風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

なんと幸いなことか!!

 いかに幸いなことか、
主を神とする国、
主が嗣業として選ばれた民は。
詩33:12(8/5の週の聖句)

 わたしの家は、
すべての民の祈りの家と呼ばれる。
イザヤ書56:7

 イエスの言葉:
まことの礼拝をする者たちが、
霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。
今がその時である。
なぜなら、
父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。ヨハネ4:23

 ルカ19:41~48
 詩59(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/5;Ⅰ日曜)

 いかに幸いなことでしょう。
弱いものに思いやりのある人は。
災いの降りかかるとき、
主はその人を逃れさせてくださいます。
詩41:2

 互いに重荷を担いなさい。
そのようにしてこそ、
キリストの律法を全うするのです。
ガラテヤ書6:2

 ロマ書11:1~12
 ヨハネ8:46~59(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/6;月)

 天の神、主、
「『わたしはある(IAM)』と呼ばれる方を、私の神とする人々の国、
この方がご自分の相続財産として選ばれた民は、
幸い、なのですね。

 それで、この方は、
すべての民の祈りを受けられる方になってくださるのだそうです。

 「霊」、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
「まこと」、「真理」をもって、
こうあるべきという姿ではなく、
今の、その時、その時の、そのままの、ありのままの自分の実体で、
エスを通して〔父である神〕の前に出て。

 詩篇59篇で、ダビデが、
自分のいのちをねらう者のことを、
「わが神、
私を敵から救い出してください。
私に立ち向かう者が届かぬほど、
私を高く上げてください。
不法を行う者どもから、私を救い出してください。
血を流す者どもから、私を救ってください。
今や、彼らは私のいのちを取ろうと、
待ち伏せています。
力ある者どもが、私に襲い掛かろうとしています。
主よ。それは私のそむきの罪のためでもなく、
私の罪のためでもありません。
私には、咎がないのに、

彼らは走り回り、身を構えているのです。
どうか目をさまして、私を助けてください。
どうか、見てください。
あなたは万軍の神、主。イスラエルの神。
どうか目をさまして、
すべての国々を罰してください。
悪い裏切り者は、だれをもあわれまないでください」(詩篇59:1~5新改訳)と、
心に思っているとおりに神に訴えているように。

 このように自分の実体を認めて、
エスが私たちに代わって受けられた十字架刑での処刑によって、
自分自身である〔生まれたときからの私〕を
処刑されたもの、
死んだものと手続きしていただき、

 その実態のままで〔父である神〕の前に出る者に9
〔父である神〕は、
もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、
御自身の思いを
わたしたち、それぞれの心に置いてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 それで、受け入れる者は、
律法を守ろうとする自分の努力によってではなく、
神の恵みによって(ロマ11:6)、
〔父である神〕の御思いが心に来て、
〔父である神〕が思っておられるとおりに、
弱い者を思いやり、
互いに重荷を担い合うようにもしていただけるのだそうです。

 イエスがそうであったように
〔父である神〕から出た思いによって(ヨハネ8:47)。

 幸いな者に。

今日も。

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神は、呪を祝福に代えてくださり

 あなたの神、主は
あなたのために
呪いを祝福に代えられた。
あなたの神、主が
あなたを愛されたからにほかならない。
申命記23:6

 私たちが誠実でなくても、
キリストは常に真実であられる。
キリストは御自身を、
否むことができないからである。
Ⅱテモテ2:13

 エレミヤ1:11~19
 ヨハネ8:30~36(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/3;金)

 イスラエルの民が
エジプトを出て荒野での生活の40年を経たとき、
天の神、主、
「『わたしはある(IAM)』という者」と名乗られる方(出エジプト3:14)は
言われたのですね。

 「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。
向きを変えて出発せよ。
そしてエモリ人の山地に行き、
その近隣のすべての地、
アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナンの地、レバノン
さらにあの大河ユーフラテス川まで行け。
見よ。
わたしはその地をあなたがたの手に渡している。
行け。その地を所有せよ。

 これは、主が
あなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、
彼らとその後の子孫に与えると言われた地である」(申命記1:6~8)。

 そして、イスラエルの民が
ヨルダンのエリコをのぞむ対岸のモアブの草原に宿営していたとき、
モアブの王、バラクは、
ユーフラテス河畔のペトルにいる占い師バラムを高額の報酬で呼び寄せ、
イスラエルを呪わせようとしたのだそうです。

 けれども、天の神、主は、
バラムがイスラエルの民を呪うことを許さず、
かえって、祝福の言葉を宣べさせたのだそうです(民数記22:1~24:25)。

 そのように、
天の神、主は、
誠実でない、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになって、
御自身に背き、対立、対抗する私たち人間を、
なお、愛してくださって、

