風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

神が懲らしめられるとき

主よ、
怒って私を責めないでください。
憤って懲らしめないでください。
詩6:2

 

 神は、私たちを
怒りに定められたのではなく、
私たちの主イエス・キリストによる
救いにあずからせるように
定められたのです。
Ⅰテサロニケ5:9

 

 ヨブ記1:1~22
 Ⅰコリント13:8~13(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句3/3;火)


 天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」
と名乗られる方(出エジプト3:14)は、
私たちを放置しておられるのではなく、
私たちが間違った方向にどんどん進もうとするとき、
私たちを懲らしめ、
正しい方向に戻そうとしてくださる方なのですね。

 

 私たちをイエス・キリストによる救いにあずからせようと
御心に定めてくださっていて。

 

 ヨブは、サタンの意地悪な訴えによって、
一日のうちに、財産の全部と七人の息子、三人の娘を
失ってしまうという災難に遭いました。

 

 けれども、彼は、サタンが言うように、
それで神を呪うようなことはしなかったのだそうです。

「私は裸で母の胎から出て来た。
また裸でかしこに帰ろう。
【主】は与え、【主】は取られる。
【主】の御名はほむべきかな」(ヨブ1:1~22)、と。

 

 彼は、
何で自分にこのような災難が降りかかったのか
理解できなかったのでしょうが、
自分が知っていること、理解できることは
一部分にすぎないことを知っていたのでしょうね。
だから、自分の部分的な知識でことを決め、
結論を出してしまうことはしなかった。

 

 私たちも、主イエスが派遣していてくださる
【聖である霊】と呼ばれる方の働きの現れ、
異言だとか預言だとか様々な知識だとかを持っています。
 

 しかし、それらは部分的なものであり、
完全なものが現れたらすたれるものなのですね。

それは、銅板に映ったものを見ているような、ぼんやりしたもので、

やがて、顔と顔を合わせて見るように見る、
そのときが来るのだそうです。

 

 私たち、今は一部分しか知りませんが、
そのときには、私が完全に知られているのと同じように、
私も完全に知ることに。

 

 いつまでも残るのは信仰と希望と愛。
その中で一番すぐれているものは愛。
だから愛を追い求めていくように、
パウロは言っているようです。(Ⅰコリント13:8~13)

 

 私たちも、
自分の知るところ、理解しているところは
一部分であることを認めて、
愛を、愛である天の神、主を求めて行きたいですね。
神の懲らしめにあっているときにも。

 

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