風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

復活されたイエスが、岸に立っておられ、

 朝にはどうか、聞かせてください、
あなたの慈しみについて。
私はあなたに依り頼みます。
詩143:8

 弟子たちは、舟に乗り込んだ。
しかし、その夜は何もとれなかった。
既に夜が明けたころ、
エスが岸に立っておられた。
ヨハネ21:3~4

 黙示録2:8~11
 ルカ15:8~10(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句10/6;金)

 ダビデはうたいます。

主よ。私の祈りを聞き、

私の願いに耳を傾けてください。

あなたの真実と義によって、私に答えてください。

あなたのしもべをさばきにかけないでください。

生ける者はだれひとり、

あなたの前に義と認められないからです。

敵は私のたましいを追いつめ、

私のいのちを地に打ち砕き、

長く死んでいる者のように、

私を暗いところに住まわせたからです。

それゆえ、私のたましいは私のうちで衰え果て、

私の心は私のうちでこわばりました。

私は昔の日々を思い出し、

あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、

あなたの御手のわざを静かに考えています。

あなたに向かって、私は手を差し伸べ、

私のたましいは、かわききった地のように

あなたを慕います。

 

主よ。早く私に答えてください。

私の霊は滅びてしまいます。

どうか、御顔を私に隠さないでください。

私が穴に下る者と等しくならないために。

朝にあなたの恵みを聞かせてください。

私はあなたに信頼していますから。

私に行くべき道を知らせてください。

私のたましいはあなたを仰いでいますから。

主よ。私を敵から救い出してください。

私はあなたの中に、身を隠していますから。

 

あなたのみこころを行うことを教えてください。

あなたこそ私の神であられますから。

あなたのいつくしみ深い霊が、

平らな地に私を導いてくださるように。

主よ。あなたの御名のゆえに、私を生かし、

あなたの義によって私のたましいを苦しみから連れ出してください。

あなたの恵みによって、私の敵を滅ぼし、

私のたましいに敵対するすべての者を

消し去ってください。

私はあなたのしもべですから(詩篇143:1~12新改訳)、と。


 イエスは、私たちが創造の目的から「的外れ」になってしまっている責任を、

私たちに代わって負ってくださり、

十字架刑での処刑を受けてくださいました。
そして、近くにあった、アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に納められたのだそうです。

しかし、三日目、日曜日の早朝、死者の中から新しい霊のからだに復活され、
40日に渡って、何度も弟子たちに現れてくださったのだそうです。

 シモン・ペテロ、デドモ(双子)と呼ばれたトマス、

ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子ヤコブヨハネ、ほかに二人の弟子がいっしょにいた時、

ペテロが、「私は漁に行く」と言ったので、彼らもいっしょに出掛けたのだそうです。

しかし、その夜は何も取れなかったのだそうです。
世が明けそめたとき、(復活された)イエスが岸辺に立たれ、彼らに言われたのだそうです。
「子どもたちよ。食べる物がありませんね」と。

そして、「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」と言われたので、
弟子たちが網をおろすと、おびただしい魚のため、網を引き揚げることができず、
網を引いて陸地まで帰ったのだそうです。



 ヨハネの黙示録2:8では、イエスのことを
「初めであり、終わりである方。
死んで、また生きた方が言われる」と記しています。
「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることなない」(2:11)と。



 イエスは言われます。

「女の人が銀貨10枚を持っていて、
もしその1枚をなくしたら、
あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、
『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んで下さい』と言うでしょう。
あなたがたに言いますが、それと同じように、
ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」(ルカ15:8~10)、と。


 朝には、天の神、主の慈しみの言葉に耳を傾け、
「神のひとりのようになろう」として、「善悪を知る者」になっている、
〔生まれた時からの私〕という霊の善し悪しの判断で動いているところから、
方向転換をして、
神の慈しみによって、
その、〔生まれた時からの私〕という霊をイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて
死んだものとしていただき、
死者の中から新しい霊のからだに復活し、
天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、

弟子たちが、イエスの言葉のとおりに網をおろしてみたように、
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の慈しみの御思いによって生きるなら、
天の御使いたちに、大きな喜びがわき起こるのだそうですね。
今日も。

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私を助けて下さる方によって

見よ、主なる神が助けてくださる。
誰が私を罪に定め得よう。
イザヤ書50:9

 私たちの主イエス・キリストによって、
私たちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
ロマ書5:11

 フィリピ書1:19~26
 ルカ15:1~7(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句10/5;木)