 〔御子である神〕が、人となって、人の世に来てくださり、
私たちが受けるはずの呪いを、
御自身に受け取って、
神に呪われたものとなって十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 私たちが受けるべき呪は御子イエスに、
そして、私たちには御子イエスが持っておられる神の子の祝福を与えようと。

 誠実でない私たちに、
神は常に真実に接してくださり、
約束のことばをそのことばのとおりに実行してくださるのだそうですから。

 約束のことばを実現しようと、
見張っていてくださるのだそうですから(エレミヤ1:12)。

 イエスを通して私たちに来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちをイエスのことばにとどまらせ、
真理を知る者に、
罪の奴隷状態から解放し、
自由にしてくださるのだそうですから。
今日も。

 

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神、ご自身が、私の相続財産となってくださって

 主よ、
あなたは私の避けどころ、
命あるものの地で、
私の分となってくださる方。
詩142:6

 私たちの主イエス・キリスト
父である神がほめたたえられますように。
神は豊かな憐れみにより、
私たちを新たに生まれさせ、
死者の中からのイエス・キリストの復活によって、
生き生きとした希望を与えました。
Ⅰペテロ1:3

 Ⅰコリント9:16~23
 ヨハネ8:21~29(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句8/2;木)

 天の神、主、
「『わたしはある(IAM)』という者」と名乗られる方(出エジプト3:14)が、
私たちの避難所、
私たちの相続財産となっていてくださる、というのですね。

 私たちが、
そうしていただく値打ちがあるから、とか、
そうしていただくのにふさわしい者になったから、
そうしていただける、
ということではなく、

 私たちには何の期待もできない者であることをよくご存じのうえで、
天の神、主ご自身が私たちを憐み、
ご自身の側で一方的に、
必要な手続きの全部を済ませて、
ただ、「受け取っておくれ」と差し出していてくださっていることなのだそうです。 

 〔御子である神〕が、
人となって、人の世に、
私たちのこの歴史の中に来てくださり、
およそ、33歳の頃、
私たちの身代わりになって、
神に背く者、神に呪われた者となって
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 〔父である神〕は、
この、人となられた〔御子である神〕、イエスの処刑を、
私たち自身である、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊の処刑と見なしてくださるのだそうです。

 天の神、主、
「『わたしはある(IAM)』という者」と名乗られる方は、
私たち人間を、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)
と願って造られたのだそうです。

 「われわれ」、
〔父である神〕、
〔御子である神〕、
〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
それぞれ、全知、全能、永遠不変の方でありながら、
「あなたはあなた、わたしはわたし」と自己主張し、
自分の思うところをやっていくのではなく、

 愛と尊敬において、
相手を大切に思い、
相手の思いが成ることを願い、
自由意思で自発的に心を一つにしていらっしゃる、
その一つに、
愛において、自由意思で、自発的に、加わる者をと願って。

 けれども、最初の人、アダムとエバは、
この、造られた場、
神との一つの場にどまることを善しとしないで、
もっと偉い者に、すばらしい者になろうと志して、
与えていただいている自由意思によって、
「神のひとりのようになり、
善悪を知る」ようになる道を選んだのだそうです(創世記3:5、22)。
創造の目的からずれた者、「的外れ」な者に。

 そして、アダムの子孫である私たちも、
この「的外れ」の性質を負って生まれて来ているのですね。

 〔父である神〕は、
その、「的外れ」になっている私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
エスの十字架刑での処刑に合体したものとしてくださり、
処刑されたもの、死んだものと手続きしてくださるのだそうです。

 十字架に架かられたイエスは、
墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、
死人のうちから新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
神の国のことを語った後、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたのだそうです。

 〔父である神〕は、
そのイエスを通して、
受け入れる者にもう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、
この方によって、
受け入れる者の心に、
御自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置き、書きつけてくださって、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、
一つ心になって生きるようにしてくださるのだそうです。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方によって
新しく生まれた者(ヨハネ3:1~8)、
神を「わが相続財産」とする、生き生きとした希望に生きる者に。

 イエスが、
「わたしはわたし自身からは何事もせず、
ただ父がわたしに教えられたとおりに」していると言っておられるように、

 私たちも、
下から、地から、
〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いによって生きるのではなく、

 上から、天から、
〔父である神〕から来る思いによって生きる者に(ヨハネ8:23~29)。

 律法の下にいるユダヤ人には、ユダヤ人のように、
律法を持たない異邦人には、異邦人のように、
弱い人々には弱い者になる、
自由な者に(Ⅰコリント9:19~23)。

今日も。

 

