風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

一緒に、楽しみ、喜ぼうと

あなたがたはわたしが創造するものにより、
とこしえに楽しみ、
喜びを得よ。
イザヤ書65:18口語訳

 全能者である神、主よ、
あなたの業は偉大で、驚くべきもの。
諸国の民の王よ、
あなたの道は正しく、また、真実なもの。
黙示録15:3

 ルカ5:12~16
 エゼキエル書3:22~27(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句10/24;火)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
天地、万物、このすべてのものを創造された方なのだそうです。
これらのものを、無目的に、たまたま、思いつきで、造られたのではなく、
私たち人間の住まいとして(イザヤ45:18)、
私たち人間を喜ばせようと思って、
細かい配慮をして、造ってくださったようです。
御思いのとおりに、正義と真実をもって。

 イエスがある町におられたとき、全身ツァラート(ハンセン病)の人が、
エスの前にひれ伏してお願いしたのだそうです。
「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」と。
エスは手を伸ばして、彼にさわり、
「わたしの心だ。きよくなれ」と言われると、
すぐに、そのツァラートは消えたのだそうです(ルカ5:12~13)。

 天の神、主は、私たちが悲しみや苦しみの中にいるのを、
ただ、黙って見ておられるだけの方ではなく、
私たちをいやし、ご自身とともに喜び、楽しむようにと思ってくださり、
求める者に答えてくださる方のようですね。

また、イエスご自身、よく荒野の誰もいないところに退いて、
〔父である神〕と過ごす時を楽しんでおられたようです(ルカ5:16)。

 〔父である神〕は、私たちとも、一緒に過ごし、
ともに喜び合いたいと思っておられるようです。

エスによって、
ありのままの、本当の、単一の思いに成り切って(ヤコブ4:8)、

はばかることなく、御前に出られるようにしてくださって(ヘブル4:16、10:22)。
今日も。

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

望ませ、行わせてくださるのだそうですから

あなたの業を主にゆだねれば、
計らうことは固く立つ。
箴言16:3

 あなたがたの内に働いて、
御心のままに望ませ、
行わせておられるのは神です。
フィリピ書2:13

 出エジプト記15:22~27
 エゼキエル書3:12~21(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句10/23;月)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が、
すべてのものを、ご自分の目的のために造られたのだそうです。

 私たちは心に計画を持ちます。
天の神、主が、その舌に答えを与え、
その一歩一歩を備えてくださり、
その歩みを確かなものにしてくださるのだそうです(エゼキエル16:1~9)。

 この方が、御心のままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、
事を行わせてくださるのだそうですから。

 イエスは、私たちすべての人間のそむき、「的外れ」の責任を、全部、
ご自身の身に引き受けて、十字架刑での死刑を受けてくださったのだそうです。

それで、このイエスによって、私たちへの処罰が終わっている今は、
〔父である神〕は、このイエスを通して、
もう一人の方、「聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって、
この方によって、私たちの心に、
私たち一人ひとりに思っておられる御思い、
私たち一人ひとりを通してしようと思われる御思いを置いてくださり、
私たちがご自身と同じ思いを思い、しようと思われることをしていくようにしていてくださるのだそうです。


エジプトを出て、葦の海から旅立って、三日間、飲む水がなくて、
ようやく、マラに到着したのですが、
マラの水は苦くて飲むことができなかったのだそうです。
その時、天の神、主は、モーセに1本の木を示され、
モーセがそれを水に投げ入れると、水は甘くなり、飲むことができるようにしてくださったように。

そのとき、仰せられたのだそうです。
「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、
主が正しいとみられることを行い、
またその命令に耳を傾け、
そのおきてをことごとく守るなら、
わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。
私は主、あなたがたをいやす者である」(出エジプト15:22~27)と。

 

 私たちも、心に置いてくださる御思いに耳を傾け、
ペテロのように、
「私はそう思わないけれど、でも、おことばどおりやってみましょう」(ルカ5:5)と、
一歩、踏み出してみると、
神の働きの現れを見ることになるのだそうですから。
今日も。

