風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

貧しい人、悩む人の希望が失われることは、決してない、のだそうですから

乏しい人は永遠に忘れられることなく、
貧しい人の希望は決して失われない。
詩9:19

 主が来られる日に、
私たちはいつまでも主と共にいることになります。
ですから今述べた言葉によって
励まし合いなさい。
Ⅰテサロニケ4:17~18

 ヘブル書13:17~21
 Ⅰテサロニケ4:1~12(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/24;金)


 貧しい人、乏しい人が忘れられることはなく、
悩む人の希望が失われることはないのだそうです。

すべてのことを見ておられ、公正にさばく方、
私たちの身代わりになり、
私たちに代わって、十字架刑での処刑を受けてくださった方、
墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、死人の中より復活され、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
神の国のことを語った後、
弟子たちの見ている前で、
オリーブ山から、
天の〔父である神〕の右の座に帰られた、
あのイエスが、
天の雲に乗って、再び来られる日、
私たちは、この肉体を、瞬間的に、新しい霊のからだに変えていただき、
引き上げられ、空中で主イエスとお会いし、
いつまでもイエスと共にいることになるのだそうですから

永遠の契約の血による羊の大牧者、
私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、
イエス・キリストにより、
御前で御心にかなうことを私たちのうちに行い、
私たちが御心を行うことができるために、
すべての良いことについて、
私たちを完全な者としてくださるのだそうです(ヘブル13:20~21)。

 それで、そのイエスを通して来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちが聖くなるようにと
私たちの心に、
不品行を避け、
自分のからだを、聖く、尊く保ち、
情欲におぼれず、
また、このようなことで、
兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないで、
落ち着いた生活をし、

自分の仕事に身を入れ、
自分の手で働き、
乏しいことがなく、
外の人々に対してりっぱにふるまうことができる思いも
置いてくださるのだそうです。

 

 主イエスにお会いするとき、
汚(けが)れた者ではなく、
清潔な者としてお会いできるようにと、
働いてくださるのだそうですから。

今日も。

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御言葉によって、私たちを力づけようと

あなたの裁きはとこしえに堪えることを思い、
主よ、わたしは力づけられます。
詩119:52

 マリアは主の足もとにすわって、
その話に聞き入っていた。
ルカ10:39

 ルカ15:1~10
 Ⅰテサロニケ3:1~13(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/23;木・祝)


 天の神、主の、とこしえからの定めは、私たちを慰め、力づけてくれるようです。
ベタニヤのマリヤは、
姉のマルタが、イエス一行をもてなすのに気を使い、
忙しくしているにもかかわらず、
エスの足もとに座り込み、
エスの話しに聞き入っていたのだそうです。
姉はそのマリヤを責めましたけれど、
エスは、「どうしても必要なことは一つだけです。
マリヤはその良いほうを選んだのです。
彼女からそれを取り上げてはいけません」と言われ、
マリヤの態度を大変喜ばれたのだそうです。

天の神、主は、私たちが御言葉を聞くことを、
そして、今までの、
自分の〔生まれた時からの私〕という霊から出て来る思いによって生きているところから、
180度、向き変り、
エスによって派遣される〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方によって、ご自身の御思いを心に置いてもらって、
ご自身と思いを同じくし、心を一つにして生きていくようになることを喜ばれるのだそうです。

すると、神の御使いたちに喜びがわき起こるのだそうです(ルカ15:1~10)。

 天の神、主は、私たちの心を強め、
私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、
私たちを聖く、責められるところのない者にしようと思っていてくださるのだそうですから(Ⅰテサロニケ3:11~13)。

今日も。

 

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ご自分の相続財産のように

お救いください、
祝福してください、
あなたの嗣業の民を。
とこしえに彼らを導き養ってください。
詩28:9

 イエスの言葉:
わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。
その羊も導かなければならない。
その羊もわたしの声を聞き分ける。
こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、
一つの群れになる。
ヨハネ10:16

