風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

トータルで収支計算してみると公正になっているのだそうですから。

あなたは訴訟において
乏しい人の判決を曲げてはならない。
出エジプト23:6

 この金持ちの門前に、
ラザロというできものだらけの
貧しい人が横たわっていた。
ルカ16:19~20

 ルカ4:16~21
 ヤコブ書4:13~15
 詩8(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句2019年1/1;月・祝)

 

 天の神、主、

「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は
公正を愛される方なのですね。

 

 だから、訴訟においても、
権力者にへつらい、かたよった裁判をしてはならないと言われるのですね。
あるいは、逆に、貧しい人におもねり、
気に入られようとして
裁判を曲げることを嫌われるのですね。

 

 イエスは、イエスをあざ笑う金持ちたちに話されました。
「ある金持ちがいた。
いつも紫の衣や細布を着て、
毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

 

 ところが、その門前にラザロという
全身おできの貧しい人が寝ていて、
金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。

 

 さて、この貧しい人は死んで、
御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。

金持ちも死んで葬られた。

 

 その金持ちは、ハデス(黄泉)で苦しみながら目を上げると、
アブラハムが、はるかかなたに見えた。
しかも、そのふところにラザロが見えた。
  ~~
 アブラハムは言った。
『子よ。思い出してみなさい。
おまえは生きている間、良い物を受け、
ラザロは生きている間、悪い物を受けました。

しかし、今ここで彼は慰められ、
おまえは苦しみもだえているのです』」(ルカ16:19~25)、と。

 

 私たちは、この世だけで事を判断して、
不公平だと思いますが、
向こうの世とのトータルで見なければいけないようですね。

 

 トータルで見るとき、
神は、私たちを公正に扱われる方だと分かるようです。

 

 

 イエスは、イザヤの預言、
「わたしの上に主の御霊がおられる。
主が、貧しい人々に福音が伝えられるようにと、
わたしに油をそそがれたのだから。

 主はわたしを遣わされた。
捕らわれ人には赦免を、
盲人には目の開かれることを告げるために。

しいたげられている人々を自由にし、
主の恵みの年を告げ知らせるために」が、
ご自身によって、今日、そのことばのとおりに実現した、
と仰られました(ルカ4:17~21)。

 

 天の神、主は、
この世で弱い立場にある人、
貧しい人を心にかけておられる方、なのですね。

 

 

 私たちは、
自分の意思だけで何かをしているかのように思っていますが、
エスの弟のヤコブが言うように、
天の神、主の御思いと支えによって生きている者、
明日のことは分らない者。

 

 だから、
「主の御心なら、
私たちは生きていて、
このことを、また、あのことをしよう」(ヤコブ4:13~15)
と言うのが正しい事のようです。

 私たちは自分がそういう存在、
神の御思いにより、イエスによって生きている者であることを認めて、
ダビデとともにうたいながら歩みたいですね。

 私たちの主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方よ。
あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。
あなたの御威光は天でたたえられています。
あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、
力を打ち建てられました。
それは、あなたに敵対する者のため、
敵と復讐する者をしずめるためでした。

 あなたの指のわざである天を見、
あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何ものなのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。

 

 あなたは、人を、
神よりもいくらか劣るものとし、
これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
万物を彼の足の下に置かれました。
すべて、羊も牛も、
また、野の獣も、
空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

 

 私たちの主、
「『わたしはある』という者」と名乗られる方よ。
あなたの御名は全知にわたり、
なんと力強いことでしょう」(詩篇8篇)、と。

 

この新しい一年も。

 

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