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

あなたが、いやそうと思ってくださるなら

主よ、あなたがいやしてくださるなら、
私はいやされます。
エレミヤ書17:14

 立ち上がって実行せよ。
主が共にいてくださるように。
歴代誌上22:16

 シモン・ペテロの言葉:
先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、
何もとれませんでした。
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。
ルカ5:5

 マルコ2:1~12
 詩32(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/22;Ⅳ日)

 ある町で、全身ツァラート(重い皮膚病、あるいはハンセン病)の人が、イエスを見ると、
ひれ伏してお願いしたのだそうです。
「お心一つで、私をきよくしていただけます」、と。
それでイエスは手を伸ばして、彼にさわり、
「わたしの心だ。きよくなれ」と言われると、
すぐに、そのツァラートが消えたのだそうです(ルカ5:12~14新改訳)。

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
「在りて在る者」、「あろうと思われるとおりにある」お方なのだそうです。
この方がいやしてくださるなら、いやそうと思ってくださるなら、
その御思いのとおりに私たちはいやしていただけるようですね。

 

ダビデは、息子のソロモンに、神殿の建設について、
「立ち上がって実行せよ。主が共にいてくださるように」と命じました。
そして、ソロモンがイスラエルの王となったとき、
これを実行し、完成させることができたのだそうです。


エスが、漁から帰って網を洗っていたシモンに、
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい」と言われたとき、
(この当時、ガリラヤ湖では夜に漁をしていたようですが)、
「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つとれませんでした」と答えたのだそうです。
だから、真昼間の今、漁をしたって、何もとれるはずがありませんよ」と。
けれども、シモンは、それで終わらず、
「でも、おことばどおり、網を降ろしてみましょう」と、イエスの言葉のとおりにやってみたのだそうです。
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになったのだそうです。
これを見て、シモンは、イエスの足もとにひれ伏したのだそうです。
そしてこの後、イエスに従う者になり、イエスからペテロという名をいただき、
12弟子のひとりに加えられることになったのだそうです。


 イエスが、カペナウムに来られたとき、
家におられることが知れ渡ったので、多くの人が集まり、
戸口のところまですきまもないほどになったのだそうです。
エスは、この人たちにみことばを話しておられたのだそうですが、
そのとき、ひとりの中風の人が4人の人にかつがれて連れて来られたのだそうです。
けれども、群衆のためイエスに近づくことができなかったので、
その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、
中風の人を寝かせたまま、つり降ろしたのだそうです。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われ、
また、「(わたしが)あなたに言う。
起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われると、
彼は起き上がり、すぐに床(とこ)を取り上げて、
みんなの見ている前を出て行ったのだそうです(マルコ2:1~12)。


 〔父である神〕は、私たちに、イエスを通して、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。
そして、この方によって、
ご自身が私たち一人ひとりに思っておられる御思いを私たちの心に置いてくださり、
私たちがご自身と同じ思いを思う、一つ心になるようにしてくださり、
ご自身がしようと思われることを私たちがしていくようにしてくださるのだそうです。

 私たち、自分の常識、判断に留まってしまう者ですが、
その御思いのとおりに、おことばのとおりに、立ち上がって行動する者に、
一歩踏み出してみて、御業を体験する者もにしていただけるのだそうです。
だから、「御霊(聖である霊と呼ばれる方)に満たされなさい」(エペソ5:15)と。

今日も。

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

望みは、この方に置いて

主よ。何に望みをかけたらよいのでしょう。
私はあなたを待ち望みます。
詩39:8

 イエスは病の娘に言われた。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。
安心して行きなさい。」
ルカ8:48

 マタイ5:17~24
 エゼキエル書2:1~3:3(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/21;土)