 ルカ13:(1~5)6~9 
 ロマ書2:1~11
   Ⅰテサロニケ2:13~20(通読箇所)(ローズンゲン日々の聖句11/22;水)

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
ご自分のものとなった民を救い、祝福し、
羊飼いが自分の羊を草のある所に導き、養うように、
導き養ってくださる方なのだそうです。

エスは言われたのだそうです。
「この囲いに入っていないほかの羊も導かなければならない」と。
ご自分の民となっていない人々も、という意味でしょうか。

 天の神、主は、ひとりでも滅びることを望まず、
すべての人が立ち帰ることを望んで、
待っていてくださる方なのだそうです。

 牛のように鼻に輪を通して、あるいは、手綱をつけて、
強引に、引っ張るのではなく、
羊飼いが一匹一匹の名を呼ぶと、
羊は自分の羊飼いの声を聞き分け、
先頭に立って行く羊飼いにトコトコとついて行くように、
エスの言葉を聞き分けて、
自由意思でついてくることを願っておられるようですね。

 そして、神の民となっている者も、そうでなかった者も、
一人の羊飼いに導かれる、一つの群れになるようにと。

実のならないいちじくの木を、
「切り倒してしまいなさい。
何のために土地をふさいでいるのか」と言うぶどう園の持ち主に、
「ご主人。どうか、ことし1年そのままにしてやってください。
木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
もしそれで来年、実を結べばよし。
それでもだめなら、切り倒してください」と執り成し、
世話を続けるぶどう園の番人のように(ルカ13:6~9)。

 神は、えこひいきなどはなさらない方。
ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになる方。
忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、
永遠のいのちを与え、
党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、
怒りと憤りを下されるのだそうです。

 患難と苦悩とは、
神の民と呼ばれている人をはじめ、神の民でない人にも、
悪を行うすべての者の上に下り、

栄光と誉れと平和は、
神の民とされている人をはじめ、神の民でない人にも、
善を行うすべての者の上にあるのだそうです(ロマ2:1~11)。

 〔父である神〕は、私たちにも、
「神の民」(あるいはクリスチャン)であるかどうかにかかわらず、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、
〔生まれた時からの私〕という霊から出て来る思いは、
エスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、
死んだものから出て来た思いであると認めて、
そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る、
ご自身の御思いを聞き分け、
羊飼いについて行く羊のように、
その御思いについて行き、
ご自身と思いを一つにし、
行動を一つにする者となってほしいと
待っていてくださる方のようですね。

 一つの群れとなって、
同じ祝福の中を進むようにと。
今日も。

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行いが、神にあってなされる生き方を

憐れみ深く、貸し与える人は良い人、
裁きのとき、彼の言葉は支えられる。
詩112:5

 人にしてもらいたいと思うことを、
人にもしなさい。
ルカ6:31

 ヨハネ3:17~21
 Ⅰテサロニケ2:1~12(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/21;火)

情け深く、人には貸し、自分のことを公正に取り扱う人は幸せ、なのだそうです。
この世を終えて神の前に立つとき、彼の言葉は支えられるのだそうですから。

エスは言われたのだそうです。
「自分が、人にしてもらいたいと思うとおりに、人にもしなさい」と。
私自身は、多くのものを持っているわけではありませんが、
今日の生活に困るわけでもありません。
けれども、貸し渋る者、与えたくない者です。

神が御子(イエス)を世に遣わされたのは、
世をさばくためではなく、
御子によって世が救われるため、なのだそうです。
御子を信じる者はさばかれない。
信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでに、さばかれている。
そのさばきというのは、
光が世に来ているのに、光よりもやみを愛し、光を憎み、
その行いが明るみに出されることを恐れて、
光のほうに来ないこと、なのだそうです。
しかし、真理を行う者は、光のほうに来るのだそうです。
その行いが神にあってなされたことが明らかにされるために。

