風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

生きよ! 善を求めて!

善を求めよ、
悪を求めるな。
お前たちが生きることができるために。
アモス書5:14

 

 互いにこのこと(愛の慰め)を心がけなさい。
それはキリスト・イエスにもみられるものです。
フィリピ書2:5
 

 マタイ12:1~8
 マタイ15:21~28(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句9/⑯;月)


 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方はおっしゃるのですね。

「善を求めよ」と。

「公義を水のように、
正義を川のように流れさせよ」、と。

 

 一生懸命に努力して、
自分の内にないものを絞り出すように、
というのではないのだそうです。

 

 天の神、主は、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている私自身、
「的外れ」になっている〔生まれたときからの私〕という霊を
エスが受けてくださった十字架刑での処刑に合体させ、
処刑が終わっているもの、
死んだものとしていてくださっていることを認めるように、
とおっしゃっておられるのだそうです。

 

 そして、もう一人の助け主である方、
【聖である霊】と呼ばれる方をお迎えするように、と。

 

 この方によって
【父である神】の御思いを心に置いていただき、
心のほうが【父である神】と同じ思いを思うように、と。

「わたしと心を一つにして歩もうよ」、と。

 

 イエスが、
自分からは何事も行わず、
自分の望むことを、ではなく、
エスを遣わした方、
【父である神】のみこころが成るようにと
求めていかれたように(ヨハネ5:19、30)。

 

 【聖である霊】と呼ばれる方は私たちの心に
【父である神】御思いを置いてくださるのだそうです。
 

 一致を保ち、
同じ愛の心を持ち、
心を合わせ、志を一つにしたい、との。

 

 何事でも自己中心や虚栄からするのではなく、
へりくだって、互いに人を自分よりも優れた者と思い、
自分のことだけではなく、
他の人のことも顧みる(ピリピ2:2~4新改訳)、思いを。

 

 自分の基準で人を罪に定めるのではなく、
「いけにえではなく、あわれみを好む」(マタイ12:7)思いを。

 

 あのカナン人(異邦人)の女が、イエスに、
「主よ。ダビデの子よ(救い主、王であるキリストに対する呼びかけ)。
私をあわれんでください。
娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです」と叫び続け、

 

 イエスから無視され、
「わたしは、イスラエルの家の
失われた羊以外のところには遣わされていません。

 子供たちのパンを取り上げて、
子犬に投げてやるのは良くないことです」と拒否されても、

 

 「主よ。そのとおりです。
ただ、子犬でも
主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と、
自分を子どもではなく、子犬の場に置いて、
なお、神の憐れみに信頼し続けて行った、
あの思いを。

 

 私たちにも。
今日も。

 

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