 私たちは、自分の終わりを思うとき、自分のはかなさを知ることになります。
「私の一生は、神であるあなたの前では、ないのも同然です。
まことに、人はみな、盛んなときでも、まったく空しいものです」(詩篇39:4~5新改訳)と。

 けれども、私たち、自分自身に望みはかけられなくても、
天の神、主に望みをかけていいのだそうです。


 イエスが、会堂管理者ヤイロの家に向かっておられたとき、
大勢の人がひしめき合い、押し合いながらイエスについて行っていたのだそうですが、
そのとき、一人の女性が、イエスの衣の裾についているふさにさわったのだそうです。
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えて。

 この女性は、12年の間長血をわずらっていて、
多くの医者からひどい目に会わされて、
自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、
だれにも直してもらず、かえって悪くなる一方だったのだそうです(マルコ5:26)。

 イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」と言われたのだそうです。
その女性は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、
御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、
たちどころにいやされた次第とを話すと、
エスは、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。
安心して行きなさい」と言われたのだそうです(ルカ8:43~48新改訳)。

私たちも、もう、何にも望みがかけられないときにも、
この方、天の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方には望みがあるのだそうです。

 イエスは、求める者に、律法学者やパリサイ人の義、
神の律法を自分の力で守ろうとして努力している人の義にまさる義を
与えて下さるのだそうですから(マタイ5:17~24)。

 イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちの心に、〔父である神〕が私たち一人ひとりに思っておられる御思いを置いてくださり、
心のほうから、私たちが〔父である神〕と思いを一つにするようにしてくださり、
〔父である神〕が、私を通してしようと思われることをしていく者にしてくださるのだそうです。

 

 私たち、自分自身には望みがないまま、この方に望みを置いて、安心して、出かけて行っていいのだそうですから。
今日も。

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

男と女が、それぞれ、特徴をもって補い合うようにと

 神は人を男と女に創造された。
創造の日に、彼らを祝福されて、
人と名付けられた。
創世記5:2

 尊敬をもって
互いに相手を優れた者と思いなさい。
ロマ12:10

 ロマ(14:20b~15:1)15:2~6
 エゼキエル書1:22~28(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句10/20;金)

 天の神、主は、私たち人間を、男と女に創造されたのだそうですが、
「みんな、同じに」ではなく、
それぞれ、違っていて、
相手が、自分の持っていないものを持っている、
互いに相手が自分よりも優れたものとして尊敬し合うように創造されたようです。

 大量生産のビスケットのように、
十把ひとからげに、みんな同じに造られたのではなく、
それぞれに、細かい御思いをもって、
個性的に、それぞれ、違ったものとして造られているのだそうです。
互いに尊敬し、相手を大切に思い、
愛において一つになり、互いに補い合う者ようにと。

 イエスも、ご自分を喜ばせることはなさらないで、
私たちの受けるはずのそしりをご自分の身に受けてくださったのだそうです。
それで、私たちも、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕の御思い、イエスの御思いが心に来るとき、
エスと思いを一つにする者となり、
自分を喜ばせることよりも、隣人を喜ばせ、
その人の徳を高め、
その人の益になることを願っていくようにしていただけるのだそうです(ロマ15:1~2)。
 今日も。

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

大きく、深い、御計らいによって

主よ、あなたの御業はいかに大きく、
計らいはいかに深いことでしょう。
詩92:6

 キリストに根を下ろして造り上げられ、
教えられたとおりの信仰をしっかり守って、
あふれるばかりに感謝しなさい。
コロサイ書2:7

 ガラテヤ書5:13~18
 ガラテヤ書5:13~18
 エゼキエル書1:1~~21(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句10;19)


天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方の御業、
その御計からいは、大きく、深いというのですね。
創造の御業についてもそうですが、
私たちのこの歴史を導いておられる御業、
そして、私たち一人ひとりに現してくださる御業、その御計らいは。

