風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

驚くべき御業がなっているのだそうですね。私達のために。

新しい歌を主に向かって歌え。
主は驚くべき御業を成し遂げられた。
詩編98:1
 
 
弱者を虐げる者は造り主を嘲る。
造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ。
箴言14:31
 
 
もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、
その日の食べ物にも事欠いているとき、
あなたがたのだれかが、
彼らに「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、
体に必要なものを何一つ与えないなら、なんの役に立つでしょう。
信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、
信仰はそれだけでは死んだものです。
ヤコブ書2:15~17
 
                    (ローズンゲン日々の聖句5/3;日)
 
 
 天の神、主の驚くべき御業、その第一は、自分の判断を先立て、背くばかりの私たち人間、自分の判断を天の神、主の判断よりも上に持って来る私たち反逆者、弱者を虐げる思いは自然に内側からわき出て来るのに、憐れむ心は起こらない私たち、信仰、信仰と言いながら、信仰の理屈ばかりで行動の伴わない私たち、滅ぼされて当然の私たち人間を滅ぼさないで、ご自分の正義を全うしながら赦し、新しく生まれさせてご自分と思いを一つにする者に造り替え、ご自身と思いを一つにする者が欲しいとの天地創造の目的を完成される、その御業なのでしょうね。
 そのためには、天の父と呼ばれる方は、御子と呼ばれる方、永遠の昔から一緒にいて、完全に心を一つにし、天地創造、人間の創造に共に関わった方を、人として人間の世界に送り、この方を私たち人間の身代わりに立てて、反逆者として十字架刑で処刑することで、私たち人間のすべての罪を処刑済みとする手続きを完了して下さったのだそうです。
 そのうえで、これを受け入れる者に、もう一人の助け主、聖である霊と呼ばれる方を私たちの内に派遣して、この方の働きで、私たち人間の心に、私たち一人一人に関わるご自身の御思いを書き記して、その部分においてご自身と一つ思いを思う者にして下さるのだそうです。
 それで、私たちの心にも、生まれたときからの私自身からは起こらなかった、弱い人、乏しい人を思いやり、着る物、食べる物に事欠いている人たちに、今の余裕をもって融通し合う思いが起こって来るようにもなるのだそうです。
 このことは、天の万軍の天使たちもかたずを飲んで見守っていたことなのだそうです。
また、私たち人間を自分の滅びの道連れにしようとして、私たちの罪を訴えるサタンの口を封じることともなったのだそうです。
 天の神、主の、この驚くべき御業を伝え聞き、その言葉に信頼してこれをいただいた者たちは、歌うのですね。新しい歌を、日々。
この新しい週も。
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