風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

異国の地で、故国に帰る日を待ち望む人のように

私たちは皆、
キリストの裁きの座の前に
立たなければなりません。
Ⅱコリント5:10(11/15の週の聖句)

 

人よ、
何が善であり、
主が何をお前に求めておられるのかは、
お前に告げられている。
正義を行い、
慈しみを愛し、
へりくだって神とともに歩むこと、
これである。
ミカ書6:8

 

清い心で主を呼び求める人々と共に、
正義と信仰と愛と平和を
追い求めなさい。
Ⅱテモテ2:22

 

 マタイ25:31~46
 詩137(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句11/15;Ⅲ日曜)

 


 私たち、人間は、
死んだら、それでもう全部終わるように思っています。
けれども、聖書が告げるところによると、
終わりの日には、私たち一人一人は、
イエス・キリストの裁きの座の前に
現れることになるのだそうです。
ひとり残らず。

 

 善であれ悪であれ、
それぞれ、この世にいた間、
肉体においてした行いに応じてさばきを受けるために。

 


 天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と
名乗られる方(出エジプト3:14)は、
ご自分が私たちに望んでおられることを告げておられます。

 

 自分の「的外れ」の実態を認めて、
エスによって来てくださる
【聖である霊】と呼ばれる方を受け入れ、
この方によってご自身と思いを一つにして、ともに歩み、
正義、公正を行い、誠実、いつくしみを愛し、
義と信仰と愛と平和を追い求めてほしい、と。

 

 

 イエスは、私たちが、
最も小さい者の一人にしたことも
ご自分にしてくれたことと思っていてくださるのだそうです。

 

 最も小さなものが、空腹であったときに食べ物を与え、
渇いているときに飲ませ、
旅人であったときに宿を貸し、
裸のときに服を着せ、
病気をしたときに見舞い、
牢にいたときに訪ねたことを。(マタイ25〕31~46)

 

 

 バビロンの地で捕囚となっていた人たちが、
エルサレムを思っていたように、
私たちも、やがて帰る天の御国を思いながら(詩137)、
エスを通して来てくださる
【聖である霊】と呼ばれる方が私たちの心に置いてくださる
【父である神】の御思いについて行って。

この新しい週も。

 

 

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