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)、
私たち自身である〔生まれた時からの私〕という霊を、
御子イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑されたもの、死んだものとしてくださり、
受け入れる者に、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によってご自身の御思いを、受け入れる者の心に置いてくださり、
受け入れる者がご自身と一つ心になって生きる、
ご自身がしようと思われることをしていく者にしてくださるのだそうです。
それで、この新しい生き方をいただいていいる者は、
その行いが、〔生まれた時からの私〕という霊から出て来た思いによってではなく、
神から来た思いによってなされていることが明らかにされるという、
そのさばきの日がうれしい、待ち遠しい日になるのだそうです。
今日も。

 

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人生という岩を、岩の上に建てるか、砂の上に建てるか

あなたたちは私モーセが命じる言葉に
何一つ加えることも減らすこともしてはならない。
私が命じたとおりに
あなたたちの神、主の戒めを守りなさい。
申命記4:2

 エスは群衆に、
「わたしの母、わたしの兄弟とは、
神の言葉を聞いて行う人たちのことである」
とお答えになった。
ルカ8:21
 マタイ7:21~27(28~29)
 Ⅰテサロニケ1:1~10(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/20;月)

 私たち、天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方から、
「わたしたちが一つであるように
わたしたちと一つになる者を」(創世記1:26、ヨハネ17:21~22)
と願われて造られながら、
その、「一つ」の場に留まることを止め、
もっと素晴らしい者に、造り主の上に立つ者になろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている」(創世記3:5、22)者
なのだそうですね。

 その、「的外れ」になっている自分の理性の判断によって、
天の神、主の御言葉に、
何かを加えることも、減らすこともしてはならない、のですね。


エスは言われたのだそうです。
「神の言葉を聞いて行うひとたちこそ、
わたしの母、わたしの兄弟、わたしの家族だ」と。

羊と山羊とがより分けられるというその日、
同じように、イエス・キリストの名によって預言をし、
悪霊を追い出し、奇蹟をたくさん行った人たちが、
この、〔生まれた時からの私〕という霊から来る思いによって
それをしていたのか、
天の神、主の御思いによって
それをしていたのかで分けられていくようですね(マタイ7:21~27)。

 私たちにも、力と聖霊と強い確信とによって、
この神の言葉が伝えられているのですね。
そして、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、
人間が考え出した神々から立ち返り、
生けるまことの神に仕えるようになり、
神が死者の中からよみがえらせなさった御子、
すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエス
天から来られるのを待ち望む人々が起こされているのだそうですから(Ⅰテサロニケ1:5~10)。


 イエスから派遣される〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
今も働いておられ、
〔父である神〕の御思いを私たちの心に置いてくださるのだそうです。
だから、その御思いに、
自分の考えを付け加えたり、差し引いたりしないで、
御思いにとおりについて行くといいのだそうです。
「わたしの愛する子よ」と呼んでいただきながら。
今日も。

 

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御思いについて行き、栄光を受ける、その時を

私たちは皆、
キリストの裁きの座の前に立たなければなりません。
Ⅱコリント5:10(11/19の週の聖句)

 あなたの神、主は、
あなたの手の業をすべて祝福された。
申命記2:7

 ですから、大切なのは、
植える者でも水を注ぐ者でもなく、
成長させてくださる神です。
Ⅰコリント3:7

 マタイ25:31~46
 詩63(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/19;Ⅲ日)

 私たちは皆、死んだ後、復活して、キリストの裁きの座に現れて、
善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて
報いを受ける時が来のだそうですね。

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、モーセを通して言われます。

「あなたがたは、エジプトを出た後の、荒野での40年の旅で、
天の神、主がイスラエルの民がしたすべてのことを祝福し、
この広大な荒野の旅を見守り、
共にいたので、
何一つ欠けたものはなかった。
だから、同族、エサウの領土内を通るとき、争いを仕掛けてはならない」、と。

 使徒パウロは、コリントの信徒たちに書き送っています。

「あなたがたは、私はパウロにつくとか、私はアポロにつくとか言い合って、
ねたんだり争ったりしています。
私が植えて、アポロが水を注ぎました。
しかし、私たちは神に用いられ、
天の神、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのであって、
大切なのは、成長させてくださる神です」と。