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祈り求めたことは、得たと信じて

 主が勝利を得られるために、
兵の数の多少は問題ではない。
サムエル記上14:6

 祈り求めるものはすべて
既に得られたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになる。
マルコ11:24

 Ⅰコリント10:23~31
 ヨハネ8:12~20(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/1;水)

 イスラエル第1代の王サウルの息子ヨナタンは、
「主が勝利を得られるために、
兵の数の多少は問題ではない」と言って、
攻め寄せて来たペリシテの軍勢、
戦車3万、騎兵6千、
それに海辺の砂のように多い歩兵の先陣の前に、
道具持ちと二人で向かって出て行ったのだそうです。

 そして、そのとき、
天の神、主、
「『わたしはある(IAM)』という者」と名乗られる方は、
ペリシテの陣営に大きな恐怖を起こし、
イスラエルに大勝利をもたらしてくださったのだそうです(1サムエル13:1~14:23)。

 イエスは言われるのですね。
「神を信じなさい。
まことにあなたがたに告げます。
だれでも、この山に向かって、
『動いて、海には入れ』と言って、
心の中で疑わず、
ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、
そのとおりになります。

 だから、あなたがたに言うのです。
祈って求めるものは何でも、
すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになります」(マルコ11:23~24新改訳)。

 けれども、そう言われるイエス御自身は、
「もしわたしがさばくなら、
わたしひとりではなく、
わたしを遣わした方とがさばくのです」(ヨハネ8:16)と言われ、

 「わたしがわたし自身からは何事もせず、
ただ父がわたしに教えられたとおりに、
これらのことを話している」(ヨハネ8:28)と言われる方なのですね。


 使徒パウロは、
コリントの弟子たちに当てた手紙に書いています。

 「すべてのことは、してもよいのです。
しかし、すべてのことが有益とは限りません。
すべてのことは、してもよいのです。
しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。

 だれでも、自分の利益を求めないで、
他人の利益を心がけなさい。

 あなたがたは、食べるにも、飲むにも、なにをするにも、
ただ神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:23~24、31)。


 私たちは、
神が与えていてくださる自由を、
私自身である〔生まれたときからの私〕という霊から来る思いのために用いるのではなく、
この、〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、
「処刑されたもの」、「死んだもの」から出て来た思いであると認めて(計算して)、
エスの前に差し出し、
受け取っていただきながら、

 イエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が
私たちの心に置いてくださる、

〔父である神〕の御思いが実現するために用いていくように
していただけるのだそうです。

 天で、〔父である神〕の御思いの中で、
すでになっていることが、
地にもなるように、
祈り求めながら。
今日も。

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祈り求めたものは、既に得られたと信じて

 主が勝利を得られるために、
兵の数の多少は問題ではない。
サムエル記上14:6

 祈り求めるものはすべて
既に得られたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになる。
マルコ11:24

 Ⅰコリント10:23~31
 ヨハネ8:12~20(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/1;水)

 イスラエル第1代の王サウルの息子ヨナタンは、
「主が勝利を得られるために、
兵の数の多少は問題ではない」と言って、
攻め寄せて来たペリシテの軍勢、
戦車3万、騎兵6千、
それに海辺の砂のように多い歩兵の先陣の前に、
道具持ちと二人で向かって出て行ったのだそうです。

 そして、そのとき、
天の神、主、
「『わたしはある(IAM)』という者」と名乗られる方は、
ペリシテの陣営に大きな恐怖を起こし、
イスラエルに大勝利をもたらしてくださったのだそうです(1サムエル13:1~14:23)。

 イエスは言われるのですね。
「神を信じなさい。
まことにあなたがたに告げます。
だれでも、この山に向かって、
『動いて、海には入れ』と言って、
心の中で疑わず、
ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、
そのとおりになります。

 だから、あなたがたに言うのです。
祈って求めるものは何でも、
すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになります」(マルコ11:23~24新改訳)。

 けれども、そう言われるイエス御自身は、
「もしわたしがさばくなら、
わたしひとりではなく、
わたしを遣わした方とがさばくのです」(ヨハネ8:16)と言われ、

 「わたしがわたし自身からは何事もせず、
ただ父がわたしに教えられたとおりに、
これらのことを話している」(ヨハネ8:28)と言われる方なのですね。


 使徒パウロは、
コリントの弟子たちに当てた手紙に書いています。

 「すべてのことは、してもよいのです。
しかし、すべてのことが有益とは限りません。
すべてのことは、してもよいのです。
しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。