 イザヤは書きしるしています。

主はこう仰せられる。

「あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるのか。

わたしが彼女を追い出したというのなら。

あるいは、その債権者はだれなのか。

わたしがあなたがたを売ったというのなら。
見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、

あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ。

なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、

わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。

わたしの手が短くて贖(あがな)うことができないのか。

わたしには救い出す力がないと言うのか。

 

 神である主は、わたしに弟子の舌を与え、

疲れた者をことばで励ますことを教え、

朝ごとに、私を呼びさまし、

わたしの耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。

神である主は、私の耳を開かれた。

私は逆らわず、うしろに退きもせず、

打つ者に私の背中をまかせ、

ひげを抜く者に私の頬をまかせ、

侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。

 

 しかし、神である主は、私を助ける。

それゆえ、私は、侮辱されなかった。

それゆえ、私は顔を火打石のようにし、

恥を見てはならないと知った。

私を義とする方が近くにおられる。

だれが私と争うのか。

さあ、さばきの座に共に立とう。

どんな者が、私を訴えるのか。

私のところに出て来い。

見よ。神である主が、私を助ける。

だれが私を罪に定めるのか。

見よ。彼らはみな、衣のように古び、

しみが彼らを食い尽くす(イザヤ50:1~9新改訳)、と。

 

 

 使徒パウロは言います。

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。

情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、

キリストが私たちのために死んでくださったことにより、

神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 

 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、

神によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

もし敵であった私たちが、御子(イエス)の死によって神と和解させられたのなら、

和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

そればかりでなく、

私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、

私たちは神を大いに喜んでいるのです(ロマ5:6~11新改訳)、と。

 

 

 さらに、パウロは言います。

私の切なる祈りと願いは、

どんな場合も恥じることなく、いつもののように今も大胆に語って、

生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。

 

 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。

しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、

私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、

どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。

 

 私は、その二つの者の間に板挟みとなっています。

私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。

実はそのほうが、はるかにまさっています。

しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。

私は、あなたがたの信仰の進歩と喜びのために、

私は、生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。

そうなれば、私はもう一度あなたがたのところに行けるので、

私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう(ピリピ1:20~26)、と。

 

 

 イエスの話しを聞こうとして、

取税人(支配者ローマのために税金を取り立てる役を買って出た人)、罪びとたちがみな、

みもとに近寄って来たのだそうです。

 

 すると、パリサイ人(自分たちは神の律法を守る努力に熱心であるとして、一般の人たちから分離していると自負しているグループ)、律法学者たは、つぶやいて言ったのだそうです。

「この人(イエス)は、罪びとたちを受け入れて、食事までいっしょにする」

(この人たちは、取税人や罪びとと交流すると汚れるとして、挨拶もしなかったのだそうですから)、と。

 そこでイエスは、彼らにこのような話をされたのだそうです。

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、

そのうちの1匹をなくしたら、

その人は99匹を野原に残して、

いなくなった1匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、

友だちや近所の人たちを呼び集め、

『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。

 

 あなたがたに言いますが、それと同じように、

ひとりの罪人が悔い改める(神の方に向き変って、帰って来る)なら、

悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」(ルカ15:1~7)。

 


 天の神、主は、私たちの身代わりになって十字架刑での処刑を受けてくださったイエスによって、私たちと和解してくださり、

私たちを罪に定めようとする誰からも(自分自身からも)、私たちを助けてくださり、

〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、

神と和解した者の新しい生き方を、

天の神、主と、思いを一つにし、心を一つにして生きる生き方を生きさせてくださるのだそうですから。

今日も。

 

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弱かったのに強いものとされ、戦いの勇者に

神よ、我らはこの耳で聞いています。

先祖が我らに語り伝えたことを。
先祖の時代、いにしえの日に、あなたが成し遂げられた御業を。
詩44:2

 昔の人たちは信仰によって、
国々を征服し、正義を行い、約束のものを手に入れ、
弱かったのに強いものとされ、戦いの勇者となりました。
ヘブル書11:32~34

 使徒9:36~42
 ルカ14:25~35(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句10/4;水)

 いにしえの日に、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が、
力強い腕、大いなる御業をもって、先祖たちをエジプトから連れ出し、
約束の地に導き入れたことを、
この耳で聞いています、と、この詩篇の作者は言うのですね。

「彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。
ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。
あなたが彼らを愛されたからです」(詩篇44:3)と。

