風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

自分の正しさを主張したいのですよね。私たち。

 悪に報いたい、と言ってはならない。
主に望みをおけ。
主があなたを救ってくださる。
箴言2022

 だれも、
悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。
お互いの間でも、
すべての人に対しても、
いつも善を行うよう努めなさい。
Ⅰテサロニケ515

 ヨブ記
71121
 ヨハネ122736(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句3/6;火)

 鋤に手を付けてから、
エスに信頼して、イエスに合わせていただき、
私自身である「生まれたときからの私〕という霊を、
エスの十字架刑での処刑で処刑されたもの、死んだものしていただき、
この〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いを、
死んだものから出て来た思いとして、
これを神の前に差し出し、投げ捨てながら、

エスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いについて行く者にしていただいている、とはいえ、

不当な仕打ちを受けた場合、
〔生まれたときからの私〕という霊からは、
自分の正当性を主張して、
相手をやっつけたい思いが噴出して来るのですね。
「だって、それが正義でしょう。
不義は正されるべきでしょう」と。

 しかし、人の怒りは、
たとえ、それが義憤であっても、
神の義を実現するものではない(ヤコブ1:20)のだそうです。

 それで、天の神、主は、使徒パウロを通しても言っておられます。
愛する人たち。自分で復讐してはいけません。
神の怒りに任せなさい。
それは、こう書いてあるからです。
『復讐はわたし(神である主)のすることである。
わたし(神である主)が復讐する、と主は言われる。』(申命記32:35)

 

 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。
渇いたなら、飲ませなさい。
そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになります。
悪に負けてはいけません。
かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ロマ12:19~21新改訳)、と。

 天の神、主は、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
「悪をもって悪に報いることを止め、
天の神、主に望みを置き、
救ってくださるのを期待して待ち、
すべての人に善を行いたい」というご自身の思いも、
私たちの心に置いてくださるのだそうですから。

 〔父である神〕は、〔独り子〕である方を、
人間イエスとして、人の世に派遣され、
この方を私たちすべての人間の身代わりの小羊として、
十字架刑で処刑し(ヨハネ12:32~34)、
私たちのそむきの罪を処罰済みとしてくださって、
赦し、不義を取り除き(ヨブ7:21)、
光であるご自身の御思いの中を歩くようにしてくださっているのだそうですから。

 「的外れ」になり、暗闇である、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
〔生まれたときからの私〕という霊の理性の判断に帰って、
「悪をもって、悪に報いる」ことのないように(ヨハネ12:35~36)、と。
今日も。

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もし、あなたが、弱り果て、打ちひしがれているなら

天と地、
これらはすべて、わたしの手が造り、
これらはすべて、
それゆえに存在すると、主は言われる。
わたしが顧みるのは、苦しむ人、
霊の砕かれた人、
わたしの言葉におののく人。
イザヤ書66:2

 イエスは、
群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、
打ちひしがれているのを見て、
深く憐れまれた。
マタイ9:36

 ルカ14:(25~26)27~33(34~35)
 ヨハネ12:⒛~26(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/5;月)

 「天と地、これはわたしの作ったもの。
天はわたしの王座、地はわたしの足台。
それなのに、あなたがたは、どのようなわたしの住まい、わたしの家、
わたしのいこいの場を建てるのか」と
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は言われるのだそうです。

 「わたしは、苦しむ人、
へりくだって霊の、心の砕かれた人、
わたしの言葉におののく人に目を留め、顧み、
その人のところに来てともに住む。
わたしの住まいとする」(イザヤ66:1~2)、と。

 それで、イエスは、群衆が、
飼い主、羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれ、倒れているのを見て、
深く憐れまれ、かわいそうに思ってくださって、
羊飼いを、世話をし、導く者を遣わそうとしておられるようです(マタイ9:36~37)。

エスは言われました。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。
しかし、もし地に落ちて死ねば、その一粒から芽が出て、豊かな実を結ぶ。

 そのように、この世の自分のいのちを愛する者はそれを失い、
この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至る。
わたしに仕える者、わたしについて来る者は、
わたしがいる所にいるようになるから」(ヨハネ12:24~26)、と。

