱り果て、打ちひしがれているなら
天と地、 (ローズンゲン日々の聖句3/5;月) イエスは言われました。 「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。 それで、人々に言われたのですね。 もし、見込みがなければ、 わたしがいる所にいる者になりなさい」、と。 苦しむ人、霊の砕かれた人、神の言葉におののく人が、
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望みがあるのだそうです。たとえ、詮方尽きたとしても
鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、 (ローズンゲン日々の聖句3/4;Ⅰ日) イエスの一行が道を進んでいくと、 別の人が だから、使徒パウロが言うように、
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お迎えしてみますか。〔聖である霊〕と呼ばれる方。あなたも。
主が私に語り始めた時、
霊が私の中に入り、
私を自分の足で立たせた。
私は語りかける者の声に耳を傾けた。エゼキエル書2:2
女が言った。
「私は、
キリストと呼ばれるメシヤが来られることは
知っています。
その方が来られる時、
私たちに一切のことを知らせてくださいます。」
イエスは言われた。
「それは、このわたしである。」ヨハネ4:25~26
ガラテヤ2:16~21
ヨハネ12:12~19(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/3;土)
エゼキエルが見たその方は、
ケルビムと呼ばれる天使の頭の上、
大空のはるか上のほうにある、
サファイアのような何か王座に似たもののはるか上におられ、
その腰と見える所から上のほうは、
その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見え、
その腰と見える所から下のほうに、火のようなものが見え、
その方の回りには輝きがあったのだそうです。
その輝きは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、
主の栄光のように見えたのだそうです(エゼキエル1:25~28)。
その〔御子である神〕が、
キリスト(神の子、救い主。ヘブル語ではメシヤ)として、
人となって、私たち人間の世に来られた。
イエスは、「わたしが、それである」と言われるのですね。
そして、過ぎ越しの祭りのとき、
イエスが、十字架刑での処刑を受けるために(ルカ18:31~33)、
預言のことば(ゼカリヤ9:9)のとおりに、ろばの子に乗って、
最後のエルサレム入場をされたとき、
人々は、しゅろの枝を取って、出迎え、
「ホサナ。祝福あれ。
主の御名によって来られる方に。
イスラエルの王に」と大声で叫んで、
王であるキリストを出迎える仕方で、出迎えたのだそうです(ヨハネ12:12~19)。
この方が、すべての人間の身代わりとなって、
十字架刑での処刑を受けられ、
墓に葬られ、
三日目に死人のうちより、新しい霊のからだに復活され、
天の〔父である神〕の右の座に帰られ、
その〔父である神〕の右の座にあって派遣される〔聖である霊〕と呼ばれる方。
その方が、受け入れる者の中に入り、受け入れる者を立たせて、
〔父である神〕の語りかけを心に聞かせてくださり、
一切のことを知らせてくださるのだそうです。
この方は、
〔父である神〕と一つになっておられる〔御子である神〕と
一つになっておられる方。
〔御子である神〕のものを受けて、
私たちに知らせてくださる方(ヨハネ16:13~15)なのだそうですから。
〔父である神〕は、
私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
〔生まれたときからの私〕という霊を、
イエスの十字架刑での処刑に合わせて、
処刑されたもの、死んだものと手続きしてくださって、
キリストが内に生きておられる者に、
イエスが派遣される〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
内にあって心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いによって生きる者にしてくださるのだそうですから(ガラテヤ2:19~20)。
今日も。
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先の見えない私たちにも
神は、
そして、エルサレムの神殿で、 神に逆らい、対抗する者となって、 〔父である神〕の御思いに従って、人の世に来られ、 そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。 イエスは、天に帰られる前に弟子たちに、 私たちにも、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
(近くの教会を知りたい方等は;shkhknsyg3@yahoo.co.jp)
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迷っていませんか。どうしたらいいのか、
主を畏れる人は誰か。
主はその人に選ぶべき道を示される。詩25:12
キリストはあなたがたのために苦しみを受け、
その足跡に続くようにと、
模範を残されました。Ⅰペテロ2:21
Ⅰヨハネ1:8~2:2(3~6)
ヨハネ11:46~57(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句3/1;木)
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方を畏れ敬う者、
主はその人に行くべき道を示され、
正しい道を選べるようにしてくださる方のようですね。
私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている人間は、
自分の理性の判断で善しと思える道を歩む者ですが、
私たちの知るところは部分的であり、
その判断は「的の外れた」ものであることが多いようです。
ですから、すべてを知っておられる方に聞きながら、相談しながら、
事を進めていくことが善い道を選ぶ秘訣のようです。
けれども、正しいこと、善いことを行っても、今の世では、必ずしも、
それが、受け入れられ、正しく評価されるばかりではないようです。
しかし、罪を犯したために打ちたたかれて、
それを耐え忍んだからといって、
それが誉れになるわけではありませんが、
善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、
それは、神に喜んでいただけること、なのだそうです。
イエスご自身も、罪を犯したことがなく、
その口に何の偽りも見いだされなかったのですが、
私たちのために苦しみを受けてくださり、
ののしられても、ののしり返さず、
苦しめられても、おどすことをせず、
正しくさばかれる方にお任せになったのだそうです。
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ、
私たちが罪を離れ、
義のために生きることができるようにしてくださったのだそうですから(Ⅰペテロ2:20~24)。
私たち、自分の罪はおおい隠して、口をぬぐっていたい者です。
けれども、神の前に罪を言い表し、差し出していって、
ありのままの自分を見ていただき、知っていただくなら、
イエスの十字架刑での処刑を私自身に適用して下さって、
処罰が終わっている者としてくださるのだそうです(Ⅰヨハネ1:8~2:2)。
〔父である神〕は、ひとりの人が民の代わりに死んで、
国民全体が滅びないようにし(ヨハネ11:20)、
義に生きるようにしてくださるのだそうですから。
イエスの十字架刑での処刑と死者の中からの復活により、来てくださる、
〔聖である霊」と呼ばれる方は、受け入れる者の心に、
〔父である神〕が私たちひとりひとりに思っておられる御思いを置いてくださり、
受け入れる者が、御思いにそった道を選び、生きるようにしてくださるのだそうですから。
今日も。
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救う力のある方の御心について行って
心を尽くして主に仕えなさい。 (ローズンゲン日々の聖句2/28;水)
また、使徒パウロを通しても言われます。 私たちに来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる 今日も。
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