ご計画の時が満ちて、〔父である神〕は、この人間の歴史の中に、
独り子である方、〔御子である神〕を、預言のことばのとおりに、
ベツレヘムで、
「女の子孫」として(創世記3:15)、
ダビデの子孫である一人の貧しい処女マリアの胎を通して生まれさせ、
この方がおよそ33歳のころ、エルサレム城外で十字架刑で処刑され、
神にそむく者、反逆した者として、天と地の間に高く掲げられたのだそうです。

そして、このイエスの処刑によって、
私たち、すべての人間の「そむき」、「的外れ」の責任の処罰が終わったもの、完了しているものとしてくださって、ご自身との和解を提案してくださっているのだそうです。

 そのうえで、これを受け入れる人々に、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって私たち一人ひとりに思っておられる御思いを、それぞれの心に置いてくださって、
私たちがご自身と同じ思いを思い、一つ心になるようにしてくださるのだそうです。

それで、これをもらった、受け取った人たちは、
〔父である神〕と思いを一つにしておられるイエスの御思いに根を下ろし、
エスの御思いで行動する者となり、
〔父である神〕への信頼がいよいよ強くされて、
あふれるばかりの感謝で満たされるようになるのだそうです。

〔御霊〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって歩む者にしていただけて、
今までの、自分自身の理性による善悪の判断だけで行動していた生き方から解放され、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る、
〔父である神〕の御思いによって行動する者にしていただけるのだそうですから(ガラテヤ5:13~18)。

 〔父である神〕が私たちを愛していてくださる、その愛の御思いが心に来て、
その心に来た御思いによって、
隣人を自分自身のように愛する、大切に思うようにもしていただけるのだそうですから。
〔父である神〕の御計らいのとおりに。
今日も。

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

間に合うもの、役に立つものにしていただけて

なぜ主の言葉を侮り、
わたしの意に背くことをしたのか。
サムエル記下12:9

 神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。
そこには、「主はご自分の者たちを知っておられる」と、
また「主の名を呼ぶ者は皆、
不義から身を引くべきである」と刻まれています。
Ⅱテモテ2:19

 雅歌8:4~7
 ルカ18:18~30(通読箇所) 
   (ローズンゲン日々の聖句10/18;水)


 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
預言者ナタンを通して、ダビデ王に言われたのだそうです。

イスラエルの神、主はこう仰せられる。
『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、
サウルの手からあなたを救い出した。
さらに、あなたに主人の家を与え、
あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、
イスラエルとユダの家も与えた。
それでも少ないというのなら、
わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。

 

それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、
わたしの目の前で悪を行ったのか。
あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、
その妻を自分の妻にした。
あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ』」(Ⅱサムエル12:7~9新改訳)、と。


彼ら(ヒメナオとピレト)は、真理からはずれてしまい、
復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。
それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、
それに次のような銘が刻まれています。
「主は、ご自分に属する者を知っておられる。」また、
「主の名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」

大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。
また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
ですから、だれでも自分自身をきよめて、
これらのこと(何の益にもならず、聞いている人々滅ぼすことになる、ことばについての論争、邪悪な無駄話
2:14、16)を離れるなら、
その人は尊いことに使われる器となります。
すなわち、清められたもの、主人にとって有益なもの、
あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

それで、あなたは、若い時の情欲を避け、
きよい心で主を呼び求める人たちとともに、
義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
無知な思弁を避け、争ったりしないで、
むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、
反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい(Ⅱテモテ2:18~25)、と。


私たち、天の神、主に話していくことをせず、
天の神、主に願うことをせず、
この時のダビデ王のように、天の神、主をあなどり、
自分の理性の判断で、自分が判断した善し悪しに従って行動する者です。

 けれども、イエスの十字架刑での死を自分の死としていただき、
墓に葬られ、三日目に死者の中から、新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方によって、心に、〔父である神〕が思っておられる御思いを置いていただいて、
その御思いについて行く生き方をする者は、きよめられた、

神がしようと思われる御業に間に合う、役に立つ者に
していただけるのだそうですね。
今日も。

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]