 弱かったのに強いものとされ、戦いの勇者となったのは、
信仰、天の神、主との信頼関係によったのだ、と。

まだ、見ていないけれど、
この方の御思いの中で成っている事実を、この方への信頼において受け取り、
この方のお言葉の中に踏み出していって、その事実を見ていったのだと。


 ヨッパの人たちは、タビタ(ギリシャ語ではドルカス)が死んだとき、
ペテロがルダに来ていると聞いて、「すぐに来て下さい」とペテロに使いを送り、
ペテロを通して彼女を生き返らせてもらったのだそうです(使徒9:36~42)。


 イエスは言われます。
「わたしのもとに来て、
自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まないものは、
わたしの弟子になることができません。
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、
わたしの弟子になることはできません。

 塔を築こうとするとき、まずすわって、

完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。
基礎を築いただけで完成できなかったら、
見ていた人はみな彼をあざ笑って、
『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。

 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときには、
2万人を引き連れて向かってくる敵を、1万人で迎え撃つことができるかどうかを、
まずすわって、考えずにいられましょうか。
もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。

 そういうわけで、あなたがたはだれでも、
自分の財産全部を捨てないでは、
わたしの弟子になることはできません」(ルカ14:25~33新改訳)と。

 座って、よく計算し、よく考えて、
旧い契約、自分の力で、自分の努力で、
天の神、主の御思いを100パーセント実行できるかどうか。
自分の力で、財産全部を捨てて貧しい人にほどこす(マルコ10:17~22)、ことができるかどうか、
よく計算しなさい。
そして、自分の力に余ることであれば、
自分にはできないことであれば、
まだ、時間があるうちに講和を求めるように、
とイエスは言うのですね。


 自分が、天の神、主の創造の目的からズレてしまっている者、
「的外れ」になっている者であることを認め、
その責任を問われれば十字架刑で処刑されるはずの者であることを認めて、
エスが受けてくださった十字架刑での処刑に合わせていただいて、
処刑が済んでいる者、死んだものとしていただきなさい、と。

 そして、墓に葬られ、三日目に墓より新しい霊のからだに復活し、
天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださるもう一人の助け主(ヨハネ14:16)、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方が心に置いてくださる、
〔父である神〕が私について思っていてくださる御思いについて行く生き方を受け取りなさい(エレミヤ31:31~33、エゼキエル36:25~28、ガラテヤ5:24~25)、と。

 国々を征服し、正義を行い、
約束のものを手に入れ、
弱かったのに強いものとされ、戦いの勇者としていただきなさい、と。
今日も。

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東から西から、北から南から、私たちも集めて下さり、

主は彼らを国々の中から集めてくださった。
東から西から、北から南から。
主に感謝せよ。
主は慈しみ深く人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
詩107:3、8

 神は満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、
その十字架の血によって平和を打ち立て、
万物をただ御子によってご自分と和解させられました。
コロサイ書1:19~20

 イザヤ書38:9~20
 ルカ14:15~24(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/3;火)

 紀元前538年以降の、バビロン捕囚からの帰還もそうですが、
紀元70年のローマ軍によるエルサレム神殿の破壊以降、2000年の時を経て、
今、まさに、東から西から、北から南から、人々が帰還している様子は、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方の慈しみと驚くべき御業、なのでしょうね。

 そして、天の神、主は、イエスの十字架で流された血(血はいのちなのだそうですから)によって、
私たち、すべての人間との平和を打ち立ててくださり、
〔御子である神〕、イエスによって、私たちをご自分と和解させてくださるのだそうです。

エスは話しておられます。
ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた。
宴会の時刻になったので、しもべをやり、招いておいた人々に、
「さあ、おいで下さい。もうすっかり用意ができましたから」と言わせた。
ところが、みな同じように断り始めた。
「畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません」、
「5くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです」、
「結婚したので、行くことができません」と。

 おこった主人は、そのしもべに言った。
「急いで町の大通りや路地に出て行って、
貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人、足のなえた者たちをここに連れて来なさい。」

 しもべは言った。
「ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。」
主人は言った。
「街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、
無理にでも人々を連れて来なさい」(ルカ14:15~23)と。

そのようなわけで、本来、招かれていなかった私たち、異邦人も、今、招かれているのだそうです。
まだ、その家がいっぱいになっていないようですから。

ユダの王ヒゼキヤが死の病気になったとき、主に向かって大声で泣き、訴えたので、
天の神、主は、預言者イザヤを遣わしてヒゼキヤをいやされたのだそうです。
そのとき、ヒゼキヤ王はうたったのだそうです。

ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。

あなたは、滅びの穴から、

私のたましいを引き戻されました。

あなたは私のすべての罪を、

あなたのうしろに投げやられました。

よみはあなたをほめたたえず、

死はあなたを賛美せず、

穴に下る者たちは、

あなたのまことを待ち望みません。

生きている者、ただ生きている者だけが

今日の私のように、

あなたをほめたたえるのです。

父は子らにあなたのまことについて知らせます。

主、「『私はある』という者」と名乗られる方は、私を救ってくださる。

私たちの生きている日々の間、

主の宮で琴をかなでよう(イザヤ38:17~20新改訳)と。

 私たちも、今日も。

 

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命の光の中を

主であるわたしは、
恵みをもってあなたを呼び、
あなたの手を取った。
イザヤ書42:6

 イエスの言葉:
わたしは世の光である。
わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、
命の光を持つ。
ヨハネ8:12

 ロマ書6:18~23
 ルカ14:7~14(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/2;月)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、預言者イザヤを通して言われます。
 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、
わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。
わたしは彼の上にわたしの霊を授け、
彼は国々に公義をもたらす。
彼は叫ばず、声をあげず、
ちまたにその声を聞かせない。
彼はいたんだ葦を折ることもなく、
くすぶる燈心を消すこともなく、
まことをもって公義をもたらす。
彼は衰えず、くじけない。
ついには、地に公義を打ち立てる。
島々も、その教えを待ち望む。

天を造り出し、これを引き延べ、
地とその産物を押し広め、
その上の民に息を与え、
この上を歩む者に霊を授ける神なる主はこう仰せられる。
「わたし、主は、義をもってあなたを召し、
あなたの手を握り、
あなたを見守り、
あなたを民の契約とし、国々の光とする。
こうして、見えない目を開き、
囚人を牢獄から、
やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。
わたしは主、これがわたしの名。
わたしの栄光を他の者に、
わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。
先の事は、見よ、すでに起こった。
新しい事を、わたしは告げよう。
それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう」(イザヤ42:1~9新改訳)と。


エスは言われます。
「わたしは、世の光です。
わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、
いのちの光を持つのです」(ヨハネ8:12新改訳)と。

 700年ほど前、イザヤによって預言された、地に公義をもたらす「世の光」、
それがわたしだと。

 イエスが受けてくださった十字架刑での処刑と
エスが死者の中から復活された出来事を通して、
私たちに来て下さる、「私の霊」、「神の霊」、「聖である霊」と呼ばれる方。
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の私に関わる御思いによって生きる者は、
やみの中を歩くことがなく、いのちの光を内に持つようにしていただけると。


パウロは言います。
以前は、自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげ、不法に進んでいた私たちも、
このイエスによって、罪から解放され、義の奴隷としていただいたけて、
その手足を義の奴隷としてささげて、清潔に進むようになり、
永遠のいのちをプレゼントとして与えていただける者になる(ロマ6:18~23)と。

 そして、今の世で、報いを受け、人からの誉れを受けるよりも、
義人の復活の時にお返しを受けることを喜ぶようにも、してただけるのだそうですから(ルカ14:7~14)。

名前で呼んでいただき、
手を取って導くように、心を導いていただきながら、
永遠のいのちへと。
今日も。

 

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時に応じて食べ物をくださる方に

ものみながあなたに目を注いで待ち望むと、
あなたは時に応じて食べ物をくださいます。
詩145:15(10/1の週の聖句)

 ハンナの祈り:
万軍の主よ、はしための苦しみをご覧ください。
はしために御心を留め、お忘れにならないでください。
サムエル記上1:11

 神は存在しないものを呼び出して存在させる方です。ロマ書4:17

 ルカ12:(13~14)15~21
 詩67(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/1;Ⅰ日)

 詩篇の作者はうたいます。
 私の神、王よ。私はあなたをあがめます。

あなたの御名を代々限りなく、ほめたたえます。
日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を代々限りなく賛美します。
主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。
その偉大さを測り知ることができません。
代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるしょう。
私はい栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます。
 ~~
主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。
主はすべてのものにいつくしみ深く、
そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。
主よ。あなたの造られたすべてのものは、あなたに感謝し、
あなたの聖徒はあなたをほめたたえます。

 ~~
主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。
すべての目は、あなたを待ち望んでいます。
あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。
あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます(詩篇145:1~16新改訳)

 