 そして、イエスは、ご自身、一粒の麦が死ぬように、
十字架刑での処刑を受けて死のうとしておられます。

 それで、人々に言われたのですね。
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって(創世記3:5、22)、
神に対抗し、「的外れ」になっている、
〔生まれたときからの私〕という霊、この世の命。
それを愛し、そのままでいながら、
自分の力で神の義に達することができるかどうか、
まず座ってよく計算しなさい。

 もし、見込みがなければ、
間に合ううちに、手遅れになる前に、和解しなさい(ルカ14:28~33)。

 自分を不幸にしている原因である
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている」、
そのこの世のいのち、〔生まれたときからの霊〕を
処刑を受けるべきもの、十字架刑に架けられるべきものと認めて、憎み、
わたしについて来なさい(ルカ14:27)。

わたしがいる所にいる者になりなさい」、と。

 イエスが、一粒の麦が地に落ちて死ぬように、
十字架刑での処刑を受けられ、死んでくださった今は、
私たちも、「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている」、
この〔生まれたときからの私〕という霊、この世のいのちを、
エスの十字架の処刑に合わせていただいて死んだものとしていただき、

墓に葬られ、
三日目に死人のうちから、新しい霊のからだに復活され、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る、
〔父である神〕の御思いについて行くように、と勧められているのだそうです。

 苦しむ人、霊の砕かれた人、神の言葉におののく人が、
神とともに生きるようにと。
今日も。

 

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望みがあるのだそうです。たとえ、詮方尽きたとしても

鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、
神の国にふさわしくない。
ルカ9:62(3/4の週の聖句)

 父母は私を見捨てようとも、
主は必ず、私を引き寄せてくださいます。
詩27:10

 私たちは、
四方から苦しめられても行き詰まらず、
途方に暮れても失望せず、
虐げられても見捨てられず、
打ち倒されても滅ぼされない。
Ⅱコリント4:8~9

 ルカ9:57~62
 詩35:17~28(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/4;Ⅰ日)

エスの一行が道を進んでいくと、
ある人がイエスに言ったのだそうです。
「私はあなたのおいでになる所なら、
どこにでもついて行きます」と。

するとイエスは彼に、
「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、
人の子には枕する所もありません」と言われました。

別の人が
「主よ。あなたに従います。
ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください」というと、
エスは彼に
「だれでも、手を鋤にかけてから、うしろを見る者は、
神の国にふさわしくありません」と言われたのだそうです。

 ダビデはうたっています。
「私を見放さないでください。
見捨てないでください。
私の救いの神。
私の父、私の母が、私を見捨てるときは、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が、
私を取り上げてくださる(詩篇27:9~10新改訳)、と。

 だから、使徒パウロが言うように、
「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはなく、
途方にくれていますが、行きづまることはなく、
虐げられ、迫害されていますが、見捨てられることはなく、
倒されますが、滅びない」(Ⅱコリント4:8~9新改訳)のですね。

 天の神、主は、奮い立ってくださって、
ご自身の義に従って、私たちを弁護してくださり、
私たちを訴える者が、
私たちのことで喜ぶことがないようにしてくださるのだそうですから(詩篇35:23~24)。

後ろを振り向くことなく、
この方の御思いの中へと。
 この新しい週も。

 

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お迎えしてみますか。〔聖である霊〕と呼ばれる方。あなたも。

主が私に語り始めた時、
霊が私の中に入り、
私を自分の足で立たせた。
私は語りかける者の声に耳を傾けた。
エゼキエル書2:2

 女が言った。
「私は、
キリストと呼ばれるメシヤが来られることは
知っています。
その方が来られる時、
私たちに一切のことを知らせてくださいます。」
エスは言われた。
「それは、このわたしである。」
ヨハネ4:25~26

 ガラテヤ2:16~21
 ヨハネ12:12~19(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/3;土)

 エゼキエルが見たその方は、
ケルビムと呼ばれる天使の頭の上、
大空のはるか上のほうにある、
サファイアのような何か王座に似たもののはるか上におられ、
その腰と見える所から上のほうは、
その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見え、
その腰と見える所から下のほうに、火のようなものが見え、
その方の回りには輝きがあったのだそうです。
その輝きは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、
主の栄光のように見えたのだそうです(エゼキエル1:25~28)。

その〔御子である神〕が、
キリスト(神の子、救い主。ヘブル語ではメシヤ)として、
人となって、私たち人間の世に来られた。
エスは、「わたしが、それである」と言われるのですね。