 だれでも、自分の利益を求めないで、
他人の利益を心がけなさい。

 あなたがたは、食べるにも、飲むにも、なにをするにも、
ただ神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:23~24、31)。


 私たちは、
神が与えていてくださる自由を、
私自身である〔生まれたときからの私〕という霊から来る思いのために用いるのではなく、
この、〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、
「処刑されたもの」、「死んだもの」から出て来た思いであると認めて(計算して)、
エスの前に差し出し、
受け取っていただきながら、

 イエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が
私たちの心に置いてくださる、

〔父である神〕の御思いが実現するために用いていくように
していただけるのだそうです。

 天で、〔父である神〕の御思いの中で、
すでになっていることが、
地にもなるように、
祈り求めながら。
今日も。

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天と地を造られた方、やがて、来られて、地を治められる方が、

 万軍の主よ。
あなただけが
地上のすべての王国の神であり、
あなたこそ
天と地をお造りになった方です。
イザヤ書37:16

 私は天が開かれているのを見た。
すると見よ、白い馬が現れた。
それに乗っている方は
「誠実」および「真実」と呼ばれて、

正義をもって裁き、
また戦われる。
黙示録19:11

 エフェソ書5:15~20
 ヨハネ7:53~8:11(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/31;火)

 天使の万軍を従えておられる方、
地上のすべての王国の神であり、
天と地、この宇宙と地球の自然環境を
私たち人間の住まいとして創造された方。

 その方が、神のあり方を捨て、
御自分を無にして、その天の御座を後にして、
仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられたのだそうです。
人としての性質をもって現れ、
自分を卑しくし、
死にまで従い、
実に十字架の死にまで従われたのだそうです。

 〔父である神〕の御思いに従って、
私たちすべての人間の身代わりとなり、
神に背き、神に呪われた者となって
十字架刑での処刑を受けてくださり、

 私たち自身である、
私たちの「生まれたときからの私〕という霊を
処刑が終わっているもの、死んだものとしてくださるために。

 それで、〔父である神〕は、
墓に葬られたこの方を、
三日目に死者の中から新しい霊のからだに復活させ、
40日に渡って弟子たちに何度も現れさせ、
神の国のことを伝えさせた後、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、
高く上げて、ご自身の右の座に帰らせ、
すべての名にまさる名をお与えになったのだそうです(ピリピ2:6~9)。

 ヨハネが見た幻では、
この方は、「忠実」、「真実」と呼ばれ、
義をもってさばきをなさるのだそうです。

 また、血に染まった衣を着ていて、「神のことば」と呼ばれ、
白い馬に乗り、やがて、天にある軍勢を従えて地に来られ、
地を治められるのだそうです。

 だから、私たちの人間の歴史がどんなに暗い方向に進むことがあっても、
このようなことにあずかっている私たちには希望があるのですね。

 このイエスを通して
受け入れる者に来てくださる〔聖である霊〕とよばれる方は、
受け入れる者の心に
〔父である神〕の御思いを置いてくださるのだそうですから(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 それで、受け入れる者は
エスのように
〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにして生きるようにしていただけるのだそうです。

 〔父である神〕のみこころはなんであるかをよく悟り、
悪い時代にあっても
機会を十分に生かして用いるようになるのだそうです。

 酒に酔う(満たされる)のではなく、
詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、
主に向かって心から歌い、
また賛美しながら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方に満たされ、
いつでも、すべてのことについて、
私たちの主イエス・キリストの名によって
〔父なる神〕に感謝する心にも(エペソ5:15~20)。


 イエスが宮で、
みもとに寄って来た民衆に教えておられるとき、
律法学者とパリサイ人がイエスを告発する理由を得ようとして、
姦淫の現場で捕らえられた一人の女を連れて来て、
真ん中に置き、
エスに言ったのだそうです。

 「先生。
この女は姦淫の現場で捕まえられたのです。
モーセは律法の中で、こういう女を石打に(処刑)するよう命じています。

 ところで、
あなたはなんと言われますか」と。

 イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられたのですが、
彼らが問い続けてやめなかったので、
身を起こして言われたのだそうです。

 「あなたがたのうちで、
罪のない者が、最初に彼女に石をなげなさい。」

 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、
エスが一人残された。
女はそのままそこにいた。

 イエスは身を起こして、そして女に言われた。
「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。
あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

 彼女は言った。
「だれもいません。」

 そこで、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。
行きなさい。
今からは決して罪を犯してはなりません」(ヨハネ8:1~11)。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちの心に働いて、
事に当たって、
このイエスのように、
〔父である神〕がしようと思われることをしていく者にも
してくださるのだそうですから。
今日も。