 エルカナの妻、ハンナは子どもがなかったのだそうです。
それで、子どもをたくさん産んだもう一人の妻、ベニンナからつらく当たられ、
いらだたせられたのだそうです。
 それで、主の宮に上ったとき、心の痛んでいたハンナは、
天の神、主の前に心を注ぎ出し、祈って激しく泣いたのだそうです。
そして、天の神、主は、ハンナの苦しみをご覧くださり、御心に留め、お忘れにならず、
胎を開かれたので、ハンナは身ごもり、男の子を産み、
「私がこの子を主に願ったから」と言って、その名をサムエル(神の名)と呼んだのだそうです(サムエル記1:1~20)。


 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、存在しないものを呼び出して存在させる方、
無から有を、無いものを有るもののようにお呼びになる方、
望むことができないときにも望みを抱いて信頼して大丈夫な方なのだそうです。

 だから、自分一人で生きているかのように、何を食べようか、何を着ようかと心配し、気をもみ、死ぬまで困らないだけのものを貯め込むことに心を煩わせるよりも、
天の神、主の御思いが成ることを求めて行ってほしいのだそうです(ルカ12~13~32)。


 私たちも、この方に信頼して歌うのですね。
 どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、
御顔を私たちの上に照り輝かせてくださるように。
神よ。国々の民があなたをほめたたえ、
国々の民がこぞって、あなたをほめたたえますように。
国民が喜び、また、喜び歌いますように。
それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、
地の国民を導かれるからです。
地はその産物を出しました。
神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように」(詩篇67新改訳)と。
この新しい週も。

 

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主のものとしていただき、新しい生き方を

町に災いが起こったなら、
それは主がなされたことではないか。
アモス書3:6

 私たちは、生きるとすれば主のために生き、
死ぬとすれば主のために死ぬのです。
従って、生きるにしても、死ぬにしても、
私たちは主のものです。
ロマ書14:8

 創世記16:6b~14
 ルカ14:1~6(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/30;土)

 預言者アモスは言うのですね。
イスラエルの子らよ。
主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方があなたがた、
すなわちわたしがエジプトの地から連れ上ったすべての氏族について言った、このことばを聞け。

 わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。
それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。
  ~~
まことに、神である主は、そのはかりごとをご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは何事もなさらない。
獅子がほえる。だれが恐れないだろう。
神である主が語られる。
だれが預言しないでいられよう(アモス3:1~8新改訳)。


 使徒パウロは言います。
(イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、
〔生まれた時からの私〕である霊を処刑されたもの、死んだものとしていただき、
エスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いを自分の思いとして、
〔父である神〕と思いを一つにして生きるようになった)私たちの中で、
だれひとりとして、自分のために生きている者はなく、
また自分のために死ぬ者もありません。
もし生きるなら、主のために生き、
もし死ぬなら、主のために死ぬのです。
ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです(ロマ14:7~8)と。


 今から4000年ほど前のこと、アブラハムの妻サライの女奴隷であったエジプト人ハガルは、
サライに子どもが生まれないため、女主人サライによってアブラハムの妻とされたのだそうです。
そして、アブラハムの子を宿したので、子を産まない女主人を見下げるようになったため、
サライからいじめられ、サライのもとから逃げ出したのだそうです。
 主の使いが、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、
サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねたのだそうです。
そして言ったのだそうです。
「あなたの女主人のもとに帰りなさい。
そして、彼女のもとで身を低くしなさい。
あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。
見よ。あなたはみごもって、男の子を産もうとしている。
その子をイシュマエル(神は聞かれる)と名づけなさい。
主があなたの苦しみを聞き入れられたから。
彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。
彼はすべての兄弟に敵対して住もう」(創世記16:1~12)と。

 

 このイシュマエルの子孫がアラブ人であり、
マホメットも自分をイシュマエルの子孫としていて、
エジプトのサダト大統領は、イスラエルとの和解交渉の時、
アブラハムの子イサクの子孫であるあなたがたと、
アブラハムの子イシュマエルの子孫である私たちが」と、格調高い演説をしたのだそうです。


 天の神、主は、ソドムとゴモラをさばくため、出て行かれるとき、考えられたのだそうです。
「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」(創世記18:17)と。

 天の神、主は、私たちにも、ご自身がこれからしようと思われることを、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、私たちの心にその思いを置いてくださるのだそうです。
私たちが、神のものとして、
ご自身を愛する愛によって、
自由意思で、自発的に、自分から進んで、一つ心になるようにと願って。
今日も。

 

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