そして、過ぎ越しの祭りのとき、
エスが、十字架刑での処刑を受けるために(ルカ18:31~33)、
預言のことば(ゼカリヤ9:9)のとおりに、ろばの子に乗って、
最後のエルサレム入場をされたとき、
人々は、しゅろの枝を取って、出迎え、
「ホサナ。祝福あれ。
主の御名によって来られる方に。
イスラエルの王に」と大声で叫んで、
王であるキリストを出迎える仕方で、出迎えたのだそうです(ヨハネ12:12~19)。

 この方が、すべての人間の身代わりとなって、
十字架刑での処刑を受けられ、
墓に葬られ、
三日目に死人のうちより、新しい霊のからだに復活され、
天の〔父である神〕の右の座に帰られ、
その〔父である神〕の右の座にあって派遣される〔聖である霊〕と呼ばれる方。

 その方が、受け入れる者の中に入り、受け入れる者を立たせて、
〔父である神〕の語りかけを心に聞かせてくださり、
一切のことを知らせてくださるのだそうです。
 

この方は、
〔父である神〕と一つになっておられる〔御子である神〕と
一つになっておられる方。
〔御子である神〕のものを受けて、
私たちに知らせてくださる方(ヨハネ16:13~15)なのだそうですから。

 〔父である神〕は、
私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
〔生まれたときからの私〕という霊を、
エスの十字架刑での処刑に合わせて、
処刑されたもの、死んだものと手続きしてくださって、
キリストが内に生きておられる者に、
エスが派遣される〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
内にあって心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いによって生きる者にしてくださるのだそうですから(ガラテヤ2:19~20)。

今日も。

 

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先の見えない私たちにも

神は、
闇にひそむものを知り、
光は御もとに宿る。
ダニエル書2:22

 イエスの言葉:
わたしを信じる者が、
だれも暗闇の中にとどまることがないように、
わたしは光として世に来た。
ヨハネ12:46

 Ⅱコリント13:3~9
 ヨハネ12:1~11(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句3/2;金)


 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方ご自身が、
光そのものということでしょうか。

 〔御子である神〕、イエスは、
光としてこの世に来られたのだそうですね。
人の光として。
そして光は闇の中に輝いていて、
闇はこれに打ち勝てなかった(ヨハネ1:1~5)のだそうです。

 預言者イザヤは、預言して言います。
「闇の中に歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照、った」(イザヤ9:2、マタイ4:16)と。

そして、エルサレムの神殿で、
両親に抱かれて来た、赤ん坊のイエスに会ったシメオンは、
エスのことを
「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です」と話したのだそうです(ルカ2:32)。

 〔父である神〕の御思いから外れているところが暗闇であり、
〔父である神〕の御思いの中にいることが光の中にいること、なのでしょうか。

 イエスは、〔父である神〕の御思いのとおりに生きられた方、なのだそうですから。
エスは言われます。
「わたしは、自分から話したのではありません。
わたしを遣わした父ご自身が、
わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。
それゆえ、わたしがはなしていることは、
父がわたしに言われたとおりを、
そのままに話しているのです」(ヨハネ12:49~50新改訳)、と。

 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて、

神に逆らい、対抗する者となって、
神の御思いを求めることをせず
自分の理性による善し悪しの判断によって
自分の思うとおりを生きる者、暗闇の者となっています。

〔父である神〕の御思いに従って、人の世に来られ、
私たちの身代わりとなって十字架刑での処刑を受けてくださり、
死んで葬られ、
三日目に死人の中から復活され、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語った後、
オリーブ山から、弟子たちのみている前で、天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。
その方が、受け入れる者の心に、
〔父である神〕が、私たちひとりひとりに思っておられる御思いを
置いてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

エスは、天に帰られる前に弟子たちに、
「父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、
あなたがたは聖霊バプテスマを受けるからです」(使徒1:5)と言い残され、
使徒パウロを通しては、
聖霊に満たされなさい」(エペソ5:18)と言われています。

 私たちにも、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
光の中を、
この人間の歴史を導いておられる
〔父である神〕の御思いの中を歩んでほしいと、
闇の中にとどまることがないように、と
願っていてくださるのだそうです。
今日も。

 