 

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神の御思いに心傾け

 主よ、

不当な利益にではなく、

あなたの心の定めに

心を傾けるようにしてください。詩119:36

 

 金銭の欲は、すべての悪の根です。

しかし、神の人よ、

あなたはこれらのことを避けなさい。

正義、信心、信仰、

愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。Ⅰテモテ6:10、11

 

 列王記上3:16~28

 ヨハネ7:40~52(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句7/30;月)

 

 私たち人間は、

天の神、主、

「『わたしはある(IAM)』という者」と名乗られる方によって、

「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)

と願われて造られたものなのだそうです。

 

 〔父である神〕、

〔御子である神〕、

〔聖である霊〕と呼ばれる神が、

愛において、

自由意志で、自発的に、

思いを一つにし、

心を一つにし、

行動を一つにし、

存在を一つにしていらっしゃる、

その一つに加わるものを、との願いにおいて。


 けれども、最初の人、アダムをエバは、

その、神との一つの場に居続けることをせず、

自分をもっと素晴らしい者に、偉い者にしようとして、

「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになる道を選んだのだそうです。

 

 神に背き、

神を無視し、

あるいは、対立、対抗して、

自分一人の理性の善し悪しの判断で事を行っていく、

創造の目的から「的外れ」になった者に。


 そして、アダムの子孫である私たちは、

このアダムの「的外れ」の性質を負って生まれて来ているのですね。

 それで、

この「的外れ」になっている

私たちの〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、

「不当な利益」、

本来、自分に与えられたものではない利益を追い求める、

自分一人で、良いもののすべてを独占してしまいたい思いなのですね。

神の御思いを聞こうとはしないで。


 けれども、天の神、主は、

人となられた〔神の御子〕、イエスが受けてくださった

十字架刑での処刑に私たちを合体させてくださって、

私たちの、この、

「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている

〔生まれたときからの私〕という霊を、

処刑が終わったもの、死んだものとしてくださるのだそうです。


 そのうえで、受け入れる者に、

もう一人の方、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、

受け入れる者の心に

〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いを置き(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、

受け入れる者の心に

〔父である神〕の御思いがあるようにしてくださるのだそうです。


 それで、天の神、主は、

私たちが、事ごとに、

この、〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、

処刑されたもの、死んだものから出て来た思いであることを認め、計算して、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる

〔父である神〕の御思いに心を向けていくようにしてくださるのだそうです。

 

 私のうちの〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る、

不当な利益、金銭の欲を求める思いは、

死んだものから出て来た思いとしてイエスの前に差し出し、

受け取っていただきながら、

神の御思い、

正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和が心にあるようにしてくださるのだそうです。

 

 王となったばかりのソロモンのところに、

ふたりの遊女が訴え出たのだそうです。

二人が三日違いで、それぞれ子供を産み、

ふたりだけで、ほかにはだれもいない夜のこと、

片方の女が自分の子の上に伏してしまい、赤ん坊が死んだのですが、

それと気づいたこの女は、

もう一人の女のそばから生きている赤ん坊を取り

自分のふところに抱いて寝かせ、

死んだ赤ん坊をもうひとりの女のふところに寝かせたので、

 

 その女が、朝、起きてよく見ると、

その死んだ赤ん坊は自分の子ではなかったということで、

ふたりの女がそれぞれ、

その生きている赤ん坊が自分の子だと訴えたのだそうです。


 そのとき、ソロモン王は、

家来に剣を持って来させ、

「生きている子どもを二つに断ち切り、

半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい」と命じたのだそうです。

 

 すると、生きている子の母親は、

自分の子をあわれに思って胸が熱くなり、

王に申し立てて言ったのだそうです。

 

 「わが君。

どうか、その生きている子をあの女にあげてください。

決してその子を殺さないでください」、と。

 

 しかし、もうひとりの女は、

「それを私のものにも、あなたのものにもしないで

断ち切ってください」と答えたので、

 

 王は宣告を下し、

「生きている子供を初めの女に与えなさい。

決してその子を殺してはならない。

彼女がその子の母親なのだ」、と言ったのだそうです。


 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、

事に当たって、

そのような知恵も

私たちの心にも、

置いてくださるのですね。


 イエスの話しを聞いた人々の中のある者は、

「あの方は、確かにあの(モーセが預言している)預言者だ」と言い、

またある者は「この方は、キリストだ」と言い、

エスを捕らえに来た役人も、

空手で祭司長たちのもとに帰り、

「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」と言ったように。

 

私たちにも。

今日も。

 

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