〔父〕である神は、〔御子〕である神を人間イエスとして、人の世に遣わされ、
この方がおよそ33歳のころ、
私たち、すべての人間の身代わりとして、
ユダヤ人の指導者たちのねたみとローマ軍の手を用いて、
十字架刑で処刑されました。

 そして、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって、
神にそむいている私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を、
この、イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、受け入れる者に、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、
この方によって、私たちの心にご自身の御思いを置いてくださり、
私たちが、ご自身と思いを一つにし、心を一つにして、
ご自身がしようと思われることをしていく、
新しい生き方を生きるようにしてくださるのだそうです。

それで、パウロやアポロが用いられ、
御思いのとおりをしていったように、
私たちも用いていただけるのだそうです。

 神が私たちを祝福し、与えていてくださるものを用いて、
空腹の人に食べる物与え、
渇いている人に飲ませ、
旅人に宿を貸し、
裸の人に着る物を与え、
病気をしている人を見舞い、
牢にいる人を訪ねるように、と(マタイ25:31~46)。

 そして、与えられている(預けられている)ものを御思いのとおりに用いたか、
清算される時があるのだそうですね(マタイ25:14~30)。
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に置かれた御思いについて行き、
与えられているもの(預けられているもの)を御思いのとおりに用いていって、
御国を受け継ぐ分と、
〔生まれた時からの私〕から来る思いでやっていって、
外の暗闇に放り出される分とが切り分けられる、
そのような時が。

私たちも、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる御思いについて行き(ガラテヤ5:24~25)、
ダビデのようにうたいたいですね。

「神よ。あなたは私の神。

私はあなたを切に求めます。

水のない、砂漠のおとろえ果てた地で、

私のたましいはあなたに渇き、

私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。

私は、あなたの力と栄光を見るために、

こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。

あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、

私のくちびるは、あなたを賛美します。

 

それゆえ私は生きているかぎり、

あなたをほめたたえ、

あなたの御名により、両手を上げて祈ります。

私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、

私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。

ああ、私は床(とこ)の上であなたを思い出し、

夜ふけて私はあなたを思います。

あなたは私の助けでした。

御翼の陰で、私は喜び歌います。

私のたましいは、あなたにすがり、

あなたの右の手は、私を支えてくださいます(詩篇63:1~8)、と。

この新しい週も。

 

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輝く光の中を

闇の中を歩む民は、大いなる光を見、

死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。イザヤ書9:1

 キリストが私たちのためにご自身を献げられたのは、
私たちをあらゆる不法から贖い出し、
良い行いに熱心な民を
ご自身のものとして清めるためだったのです。
テトス書2:14

 マルコ13:1~8
 エゼキエル書47:1~12(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/18;土)

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が、
天地を創造されたときも、
最初、地は闇が覆っていたのだそうです。
そして、神が「光があれ」と仰せられると光があるようになったのだそうです(創世記1:1~4)。

 私たちは、行く先もわからず、暗やみの中を手探りしながら歩いているようなもの。
その私たち人間の世界に、
永遠の初めから「父である神」とともにおられ、
この天地万物を創造された〔御子である神〕が、
人の光として、人間イエスとして、
私たち人間の世界に来て下さったのだそうです(ヨハネ1:1~14)。

 この方は、人の罪を負い、身代わりとなって献げられる犠牲の小羊として、
私たちすべての人間の身代わりとなり、
私たちすべての人間が受けるはずの刑罰をご自身に背負って、
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。
私たちをあらゆる不法から贖い出し、
〔父である神〕と心を一つにし、
行動を一つにする
ご自身の民とするために。

 私たちは、このイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕の御思いを心に置いていただいて、
その御思いによって生きる者に、
聖さと光の中を歩む者にしていただけるのだそうです。


 この世界は、いよいよ、
「私こそキリストだ」と名乗る者が現れ、
戦争のうわさを聞くようになり、
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、
方々に地震があり、ききんも起こるようになるのだそうです(マルコ13:1~8)。
しかし、イエスとともに生きる者は光の中を歩むのだそうです。
今日も。

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