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迷っていませんか。どうしたらいいのか、

主を畏れる人は誰か。
主はその人に選ぶべき道を示される。
詩25:12

 キリストはあなたがたのために苦しみを受け、
その足跡に続くようにと、
模範を残されました。
Ⅰペテロ2:21

 Ⅰヨハネ1:8~2:2(3~6)
 ヨハネ11:46~57(通読箇所)

  (ローズンゲン日々聖句3/1;木)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方を畏れ敬う者、
主はその人に行くべき道を示され、
正しい道を選べるようにしてくださる方のようですね。

 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている人間は、
自分の理性の判断で善しと思える道を歩む者ですが、
私たちの知るところは部分的であり、
その判断は「的の外れた」ものであることが多いようです。

ですから、すべてを知っておられる方に聞きながら、相談しながら、
事を進めていくことが善い道を選ぶ秘訣のようです。

 けれども、正しいこと、善いことを行っても、今の世では、必ずしも、
それが、受け入れられ、正しく評価されるばかりではないようです。

 しかし、罪を犯したために打ちたたかれて、
それを耐え忍んだからといって、
それが誉れになるわけではありませんが、
善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、
それは、神に喜んでいただけること、なのだそうです。

 イエスご自身も、罪を犯したことがなく、
その口に何の偽りも見いだされなかったのですが、
私たちのために苦しみを受けてくださり、
ののしられても、ののしり返さず、
苦しめられても、おどすことをせず、
正しくさばかれる方にお任せになったのだそうです。

 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ、
私たちが罪を離れ、
義のために生きることができるようにしてくださったのだそうですから(Ⅰペテロ
22024)。

 私たち、自分の罪はおおい隠して、口をぬぐっていたい者です。
けれども、神の前に罪を言い表し、差し出していって、
ありのままの自分を見ていただき、知っていただくなら、
エスの十字架刑での処刑を私自身に適用して下さって、
処罰が終わっている者としてくださるのだそうです(Ⅰヨハネ
1822)。

 〔父である神〕は、ひとりの人が民の代わりに死んで、
国民全体が滅びないようにし
(ヨハネ1120
義に生きるようにしてくださるのだそうですから


 イエスの十字架刑での処刑と死者の中からの復活により、来てくださる、
〔聖である霊」と呼ばれる方は、受け入れる者の心に、
〔父である神〕が私たちひとりひとりに思っておられる御思いを置いてくださり、
受け入れる者が、御思いにそった道を選び、生きるようにしてくださるのだそうですから。
今日も。



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救う力のある方の御心について行って

心を尽くして主に仕えなさい。
むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。
それはむなしいものだから何の力もなく、
救う力もない。
サムエル記上12:20~21

 無分別な者とならず、
主の御心がなんであるかを悟りなさい。
エフェソ書5:17

 ヨハネ16:29~33
 ヨハネ11:32~45(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/28;水)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
サムエルを通して、イスラエルの民に言われたのだそうです。
「恐れてはならない。
あなたがたは、このすべての悪を行った。
しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。
役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、
わきにそれてはならない。
それはむなしいものだ」(Ⅰサムエル12:⒛~21新改訳)と。

 

 また、使徒パウロを通しても言われます。
「無分別な者、愚かな者とならないで、
主のみこころが何であるかを、よく悟りなさい」と。

 イエスは、常に、
〔父である神〕といっしょにおられた方(ヨハネ16:32)、なのだそうです。
いつも、〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにしておられた方、
〔父である神〕の御心を悟っておられた方なのですね。

 それで、死んで、墓に納めら、
もう4日目になり、臭くなって来ているであろう、ラザロに対して、
心に来た〔父である神〕の御思いに従って、
マリヤについて来た人々の前で、
「ラザロよ。出て来なさい」と大声で叫ばれ、
顔は布で包まれ、手と足を長い布で巻かれたまま、出て来たラザロを、
「ほどいてやって、家に帰らせなさい」と言って、
マルタとマリヤに返されたのだそうです(ヨハネ11:32~45)。

 私たちも、イエスの十字架刑での処刑と復活を通して

私たちに来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いについていくとき、
〔父である神〕から遣わされた者として、
神の栄光を現すために(ヨハネ11:40)用いていただけるのだそうです。
エスに似た関係にしていただけて。

今日も。

 

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